泉涓太郎について

 

 ある方とお話をしていて、黒石が主宰した雑誌『象徴』の前身ともいえる『鬱金帳』に話が及んだ。私は、その時点で知る限りのこと──『象徴』1巻1号に『鬱金帳』第一冊から第五冊(おそらくこれで全て)までの総目次があるということ※、『鬱金帳』第一冊のみ東大の新聞雑誌文庫に所蔵されていること、そしてこれは推測の域を出ないが、そのマニフェスト的な文章からおそらく「象徴」という雑誌名は『鬱金帳』の面々の意見で決まったのではないかということ──をお伝えした。

(※ただし、第一冊の随筆ページ「玻璃鏡」(泉涓太郎「鬱金帳漫筆」、椿紅一郎「寸言卑話」、梢朱之介「含羞草」)が記載されていないことから、完全な目次ではなく、あくまで作品のみを記したものであるようだ。)

(※「ある方」にご助言を賜り、少々改稿いたしました。誠にありがとうございました。)

 

鬱金帳』総目次

 これを機縁として、改めて『鬱金帳』について調べ直してみた。といっても、すぐにNDL等に行くことはできなかったので、まずNDLデジタルコレクションで検索してみた。すると、非常に興味深い記述を発見した。

 

 [旧制第五高等学校で]クラスの文學靑年ばかりで廻覽雜誌を出す事になつた。深川經二が戲曲、後藤壽夫と私とが小說を書き、あとは詩、俳句、短歌の類であった。深川は後私と同じく英文科に入り作家志望で甚だ浪漫的な耽美的な傾向をもつてゐた。大學時代は「鬱金帳」「さそり」等の同人で怪奇な筆を揮つた。間もなく上海に渡り上海每日の政治部長として、かの有名な成都事件の第一の犧牲者としてたおれた。

(森本忠『僕の天路歷程』ぐろりあ・そさえて、1939年、20-21頁 - 国立国会図書館デジタルコレクション)

 

 成都事件というのは、受験勉強で名前を聞いたことがあるような気がしたが、どのような事件か思い出せなかった。調べてみると、1936年8月24日、四川省成都において中国人暴徒らによって日本人記者らがリンチを受け、うち深川と渡邊洸三郞は死亡、他二人が重傷を負ったという事件であった(成都事件 - Wikipediaには深川と渡邊の遺体の写真さえある)。この事件に関しては多くの記事や資料があるため、各自ご調査いただければ幸いである。

 深川の経歴は次の通りである。

 

 明治三十六年佐賀縣神崎郡脊振村字倉谷に生る。縣立佐賀中學校、第五高等學校を經て東京帝國大學英文科を卒業し、昭和七年上海每日新聞社に入社し編輯長として令名があつた。昭和十一年七月三十日親友渡邊洸三郞と共に成都總領事館再開を機とし、同地方の情勢報道の任を帶びて岩井總領事代理と同船八月十七日重慶着、岩井領事代理は途中官憲の妨害に遭つて本國外務省に請訓中なるため、彼は渡邊洸三郞及び滿鐵上海出張所々員田中武夫、漢口日本商人瀨戶尙と共に四川省內遊歷の護照を得て二十三日成都に到着、同市の大川旅館に宿泊中、兇暴なる排日市民大會の群集に襲擊され、田中武夫、瀨戶尙は重傷を蒙つて督辨公署に收容されたるも、彼は渡邊洸三郞と共に殘虐なる暴民の兇手に仆れた。享年三十四。

 法號は經德院殿文興道隆淸居士、遺骨は鄕里佐賀縣神崎郡脊振村の墓地に葬られた。遺族には明枝未亡人との閒に萬里子、亞紀子の二女がある。(渡邊洸三郞傳參照)

  蜀犬に吠えかけられる暑さかな

 入蜀後友人に送つた右の卽興的な俳句が彼の最後の音信であつた。

(『東亞先覺志士記傳 下卷』黑龍會出版部、1936年、795頁 - 国立国会図書館デジタルコレクション  ※ちなみに偶然ながら同頁に立項されている小島七郎も黒石と深い因縁がある。拙稿「大泉黒石の〈シベリア行〉追跡」参照)

