『黒石大泉清小伝 〈大泉黒石〉の誕生 附年譜・目録』紹介&DLリンク

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 この度、卒業論文として執筆した大泉黒石の伝記研究を、私家版として少数部発行いたしました。拙稿は国立国会図書館(東京のみ)、日本近代文学館神奈川近代文学館長崎県立図書館郷土資料センターに寄贈いたしましたので、一定期間後にこれらの機関でお読みいただけます。また、インターネットでもダウンロードが可能となっております(黒石大泉清伝 - Google ドライブ)。本ブログでは、拙稿に関する追加や訂正等を発信していければと考えております。

 

 拙稿の内容といたしましては、大泉清が「大泉黒石」として「誕生」するまでの軌跡を中心に検討した伝記研究となっております。主な新発見としては「大泉黒石」「大泉清」以外の筆名で発表された作品群があり、それらの作品から「大泉黒石」の作家業を再検討いたしました。年譜では可能な限り詳細に黒石の足跡を追いました。目録は国松春紀氏の目録に追加する形で作成いたしました。論文としては非常に拙いものではございますが、資料としてはいささかなりとも読者のみなさまのお役に立てるのではないかと愚考いたします。

 

 ご参考までに、本文の「はじめに」を以下に引用しておきます。

 

★☆★

 

はじめに──「大泉黒石」をめぐって

 

 昭和期に多くの滋味深い史伝を残した森銑三は、「人物研究雑感」において伝記研究の初歩を説いている[1]。曰く、優れた伝記とは、「ただ事実が順序立てて述べられているという以上に、その扱われた人物の個性が遺憾なく描き出されて居り、全体が一の作品としての文章美を持っているものといいたい。」さらに、そのような「伝記」足りえていなくとも、「報告書には報告書の意義と価値とがある」として、「新発見の資料を資料として報告し、それに幾分の解説を添えたものなども、報告書として大いに学界を裨益する場合があろう」と述べている。本稿もまた、あたう限り優れた小伝となるべく心掛けたが、それがどれほど果たせたかどうかは心もとない。しかし、「報告書」としては多少なりとも意義のあるものを書けたのではないかと思われる。

 ところで、森銑三には『明治人物逸話辞典』『大正人物逸話辞典』という逸話集がある。参考図書の棚にこれらを見つけたとき、その題名からまず間違いなく大泉黒石の項目があるだろうと思い、目次と索引とに目を通した。ところが、意外なことにそのいずれにも黒石への言及は無い。『大正人物逸話辞典』の「序文」を読むと、むべなるかな、本書で扱われているのは「明治元年から、二十年までに出生した人物」が主で、「二十六年以後に生まれた人々は、加えることをしなかった」という。黒石こと大泉清の生年はちょうど明治二十六年(1893)である。それでは仕方ない、と思ってしばらく本書は読まないままであったが、ある時坪内祐三氏がこれを書評しているのを発見した[2]。坪内氏は、本書に扱われていないのを不審に思った人物として松崎天民宮武外骨、伊藤銀月、梅原北明大泉黒石田中貢太郎を挙げ、「どうやら森銑三はアクの強い人があまり好きではなく、自身のその好悪が所々に反映されているようだ(そしてそれがまた、この辞典を、他の人名辞典とは一味違う魅力的なものにしている最大の要因でもある)」と述べている。黒石と北明は1893年以降の出生なので辞典に漏れたことは必然ではあったが、それはそれとして、確かに氏が挙げた人物は一癖あって扱いに困るような人物ばかりであるし、何より森銑三にはどこか似つかわしくないようだ。

 

 大泉黒石という作家には、曰く言い難い「いかがわしさ」が漂っている。それは単に彼の「混血児」としての風変わりな来歴にのみ拠るのではない。彼の「いかがわしさ」は、その表現・記録の形式にも由来すると考えられる。大泉黒石という人間を知るためには、何よりもまず彼の主著の一つである『俺の自叙伝』を読むことになる。ところが、そこに書かれているのはあまりにも奇想天外な物語であり、当時これを読んだ『中央公論』編集者の木佐木勝が書き残したように、「読んで面白いとは思ったが、少し面白すぎる」[3]。つまり、あまりにも話がうまくできているので、読んでいるうちに事実かどうか疑わしく思われてくるのである。

 実際、自叙伝第一篇が発表された際に久米正雄が指摘したように、よく読むと年代や登場人物の記述に事実との食い違いがあるし、作品内の記述間にも矛盾が散見される。さらに、黒石には他にもいくつかの自叙伝的作品があるが、それらを比較検討してみると地名や時系列等の記述に整合性が取れない場合が多い(なお『俺の自叙伝』に限らず、大泉黒石が自身の半生や身の回りの出来事を題材にして書いた作品群のことを本稿では「自叙伝的作品」と呼ぶことにする)。そのうえ、彼の自叙伝的作品に描かれた彼の幼少期、青年期、労働者時代を裏付ける一次資料は今のところほとんど発見されていない。

 分量の上では大泉黒石による「大泉黒石」の記録が最も多いのだが、それは多分に胡乱なテクストであり、それのみによって信頼性の高い形で彼の生涯を再構築することは不可能である。しかし、第三者による客観的な資料が少ないために、多かれ少なかれ「黒石による黒石」とその自由奔放なエクリチュールを通さなければ「大泉黒石」という人間は知り得ない。つまり、大泉黒石を知るということは、結局は「黒石による黒石」を読むということであり、それは常に「いかがわしさ」と共にあるといえる。この「いかがわしさ」を無視して「大泉黒石」について語ってしまうと事実と虚構のあわいに踏み迷うことになる。一方で「いかがわしさ」と戯れているだけでは伝記研究は成り立たない。

 さらには、『俺の自叙伝』以後の生涯も自叙伝に劣らず型破りで──数え切れないほどの作品を雑誌や新聞に寄稿したり、長編小説『老子』がベストセラーになったり、表現派映画「血と霊」の制作に携わったり、山村や温泉場に入り浸ったり、戦後は横須賀の進駐軍で通訳を務めたり──なんとも論じにくい人なのである。

 しかし、いやそれゆえにこそ、「大泉黒石」は並々ならぬ興味を惹き付けるのであり──自叙伝の第二篇を読んだ木佐木勝は「面白いことは無類だが、面白すぎてすこし頼りがない」と書き残したが[4]、それは頼りがなくなるほど面白いということでもあり──その怪しげな磁場においてこそ、もっと「大泉黒石」を知りたいという欲望が喚起されるのである。ここにおいて、論じることの困難は同時に誘惑に通じている。