 

 なお森本忠『僕の天路歷程』142-143頁によると、帝大英文科に入ってから「深川經二は高踏的な別の仲間を作つて」おり、「たうとう學校を放擲してしまつた」という。また、深川と渡邊の旧友で、深川と上海毎日新聞の同僚でもあった中村常三による追悼文によると、深川は「東大三年中退後、暫く飜譯などをやつてゐた」という(中村常三「成都遭難の友を弔ふ」『社会及国家』246号、一匡社、1936年、89頁 - 国立国会図書館デジタルコレクション)。以上から、おそらく帝大は中退したものと推測できる。NDL所蔵の『東京帝国大学一覧』は大正後期と昭和初期のものがいくつか欠落しているため、彼がどのタイミングでドロップアウトしたのか正確には確認できないが、『東京帝国大学一覧 從大正12年大正13年』には文学部の大正十二年入学の学生の中に「深川經次 長崎」とあり、これが彼かもしれない※(東京帝国大学一覧 從大正12年 至大正13年 - 国立国会図書館デジタルコレクション)。順当に進級すれば1926年3月に卒業のはずだが、この年の卒業生を記録した『一覧』はNDLにはない。その翌年のものには昭和二年卒業の学生が記録されているが、ここには深川の名前はない(東京帝国大学一覧 大正15至昭和2年 - 国立国会図書館デジタルコレクション)。一方で森本忠八=森本忠はこの年3月の英文科卒業生として挙げられている。 

(※深川が第五高等学校在学中の『一覧』──『第五高等学校一覧・第十三臨時教員養成所一覧 自大正九至十年』 - 国立国会図書館デジタルコレクション『同 自大正十至十一年』『同 自大正11至12年 』──の「生徒氏名」には「深川經次 佐賀」とある。また『同 自大正12至13年』の「卒業者氏名」の「高等科第三十二回(大正十二年三月)卒業」には「東文 深川經次 佐賀」とある。同級には森本忠八の名前も見える。以上から、帝大一覧の「深川經次 長崎」というのはやはり彼のことだろう。「経次」としている資料はこれ以外にもいくつかあるため、こちらが本名だった可能性もある。)

 

 さて、『鬱金帳』に参加していたとなると、『象徴』に参加していた可能性も極めて高い。このような悲惨な最期を遂げた人間が黒石とも関係していたかもしれないと思うと、運命の不思議を感ずるとともに、俄然この人物への興味が湧いてくる。

 「稀覯本の世界」に掲載されている総目次を見る限り、深川経二らしき名前の人物は見当たらない(稀覯本の世界 - 象徴 総目次)。となると、何らかの筆名を用いているということになりそうだ。森本著によると、深川は『さそり』と『鬱金帳』の両方に参加しているという。『さそり』については詳細が分からないが、おそらく日本近代文学館に2號(大正14年7月)のみ所蔵されている『蠍』(蠍發行所)だろうと検討をつけ、目次と奥付の遠隔複写を申し込んだ。

 

目次

奥付

 さて、困ったことに、『蠍』と『鬱金帳』の両方に参加している人物は二人いることが分かった。泉健太郎(おそらく泉涓太郎)と、梢朱之介である。改めて『鬱金帳』のメモを読み返してみると、梢朱之介「編輯記」の次のような記述が目に留まった。「憤ることありて「さそり」を脫黨したる泉と余と相會してよからぬことを密談せる時、余らがためには高等學校の懷かしき怠け友達にして帝大經濟科に籍を置く椿紅一郞來れり。(…)余ら感激して共にたくらむ所あり。かくて『鬱金帳』發刊の企て成る。」「泉は來春にイギリス文學科の卒業をひかへたれば、ここ一年は余が編輯にあたることとなりたり。」ここから、泉と梢が共に『蠍』を脱会して『鬱金帳』を創刊したこと(つまり『蠍』→『鬱金帳』→『象徴』という流れがあったことが分かる)、二人がおそらく帝大生であること、泉はここの英文科を「來春」=1927年春に卒業する見込みであったこと(そしておそらく梢はそうでないこと)が分かる(ただし上述のように1927年3月の卒業生の中に深川はいない)。