 

 それでは、「大泉黒石」にはどのようなアプローチが可能なのだろうか。この作家の再評価ないし再発見は1960年代後半辺りから始まったと言えるが、その頃から2024年現在までの間に論者によって実に様々なアプローチがあった[5]

 伝記の作成・文学史上の再評価・資料の発掘等、オーソドックスな伝記研究で代表的なのは、志村有弘氏と中本信幸氏の仕事である。両氏は70年代から現在に至るまで様々な形で黒石の再評価を行われており、その功績は計り知れない。遺族や旧友への聞き取り調査を含む志村有弘氏の「大泉黒石の文学と周辺」は第一級の資料であるし、氏が当時編集されていた雑誌『文人』(文人の会)において遺児の方々に回想を書く場を与えられたことは伝記研究への重大な貢献であった。特に大泉氵(け)顕(ん)氏(大泉家次男)の一連の「大泉黒石伝」は重要である[6]ロシア文学研究者である中本信幸氏は、ロシアへの黒石の紹介、ロシアにおける黒石の父アレクサンドルに関する調査の依頼(グザーノフ氏)、ロシア文学の観点からの比較文学的アプローチ等、氏にしか成し得ない形で研究を進められた。また氏による菅野青顔氏へのインタビューも、黒石のあまりスポットライトの当てられてこなかった側面を明らかにしており貴重である。

 1988年に『大泉黒石全集』(緑書房)全9巻が刊行されたこともあり、90年代以降は中沢弥氏の作品論をはじめとして様々な観点から黒石が論じられるようになってきた。例えば、大衆文学・怪奇小説・部落問題文芸等の文学史の観点からの再評価が挙げられる(他に、佐相勉氏や四方田犬彦氏の仕事をはじめとして映画史の観点からの研究・再評価も進んでいる)。最近では、清水正氏(文芸批評家、元日本大学芸術学部教授)によるウェブサイトや企画展等を通した黒石の紹介や大泉淵(えん)氏(大泉家四女)へのインタビューがある[7]。大泉淵氏へのインタビューでは、池田康子氏やソロコワ山下聖美氏によるものも大泉家や林芙美子について貴重な情報を提供している。

 書誌学的なアプローチとしては、由良君美氏らによる蔵書の紹介、全集刊行時に編まれた書誌、左近毅氏の目録、志村有弘氏の目録、谷澤昌美氏の調査、その他多くの人々の貢献がある。これらの集大成が国松春紀氏による著作目録及び参考文献目録であり、氏の仕事がなければ本稿は成り立たなかった[8]

 文学理論の観点から黒石を再評価した先駆者が、由良君美氏である。氏はその晩年の仕事として『大泉黒石全集』刊行において重要な役割を果たされた功労者でもある(なお全集刊行にあたっては、編集委員の辻淳氏、志村有弘氏、大泉淳(きよし)氏=大泉家長男、緑書房社長の中村利一氏、調査や資料収集に貢献された方々など、多くの人々が携わられた)。『全集』の解説は全て由良氏によるものであり、浩瀚な知識と文学理論への深い理解によって多くの示唆に満ちた解説を残された。かつて宇野浩二は黒石と岡本一平の作品について「現今の小説壇にもって来ても、三流作家は無論のこと、一流作家の間に伍して、決して遜色のあるものではない(…)小説家的な見方に於いて、この両者は又決して三流作家の亜流ではない」と評価する一方で、「何と説明するべきか、実は私にもはっきり言えない」と断りながらも、彼らの作品は「小説でない」、あるいは小説として「変格のものではなくて、正に破格」であると評した[9]。当時の作家が評価に困ったような黒石の作品が、ある意味において「正当」に評価されるには、文学理論の刷新をはじめとする新たなパラダイムの到来を待たねばならなかっただろう。大学時代に由良氏から大泉黒石を教示された四方田犬彦氏は、「世界文学」というパースペクティブにおいて黒石を捉え直し、初めてその全生涯を描いた評伝を書かれた(それまでも志村氏や中本氏による伝記研究は存在したが、黒石の全生涯を一つの評伝として描いたのは四方田氏が最初である)。この評伝は2020年から2022年にかけて『図書』(岩波書店)で連載され、2023年に『大泉黒石 ──わが故郷は世界文学』(岩波書店)としてまとめられた。氏はその「あとがき」(及び帯文)で「昨今の比較文学研究における多言語性・脱領域性・脱ナショナリズム性への注視が、これまで虚人、虚言癖のある「混血児」としてしか認識されてこなかった黒石の全体像を、しだいに明らかにする文脈を整えつつある」と述べている[10]。「大泉黒石」という規格外の人物を捉えるにあたって、それらは欠かせない視点である。最近では、山本歩氏が比較文学的アプローチや文学理論等を駆使した読解によって新たな「大泉黒石」像や作品解釈を提示されている。

 もちろん、学問的なアプローチが全てではない。やや変な言い方だが、大泉黒石は好事家的なアプローチが多い作家でもある。西村賢太氏は「異端者にも、世にもてはやされる者とそうではない者の二種類があるなら」と仮定し、一種の天才ではあったが贋作事件を起こした「性格破産者」の倉田啓明などは「無論後者に属しよう」としたが、黒石は少なくとも後世においてはもてはやされる側の「異端者」であったといえよう[11]。学問的なアプローチを試みている論者の多くも、その初めは「こんなに面白い作家がいたのか」という驚きや好奇心とともに彼の生涯や作品へと分け入っていったはずである。黒石を「発見」した者は、まず純粋な好奇心、個人的な関心からその書を読み、集め、その体験を披瀝してきた。私もまた四方田犬彦氏の評伝によって目を開かれ、その人間や作品に強く惹かれたのであった。

 

 さて本稿では、以上に挙げたようなこれまでの成果を踏まえつつ、主に新資料やこれまであまり注目されてこなかった資料をもとに、「大泉黒石」の「いかがわしさ」を地道に解きほぐしてみたいと思う。それは、半ば「神話」化しているといっても過言ではない「大泉黒石」の「虚像」を批判し、一定の「実像」を精査する作業でもある。それを通して「大泉黒石」の諸作品からは見えてこなかった大泉清の姿が見えてくるだろう。

 梗概を示しておく。

 「第1章:出生と孤独──長崎のロシヤ人」では、まず黒石こと大泉清の誕生とその幼少期について論じる。次に母と父に関する情報をまとめる。父アレクサンドルについては既にグザーノフ氏の研究があったが、2020年にはВ.Г. Шаронова氏が「漢口におけるロシア人外交官:アレクサンドル・ステパノヴィチ・ワホーヴィチ」を発表されている。Шаронова氏のものは未だ日本に紹介されていないと思われるので、主に氏の論文の内容を紹介しつつ、適宜グザーノフ氏の研究や黒石自身の回想と比較検討する(なお章題は島尾敏雄大泉黒石に関する思い出を綴った随筆「長崎のロシヤ人」から借りた)。

 「第2章:学生時代──海外遊歴の謎・文学への目覚め」では、父アレクサンドル没後の清の動向について考察した後、さながら「もう一つの自叙伝」とでもいうべき大谷清水『午』を紹介する。次に、隠されていた海星商業学校と、その後に中途入学した鎮西学院の中学部での学生生活、そして彼の文学への目覚めについて論じる。鎮西学院卒業後の動向を考察した後、ミヨとの結婚と第一子の誕生、第三高等学校入学までの軌跡をまとめる。

 「第3章:労働者時代」では、主に大泉黒石の自叙伝的作品を中心に、彼の労働者時代に関する記述をまとめる。肉体労働と同時進行で、彼は少しずつ文筆業の方へ近づいて行った。第一高等学校に入学して、まもなく通わなくなってから、彼の赤本作家としての活動が始まる。

 「第4章:赤本作家時代──丘の蛙・大谷清水ほか」では、まず赤本、赤本屋という用語について確認してから、清と赤本屋の関係=清の文筆業の端緒について考察し、次いで「丘の蛙」「大谷清水」という筆名での活動、その作品について論じる。また、同時期の『中学世界』への寄稿と大泉清『卵を多く産ませる素人養鶏』についても検討する。最後に『文壇出世物語』に語られている清の赤本作家時代について検討する。なお、丘の蛙、大谷清水、そして次章で紹介する泉清風の作品は、ほぼ全てNDLデジタルコレクションで閲覧可能である。

 「第5章:〈大泉黒石〉の誕生と泉清風」では、まず彼が春江堂書店という赤本屋で働いていたこと、同書店から彼自身も赤本を発表していたことを明らかにする。そして、その筆名である可能性が極めて高い「泉清風」という作家について概説及び考証を行う。次に、1917年11月において「大泉黒石」「大泉清」「泉清風」という三つの名義の活動が同時に開始されたことを確認する。それから、大泉黒石/大泉清としての活動にある共通の戦略が潜んでいたことを読み取り、その画期性について論じた後、自叙伝が発表されて一躍有名になるまでの大泉黒石/大泉清としての活動の軌跡を追う。さらに、自叙伝発表後の作者像と作品の受容についてまとめる。最後に、1917年11月以降の分裂した活動を統一的に捉え直す。

 「第6章:不幸な誕生──姿の消し方」では、「自叙伝」で一躍有名になってからの創作活動について「スランプ」という観点からまとめる。時代を経るにつれて彼の執筆量は減っていくが、これはよく言われるような「文壇」からの「排斥」というよりは、清自身の内在的な問題によるのではないか。そしてその原因は、まさに彼が「自叙伝」によって「誕生」したことにあったのではないかと推測する。また、あらゆる作家や出版社から見放されたという説への反証として、目録・年譜作成作業の過程で見えてきた彼の決して狭くない交友について簡潔にまとめる。

 以上に加えて、本論では論じられなかった点について考察した補論を三つ加えた。「〈大泉黒石〉の/という「嘘」をめぐって」では、大泉黒石と嘘の関係、黒石が知人に関してついた嘘、そして本当に多国語を話せたのかということについて考察する。大泉黒石の〈シベリア行〉追跡」では、これまで謎が多いとされてきた1918年冬のシベリア行について、彼が赴いた西伯利新聞社の旧社員の回想等をもとにその「実像」を探る。「『俺の自叙伝』の成立・丘の蛙の剽窃では、『俺の自叙伝』のテキスト・クリティークの試みや「丘の蛙」という筆名で彼が書いた本の剽窃箇所を一覧にした。

 「資料編」としては、できる限り詳細に彼の足跡を追った「黒石大泉清詳細年譜稿」、清の筆名であると考えられる作家の目録「丘の蛙・大谷清水・泉清風著作目録」、国松春紀氏が作成された目録への補遺として「「大泉黒石著作目録」補遺(国松春紀氏作成目録への追加)」および「「大泉黒石参考文献目録」補遺(国松春紀氏作成目録への追加)」を収録した。本文を読む際の補助となれば幸いである。

 以上、本稿では大泉黒石の全盛期の作品の分析はほとんど行っておらず、大部分は前半生の伝記的研究となっている。これは故のないことではなく、この作家を考えるにあたってはなによりその誕生及び誕生に至る軌跡に注目すべきであると私は考えている。細かな考証に終始していると言われればそれまでだが、それらの作業を通じてこそ「大泉黒石」は再定義されていくのである。結果的に全体としては地味なものになってしまったきらいがあるが、「大泉黒石」に興味のある読者にとっては多少なりとも刺激的な小伝になったのではないかと思われる。

 

 なお、本稿では黒石大泉清のことを原則的に「大泉清」あるいは単に「清」と呼んでいる。本稿においては、「大泉黒石」──特に『俺の自叙伝』の作者像としての「大泉黒石」──は、彼のそれまでの生涯や赤本作家としての活動の中から派生して生まれた一つのキャラクターであり、彼の一側面に過ぎないと考えている。そのため、伝記的記述をする際にこの筆名を用いることは不適当だと考えた。大泉黒石という筆名に慣れている方々にとっては読みにくいものになってしまったかもしれないが、本稿の趣旨をご理解いただければ幸いである。ただし、単に作者名を指す場合はその筆名にしたがった(例:大泉清『俺の自叙伝』ではなく、大泉黒石『俺の自叙伝』と書く)。

 史料を引用するにあたっては、主に入力上の都合により、基本的に旧字体新字体に改め、かな遣いも新かな遣いに統一した。また、引用文の中には現在の観点からは不適切な表現が含まれるが、筆者が既に故人であることや、執筆当時の歴史的背景に鑑み、そのままとした。