 次に、泉涓太郎と梢朱之介でNDLデジタルコレクションを検索してみた。すると、泉涓太郎に関しては『鬱金帳』や『象徴』の目録等、一方で梢朱之介に関しては同様の目録に加えて、『─翠松めぐる─ 旧制高等学校物語(松江高校編)』の「文芸部々史」がヒットした(『─翠松めぐる─ 旧制高等学校物語(松江高校編)』財界評論新社、1967年、357頁 - 国立国会図書館デジタルコレクション)。これによると、大正十四年三月十日に発行された松江高校の校友会誌第七号に、梢朱之介の小説「葵のかげ」が掲載されたという。

 つまり、消去法で考えれば、泉涓太郎こそが深川経二だった、ということになる。傍証として、泉涓太郎は『象徴』2巻1号にポーの翻訳作品「火焔の馬」を発表しているが、森本著(83頁)には深川が「盛んにエドガー・アラン・ポーを激賞し」たというくだりがある。当時の彼の雰囲気も伝えるため、少しばかり長めに引用しておく。

 

 さて我々の仲間の中で深川經二だけが學校についぞ出てこないので、心配して、僕ら三人[森本、澁田靜雄、田邊英亮]で彼を訪ねたことがあつた。彼の下宿は雜司ヶ谷に在つたが、行つてみると午後の二時といふのにまだ雨戶を閉めて寢てゐた。僕らが訪れると彼はひどく起されたことで不機嫌であつた。澁田が「さう怒るなよ」となだめると、舌打ちをしぶつぶつと言ひながら、それでもアルコールランプで紅茶を沸かしてくれた。やつと一枚開けた窓から光がさし込むと部屋は彼好みの裝飾と亂雜さで、ふと私は五高時代に林房雄等との廻覽雜誌に彼がのせた「綠の部屋」といふメロドラマを想起した。みるとヴエルレーヌ始め佛蘭西のもの、又獨逸語の浪漫派もの、他は支那稗史、猥書の類が堆積してゐた。段々元氣づいた彼は我々を前にして盛んにエドガー・アラン・ポーを激賞し、殊に私が作家志望であることを知つてゐるので私に向つて英文學を學び作家を志すものがポーをよまないといふ法はない、と語つた。彼は彼なりに高踏的な耽美的な生活を送つてゐた。しかし僕らの思想が實生活と觸れ社會情勢と背映して變つて行つたやうに、深川も段々變つて行つた。彼は次第にアナーキズムの方へと近づいて行つたやうである。

 

 「彼は次第にアナーキズムの方へと近づいて行つたやうである」という記述は、黒石への接近を指しているのかもしれない。

 なお、上海毎日新聞社に赴任してからの彼については「上海毎日記者深川経二氏は冷静篤実の士として内外記者団から敬愛されて居た」(貴島外交研究所編「支那の觀た成都事件」『外国新聞論調第一輯』國際經濟硏究所、1936年、69頁 - 国立国会図書館デジタルコレクション)、「餘り酒も飮まず、文藝を愛好し、支那に對しても充分なる理解を有する人格者であつた。同君が怒つたことなどは見たこともない。實に溫和しい、肌ざわりのいゝ、物事を達觀した人だつた」(中村常三「成都遭難の友を弔ふ」『社会及国家』246号、90頁)など、森川が語った学生時代の深川とはまた異なった彼の姿が窺われる。

 

 以上、私の推測が正しければ、泉涓太郎の正体は深川経二であったということになる。本来であれば次に泉涓太郎の作品についても論じるべきであるが、今のところ私の手元には彼の作品が一つもないので、それはかなわない。