 

[1] 森銑三「人物研究雑感」『森銑三著作集 第12巻 (雑纂)』中央公論社、1974年、270-282頁。

[2] 坪内祐三森銑三は天民が嫌い?」『ちくま』301号、筑摩書房、1996年、31頁。『探訪記者松崎天民筑摩書房、2011年にも収録。

[3] 木佐木勝『木佐木日記─滝田樗陰とその時代─』図書新聞社、1965年、22頁。

[4] 同44頁。

[5] 私の知る限り、大泉黒石の再評価ないし再発見の直接的な端緒は1969年7月に刊行された谷川健一鶴見俊輔村上一郎編『ドキュメント日本人9 虚人列伝』(学芸書林)に大泉黒石『俺の自叙伝』が抄録されたことに求められると思われる。解説は鶴見俊輔氏で、この巻に『俺の自叙伝』を収録したのも鶴見氏であり、さらに氏は1990年初頭に大泉黒石の評伝の著者として四方田犬彦氏を推挙されたという。ただしその当時、四方田氏は「黒石について一冊の書物を上梓するだけの力が自分にはまだないと感じていた」ため断ったという。また、その時は鶴見氏が推挙したとは知らされていなかったようだ(四方田犬彦大泉黒石 ──わが故郷は世界文学』岩波書店、2023年、210頁)。間接的には、1965年3月に『秋田雨雀日記1 1915〜1926』(未来社)、12月に『木佐木日記─滝田樗陰とその時代─』(図書新聞社)が刊行されたことが挙げられる。特に『木佐木日記』では新米編集者の視点から大泉黒石の動向が印象的に描かれており、刊行当時の書評にも黒石への言及が散見される(例えば小田切進「大正ジャーナリストの情熱」『朝日ジャーナル』8巻5号、朝日新聞社、1966年や、無署名「ジャアナリストの情熱と生活」『群像』21巻2号、講談社、1966年など)。これらの日記の刊行は、(島尾敏雄の随筆や関係者の回想を除いては)『老子』の作者としてかろうじて記憶されていたに過ぎない大泉黒石への再注目を促したといえるだろう。

[6] なお、「さんずい」に「顕」という漢字が手持ちの機器では入力できないため、本稿では

「氵顕」として表記させていただくことを何卒ご了承いただきたい。

[7]清水正ブログ」(https://shimizumasashi.hatenablog.com/)、最終閲覧2024年4月2日。

[8] 国松春紀氏は自ら発行している「山猫通信・宮ヶ谷版」で目録を発表されている。これがまとめられたもので、全国の図書館に寄贈されているため閲覧しやすいのが『大泉黒石・国松孝二・小林勝・豊島与志雄』(深井人詩編集「文献探索人叢書」14、国松春紀書誌選集)、金沢文圃閣、2013年、『大泉黒石・小林勝・獄中作家(永山則夫他)』(同25、国松春紀書誌選集2)、2015年、及び『豊島与志雄・筑波常治・獄中作家(永山則夫他)』(同28、国松春紀書誌選集3)、2016年である。このうち大泉黒石に関する目録が収録されているのは選集の1と2で、後者には前者への追加分が収録されている。誠に勝手ながら、この目録に追加する形で筆者も目録を作成させていただいた。

[9] 宇野浩二『文芸夜話』金星堂、1922年、281-282頁。

[10] 四方田犬彦大泉黒石 ──わが故郷は世界文学』岩波書店、2023年、205頁。

[11] 西村賢太「異端者の悲しみ」『稚兒殺し 倉田啓明譎作集』龜鳴屋、2003年、290頁。ちなみに、西村氏も『大泉黒石全集』を架蔵されていたということは『雨滴は続く』(文藝春秋、2022年、80頁。文春文庫2024年、93頁)や『誰もいない文学館』(本の雑誌社、2022年、84頁)から窺われる。

 

泉涓太郎について

 

 ある方とお話をしていて、黒石が主宰した雑誌『象徴』の前身ともいえる『鬱金帳』に話が及んだ。私は、その時点で知る限りのこと──『象徴』1巻1号に『鬱金帳』第一冊から第五冊(おそらくこれで全て)までの総目次があるということ※、『鬱金帳』第一冊のみ東大の新聞雑誌文庫に所蔵されていること、そしてこれは推測の域を出ないが、そのマニフェスト的な文章からおそらく「象徴」という雑誌名は『鬱金帳』の面々の意見で決まったのではないかということ──をお伝えした。

(※ただし、第一冊の随筆ページ「玻璃鏡」(泉涓太郎「鬱金帳漫筆」、椿紅一郎「寸言卑話」、梢朱之介「含羞草」)が記載されていないことから、完全な目次ではなく、あくまで作品のみを記したものであるようだ。)

(※「ある方」にご助言を賜り、少々改稿いたしました。誠にありがとうございました。)

 

鬱金帳』総目次

 これを機縁として、改めて『鬱金帳』について調べ直してみた。といっても、すぐにNDL等に行くことはできなかったので、まずNDLデジタルコレクションで検索してみた。すると、非常に興味深い記述を発見した。

 

 [旧制第五高等学校で]クラスの文學靑年ばかりで廻覽雜誌を出す事になつた。深川經二が戲曲、後藤壽夫と私とが小說を書き、あとは詩、俳句、短歌の類であった。深川は後私と同じく英文科に入り作家志望で甚だ浪漫的な耽美的な傾向をもつてゐた。大學時代は「鬱金帳」「さそり」等の同人で怪奇な筆を揮つた。間もなく上海に渡り上海每日の政治部長として、かの有名な成都事件の第一の犧牲者としてたおれた。

(森本忠『僕の天路歷程』ぐろりあ・そさえて、1939年、20-21頁 - 国立国会図書館デジタルコレクション)

 

 成都事件というのは、受験勉強で名前を聞いたことがあるような気がしたが、どのような事件か思い出せなかった。調べてみると、1936年8月24日、四川省成都において中国人暴徒らによって日本人記者らがリンチを受け、うち深川と渡邊洸三郞は死亡、他二人が重傷を負ったという事件であった(成都事件 - Wikipediaには深川と渡邊の遺体の写真さえある)。この事件に関しては多くの記事や資料があるため、各自ご調査いただければ幸いである。

 深川の経歴は次の通りである。

 

 明治三十六年佐賀縣神崎郡脊振村字倉谷に生る。縣立佐賀中學校、第五高等學校を經て東京帝國大學英文科を卒業し、昭和七年上海每日新聞社に入社し編輯長として令名があつた。昭和十一年七月三十日親友渡邊洸三郞と共に成都總領事館再開を機とし、同地方の情勢報道の任を帶びて岩井總領事代理と同船八月十七日重慶着、岩井領事代理は途中官憲の妨害に遭つて本國外務省に請訓中なるため、彼は渡邊洸三郞及び滿鐵上海出張所々員田中武夫、漢口日本商人瀨戶尙と共に四川省內遊歷の護照を得て二十三日成都に到着、同市の大川旅館に宿泊中、兇暴なる排日市民大會の群集に襲擊され、田中武夫、瀨戶尙は重傷を蒙つて督辨公署に收容されたるも、彼は渡邊洸三郞と共に殘虐なる暴民の兇手に仆れた。享年三十四。

 法號は經德院殿文興道隆淸居士、遺骨は鄕里佐賀縣神崎郡脊振村の墓地に葬られた。遺族には明枝未亡人との閒に萬里子、亞紀子の二女がある。(渡邊洸三郞傳參照)

  蜀犬に吠えかけられる暑さかな

 入蜀後友人に送つた右の卽興的な俳句が彼の最後の音信であつた。

(『東亞先覺志士記傳 下卷』黑龍會出版部、1936年、795頁 - 国立国会図書館デジタルコレクション  ※ちなみに偶然ながら同頁に立項されている小島七郎も黒石と深い因縁がある。拙稿「大泉黒石の〈シベリア行〉追跡」参照)

 

 なお森本忠『僕の天路歷程』142-143頁によると、帝大英文科に入ってから「深川經二は高踏的な別の仲間を作つて」おり、「たうとう學校を放擲してしまつた」という。また、深川と渡邊の旧友で、深川と上海毎日新聞の同僚でもあった中村常三による追悼文によると、深川は「東大三年中退後、暫く飜譯などをやつてゐた」という(中村常三「成都遭難の友を弔ふ」『社会及国家』246号、一匡社、1936年、89頁 - 国立国会図書館デジタルコレクション)。以上から、おそらく帝大は中退したものと推測できる。NDL所蔵の『東京帝国大学一覧』は大正後期と昭和初期のものがいくつか欠落しているため、彼がどのタイミングでドロップアウトしたのか正確には確認できないが、『東京帝国大学一覧 從大正12年大正13年』には文学部の大正十二年入学の学生の中に「深川經次 長崎」とあり、これが彼かもしれない※(東京帝国大学一覧 從大正12年 至大正13年 - 国立国会図書館デジタルコレクション)。順当に進級すれば1926年3月に卒業のはずだが、この年の卒業生を記録した『一覧』はNDLにはない。その翌年のものには昭和二年卒業の学生が記録されているが、ここには深川の名前はない(東京帝国大学一覧 大正15至昭和2年 - 国立国会図書館デジタルコレクション)。一方で森本忠八=森本忠はこの年3月の英文科卒業生として挙げられている。 

(※深川が第五高等学校在学中の『一覧』──『第五高等学校一覧・第十三臨時教員養成所一覧 自大正九至十年』 - 国立国会図書館デジタルコレクション『同 自大正十至十一年』『同 自大正11至12年 』──の「生徒氏名」には「深川經次 佐賀」とある。また『同 自大正12至13年』の「卒業者氏名」の「高等科第三十二回(大正十二年三月)卒業」には「東文 深川經次 佐賀」とある。同級には森本忠八の名前も見える。以上から、帝大一覧の「深川經次 長崎」というのはやはり彼のことだろう。「経次」としている資料はこれ以外にもいくつかあるため、こちらが本名だった可能性もある。)

 

 さて、『鬱金帳』に参加していたとなると、『象徴』に参加していた可能性も極めて高い。このような悲惨な最期を遂げた人間が黒石とも関係していたかもしれないと思うと、運命の不思議を感ずるとともに、俄然この人物への興味が湧いてくる。

 「稀覯本の世界」に掲載されている総目次を見る限り、深川経二らしき名前の人物は見当たらない(稀覯本の世界 - 象徴 総目次)。となると、何らかの筆名を用いているということになりそうだ。森本著によると、深川は『さそり』と『鬱金帳』の両方に参加しているという。『さそり』については詳細が分からないが、おそらく日本近代文学館に2號(大正14年7月)のみ所蔵されている『蠍』(蠍發行所)だろうと検討をつけ、目次と奥付の遠隔複写を申し込んだ。

 

目次

奥付

 さて、困ったことに、『蠍』と『鬱金帳』の両方に参加している人物は二人いることが分かった。泉健太郎(おそらく泉涓太郎)と、梢朱之介である。改めて『鬱金帳』のメモを読み返してみると、梢朱之介「編輯記」の次のような記述が目に留まった。「憤ることありて「さそり」を脫黨したる泉と余と相會してよからぬことを密談せる時、余らがためには高等學校の懷かしき怠け友達にして帝大經濟科に籍を置く椿紅一郞來れり。(…)余ら感激して共にたくらむ所あり。かくて『鬱金帳』發刊の企て成る。」「泉は來春にイギリス文學科の卒業をひかへたれば、ここ一年は余が編輯にあたることとなりたり。」ここから、泉と梢が共に『蠍』を脱会して『鬱金帳』を創刊したこと(つまり『蠍』→『鬱金帳』→『象徴』という流れがあったことが分かる)、二人がおそらく帝大生であること、泉はここの英文科を「來春」=1927年春に卒業する見込みであったこと(そしておそらく梢はそうでないこと)が分かる(ただし上述のように1927年3月の卒業生の中に深川はいない)。

 次に、泉涓太郎と梢朱之介でNDLデジタルコレクションを検索してみた。すると、泉涓太郎に関しては『鬱金帳』や『象徴』の目録等、一方で梢朱之介に関しては同様の目録に加えて、『─翠松めぐる─ 旧制高等学校物語(松江高校編)』の「文芸部々史」がヒットした(『─翠松めぐる─ 旧制高等学校物語(松江高校編)』財界評論新社、1967年、357頁 - 国立国会図書館デジタルコレクション)。これによると、大正十四年三月十日に発行された松江高校の校友会誌第七号に、梢朱之介の小説「葵のかげ」が掲載されたという。

 つまり、消去法で考えれば、泉涓太郎こそが深川経二だった、ということになる。傍証として、泉涓太郎は『象徴』2巻1号にポーの翻訳作品「火焔の馬」を発表しているが、森本著(83頁)には深川が「盛んにエドガー・アラン・ポーを激賞し」たというくだりがある。当時の彼の雰囲気も伝えるため、少しばかり長めに引用しておく。

 

 さて我々の仲間の中で深川經二だけが學校についぞ出てこないので、心配して、僕ら三人[森本、澁田靜雄、田邊英亮]で彼を訪ねたことがあつた。彼の下宿は雜司ヶ谷に在つたが、行つてみると午後の二時といふのにまだ雨戶を閉めて寢てゐた。僕らが訪れると彼はひどく起されたことで不機嫌であつた。澁田が「さう怒るなよ」となだめると、舌打ちをしぶつぶつと言ひながら、それでもアルコールランプで紅茶を沸かしてくれた。やつと一枚開けた窓から光がさし込むと部屋は彼好みの裝飾と亂雜さで、ふと私は五高時代に林房雄等との廻覽雜誌に彼がのせた「綠の部屋」といふメロドラマを想起した。みるとヴエルレーヌ始め佛蘭西のもの、又獨逸語の浪漫派もの、他は支那稗史、猥書の類が堆積してゐた。段々元氣づいた彼は我々を前にして盛んにエドガー・アラン・ポーを激賞し、殊に私が作家志望であることを知つてゐるので私に向つて英文學を學び作家を志すものがポーをよまないといふ法はない、と語つた。彼は彼なりに高踏的な耽美的な生活を送つてゐた。しかし僕らの思想が實生活と觸れ社會情勢と背映して變つて行つたやうに、深川も段々變つて行つた。彼は次第にアナーキズムの方へと近づいて行つたやうである。

 

 「彼は次第にアナーキズムの方へと近づいて行つたやうである」という記述は、黒石への接近を指しているのかもしれない。

 なお、上海毎日新聞社に赴任してからの彼については「上海毎日記者深川経二氏は冷静篤実の士として内外記者団から敬愛されて居た」(貴島外交研究所編「支那の觀た成都事件」『外国新聞論調第一輯』國際經濟硏究所、1936年、69頁 - 国立国会図書館デジタルコレクション)、「餘り酒も飮まず、文藝を愛好し、支那に對しても充分なる理解を有する人格者であつた。同君が怒つたことなどは見たこともない。實に溫和しい、肌ざわりのいゝ、物事を達觀した人だつた」(中村常三「成都遭難の友を弔ふ」『社会及国家』246号、90頁)など、森川が語った学生時代の深川とはまた異なった彼の姿が窺われる。

 

 以上、私の推測が正しければ、泉涓太郎の正体は深川経二であったということになる。本来であれば次に泉涓太郎の作品についても論じるべきであるが、今のところ私の手元には彼の作品が一つもないので、それはかなわない。

大泉小生「三高生活 冬の夜がたり」+大泉黒石「第三高等学校の生活」(アンケート)

 

大泉小生「三高生活 冬の夜がたり」(『中學世界』20巻1号1917.1 付録26-27頁)

 洛陽の冬はどん底から、犇々と冷氣が身に沁みて來る。東寺の高塔も、淸水の樓も、何も彼も比叡颪にそのまゝ凍つてしまふやうな氣がして、ぶらぶら車の上から、見物して行く遠國の人も、紅い唐傘をさして詣る京の女も影を消して了つて、衣の山僧があの高い處で、大きな暗い伽藍から、赤い蠟燭に燈を點して、山門を濳るのが、只、よろよろと寒さうに見ゆるばかりである。殊に明の明星がほのかに白くなる時分は。鴨の淸水も一時に氷化しさうに思はれる程つらい。
 鞍馬に、嵐に、大日に、愛宕に、挾まれた空合が、白々としらみかくると、寮の窓が摺ガラスのやうに茫と曇つて、物の凍る音を聞いてゐると、ぞつと寒くなる枕元を、足音も起てず消燈に來る白髮親爺が、赤い赤い掌に觸るゝ、薄暗い天井の塵梁から釣るした、煤けた洋燈の弱い光が消え去つて、親爺が捉げて來る、小さい古ぼけた四角のカンテラの音が、カランカランと鳴ると、眼を覺してゐる者は、もう起きねばならぬのかと思つて、「あゝ、嫌だなあ」と獨り呟きながら、赤い毛布を頭からすつぽりと冠つて、もう三分もう五分と思ひつゝ、眼をつぶつて、大原女が、花を頭に乘せて賣りに來る、透明な聲を聞いてゐる。
 東大へ去つた男が、ある年の冬、洛陽神陵の古巢へ宿借つて、夜明間近に、大原や八瀨、白川の花賣る女の聲を聞きながら、消燈がなくなつたのに氣附いて、一緖に宿つた九州の人に、
「あの花賣の聲に耳を澄ましながら眼をあけてゐて、不意に消燈に來る爺さんのカンテラの音を聞くと、あゝまた壽命が一日縮まるのかと思つた」と語つた。
「題寮燈。朝霞冬近づきぬ蓑の蟲」
 暫くはあの團栗の下の便所の壁に白墨で書き落としてあつた。今は白く塗つてある。
寒くて、冷めたくて、容易に床を疊むで起き出る者はなかつた。顏を洗つた人々は銘々飯を食ひに廊下を、ぞろぞろ通つた。頭の中には、
「今朝の菜は何だらう?」
と言ふ考へより他に何物も無かつた。そして、赤い味──噌汁を掻き雜ぜた揚句何の細末な物の影をも認め得ないときは五尺豐かな髯男も心中私かに落膽した。

 

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 夢二といふ畫家は試驗といふ字を死驗と書いた。その死驗といふ靑鬼に脅かされて、したゝか弱らされた男は、雁來紅の葉が黃ばんで、靑蟲の音が一日一日消ゆるひやゝかさを覺ゆると洋燈の紫を帶びた水の樣な油のしゆつしゆつと微かな響を立てゝ、一刻一刻に早く減るのを感ずる。比叡山の僧は冬の支度に町を下る。山僧のやうな陵校の男は、下宿の二階につくねんと胡座して考へた。その夜から、一間に二人分の夜具蒲團を堆高く積んで其兩側に机を運んだ。二人が背なか合せに、柔かな蒲團がふわりとして、燈心の燃ゆる音、煤けた明障子に堅く骸を橫たへた黑蜻蛉の影をも知らずに、夜つぴて獨逸語の奇妙な文字と根競べした結果、二日目からは只心地よい綿に凭り掛つて、小さい目も苦しい西洋の文字を睨むでゐるのが面白くなつて、寢たら瞼を上げて每夜こつこつと續けた揚句、茫とした瞳を向けて同僚を驚かせた。その時頃であつた。東山の奧の小さな寺の玄關から每朝てくてく通つて來る男があつた。岳堂と號して俳句を捻咒してゐた。黃昏、玄關へ歸つて見ると、鴨居に懸けてあると思つた帽子がなかつた。何げなく散らばつた邊。本箱の隅。机の下など覗いたが見當たらなかつた。

 其男は滅多に被らい(ママ)帽子が不意に踪跡を暗ましたので不思議に感じた。御寺の小僧が、惡戲に冠つて出る筈もないと感じた。調練の際に其のメステリユスな形の帽子を戴いて悠々と濶步する姿は一の偉觀を呈したものだ。維新から十年。西南の役の折に、
「西鄕隆盛りや、鰯か雜魚か、鯛に逐はれて逃げて行く」と囃しながら城山あたりに咆る砲聲をはるかに聞いてゐた日向の山蔭に、日每に、ざわざわと藪を掻き分けて落ちて來る、傷負ふ薩摩の隼も、絕え果て、村落の百姓衆バウエルがぼつぼつ、畑に野に鍬かつぐ頃、男の親父は鐵砲を肩に林の中を、彼方此方獲物を、探して步いた。
 丁度、靑葉濃き谷間に出た時、官軍の鎭臺兵が落して行つたものと見えて、黑い帽子が一つ轉んでゐた。親父が其時拾つて歸つたのが此男の帽子である。最初に冠つたのはその親父であつたらう。それが人の生肝を抉ると言ふあの森林から、中學の田舍者に運ばれたものだと言ふ。あちこち探してゐる內に到々押入から見付出した。
 明るい處へ引き出れた帽子にはぼろぼろの古綿が敷かれて、六匹の子鼠が赤い體に皺をよせて、もじもじ動いてゐた。男はそつと六匹を掌の平に上せて見たが、大いに處置に困つた。それから、その鼠の赤子は何うなつたか聞かぬが、彼は翌朝から昨日まで鼠の產屋であつた帽子を被つて、短かい髯を撫でながら例の通り漠然として通つた。

 

・・・・・

大泉黒石第三高等学校の生活」(アンケート「私の得た最初の原稿料」『文章倶楽部』10巻1号、新潮社、1925年、91頁)

 

「中學世界」に「第三高等學校の生活」といふやうなものを書いて金參圓ばかり貰つたのが皮切りです。金を吳れた人は故人の竹貫佳水氏。その金で酒をのんで了ひました。飮んだ場所は京都の何とか山の上です。はつきりしたことは一向に記憶いたしません。

 

・・・・・

註釈

 「三高生活 冬の夜がたり」は『中學世界』20巻1号の付録「新年付録 学校ロマンス」に掲載された。これは懸賞ではなかったようなので、どのようにして掲載にまでこぎつけたのか不明である。

 実際のところ初めて得た原稿料は「手軽で有利な商売」(『實業之世界』13巻13号1916.6。『俺の自叙伝』において黒石が『空業之世界』に寄稿したという「半紙に十枚ばかり絵入り」の「豚の皮で草履をつくる金儲けの法」にあたると思われる記事)か、丘の蛙『一高三高学生生活 寮のさゝやき』(磯部甲陽堂1916.10)辺りのはずだが、このアンケートでは以上のことは隠したのだろう。また、この時期の彼は東京にいたはずなので、京都で飲んだというのはおそらく虚構ではないかと思われる。 

 

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※おそらく『文章世界』掲載作の次に活字になった文章。

 

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※おそらく彼の最初の単行本。

大泉きよ『文章世界』掲載作品+大泉黒石「ひとりごと」

 

「一人の女」 長崎市伊良林四八三 大泉きよ

(『文章世界』7巻4号1912.3 187頁「短文」部門、「秀逸」選者=相馬御風)

 

 一人の女は今日も繪師の軒先に彳むで一枚の油畫を眺めてゐた。畫板には白壁の土藏と低い古瓦の上の後が描いてあつた。石垣の上の二棟には黃色い日が落ちてゐた。埃の白い瓦の上に靑空が濁つてゐた。檐の生えた淋しいペンゝ草の影が灰󠄁色の玻璃窓に力なく動いてゐた。干乾びた土の淡色、壞れた烟突の煉瓦の色、鍊びた扉の重い土藏の沈むだ香が、若い女の胸に染々淋しく懷しかつた。

 小暗い一枚の畫を背負つて巡る髮の長い男は雲の樣に古い都會の影を着た漂流者だ、男の心細い生活を想へば悲しかつた。一人の女は淋しい町を通る每屹度一枚の畫を眺めた。

 

 評 小川未明氏の作に見るやうな淋しいうちに慰めのある、悲しいうちに喜びのある人の心持が、しんみりした書き方のうちに溢れて居る。たゞ技巧に煩さはれて(ママ)自然の情懷を傷けるやうな傾きのあるのはとらぬ。

 

 

「ベンチの春」 長崎 大泉きよ

(『文章世界』7巻6号1912.5 192頁 「短文」部門、「佳作」選者=相馬御風)

 

 蝙蝠傘を小脇にして藍の褪めた職工の服を着た男が一人、ベンチに尻を向けて柵に椅り掛つてゐた。水色のペンキの剥げたベンチの腹に赤土の撥泥が上つてゐた。其處を辷つて行く水滴が密かに男の耳に觸れない微かな響をたてゝ冷めたいベンチの陰に『ぽたり』と落ちた。熟しきつた黑色の楠の實が『ぼた、ゝ』と重さうに雨に濕つた高い梢から墜ちた。そして轉つた儘ひつそりと落着いた。

 煤煙の漂ふ街の空を眺めていたゐた男は、淋しい顏をしてすたゝと去つてしまつた。

 春風が靜な公園のベンチを吹いてゐた。

 

 評 春と云ふ普通的な自然の狀態が、或る特殊的な人の心狀と結びついて、そこに特殊的な情趣を帶びて來る。そこを狙つて書いた作者の態度には同感出來るが、全體としての情味がまだ淺い。

 

 

「雲」 長崎 大泉きよ

(『文章世界』7巻8号1912.6 195頁 「短文」部門、「佳作」選者=相馬御風)

 

 『來るようい。』

 薄鼠色の雨雲が、後ろからと押れて、忙しく流れてゐた。

 暗い山蔭の、崩れた仄白い崖下に、工夫がいくたりも蹲んでゐた。

 『來るようい。』

 岩切る男の聲が、霧を含んだ風に消されて、淋しく響かなかつた。

 すると、蹴り放された、大きな岩のかけらが、野の小笹を押潰して逃げるやうに、轉り下つた。そのどろどろといふ音を聞きながら麓に、農夫が一人鍬を振つてゐた。

 

 評 もつと、力強く、そして暗示的に書けさうなものであつた。輪廓ばかり書かうとしてある。

 

・・・・・

註釈

 『文章世界』は当時の文壇の登竜門であり、多くの作家を送り出した投稿雑誌である。懸賞としていくつかの部門が設定されているが、彼の作品が掲載されたのはいずれも「短文」部門であった(これ以外の部門にも投稿していた可能性はあるが、少なくとも入選はしていない)。投稿作品のうち、おそらく最初に掲載された「一人の女」が「秀逸」として住所付きで大きく掲載された。このことについて、随筆「ひとりごと」(『騒人』3巻4号、騒人出版局、1928年、122-124頁)では「中學三年の末頃、はじめて文章のようなものを作って「文章世界」に投書したところが何等かに當選した」と述べている。ここでは選者が前田木城(晁)だったと回想しているが、これは記憶違いである。この時の「短文」の賞品は「一円以下の図書」で、彼は「テニスンの詩研究」を貰ったという(石川林四郎テニスンの詩研究』(研究社)の出版は1921年である。本書は雑誌『英語青年』1911 年10月号(26巻1号)から1913年9月号(29巻12号)まで連載していたものをまとめたものであるため、清が景品として貰ったのは『英語青年』の方だろう。『英語青年』の定価は「一部 拾銭 郵税五厘」「十二部(半年分) 前金 一円貮拾銭 郵税共」「廿四部(一年分) 前金 貮円参拾銭 郵税共」であったため、半年分程度のバックナンバーが贈呈されたのだと考えられる)。

 以上のように『文章世界』の懸賞で立て続けに掲載されたということは、若い彼に文学への志を起こさせるに十分であっただろう。このように一面において典型的な文学青年であったというところに彼の悲劇があった。上京後、彼は方々の書店へ原稿を売り込むのだが、彼の風貌が全く日本人らしくないために、中身すら問題にされず突き返されてしまう(拙稿第 4章第2節「清と赤本屋──門前払いの苦悩」参照)。そうした「混血児」としての苦悩において、〈大泉黒石〉が生まれたのである(拙稿第5章第6節「〈大泉黒石〉の誕生」参照)。 

 ちなみに、彼が「泉清風」という筆名で書いた『夫婦心中 須磨の松風』(春江堂書店1918.7)には「柳瀬清」という人物が登場するが、彼は「女名前で少女雜誌へ寄せた一篇の小說が懸賞に當つて、非常な評判と成つた。それから如何も其女名前が止されなく成って、何處までもそれで寄稿して居た」という。これは以上の経験をもとに書いた記述かもしれない(「大泉きよ」というのは「女名前」というべきだろう)。なお、泉清風が黒石の筆名であるということについては、拙稿第5章を参照されたい。

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大泉黒石「ひとりごと」(『騒人』3巻4号、騒人出版局、1928年、122-124頁)

 英文學者のなかでも、屈指の名文家といはれる、ウヰリアム・ペヱタアの遲筆は嘘のやうだ。例のジヨン・モウレイの雜誌「フオトナイトリイ・レヴイユ」に賴まれた少か二十頁ばかりの小論文を書くのに、一ヶ年もかゝつてモウレイを驚かしたり、それほど大部のものでもない小說「マリアス」などを書き上げるのに、十二年そこらも費やしてゐる。日本でも紅葉山人には三行博士の名がある。僕、あへてペヱタアや紅葉山人の遲筆を氣取るわけでは決してないと斷つて話をしなければならぬほど近頃は、めつきり書けないのである。二三行の文句に一時間も引つかゝり一枚の原稿紙を眞つ黑くするのに、どうかすると半日丸つぶしの苦吟の揚句が、碌な成績ではないのだから、商賣にならんことは申すまでもなく、山の手の隱居が發句をひねるやうな按排の道樂にもなりかねた話だ。每月半ダース以上の長々しい小說やら小說まがひのを達者に書いてをられる向を見ると、そゞろ恐怖を感ずる。何。君。さうまで凝るに及んだ世の中ぢやないさ。お茶をのみながら饒舌るやうなんでいゝんだよと、村松梢風その人が每度忠吿される。凝るわけでもないのだが、そんなら一つその氣で書きますかねといつたやうなわけで是を書く。だらしのないこと先刻定つた。

 田中貢太郞翁の「怪談傑作集」を讀んで感あり。この作者の怪談の、他と趣を異にする點は、その妖怪の本質ともいふべき精神が東洋的であることだ。そこに出沒する化物には、「フランケンシユタイン」の怪物のやうに、人間の存在を呪詛し、人間の生活を破壞する兇惡の敵意あるのではなく、むしろ人生に興を添へる「人のいゝ化物」が多い。その悠々たる活動變化を指して、僕は東洋的といふ。

 不可抗的自然力の活動に對する微弱な人間の恐怖と崇拜とは、古き時代の怪談を生んだ。宗敎的にも科學的にも未開蒙昧の人間は、火や石や動物の中に不可思議な靈力、超人間の魔力を信じた。天狗。狐。狸。鬼。鵺。火喰鳥やバンジイなどが怖れられたのは此の時代である。僕はこれを怪談のアニマル・ヱイジ(動物時代)と呼び得る。而してその世界は專らヱジプト附近とエジプト以東に限られてゐる。これ卽ち自然恐怖と自然崇拜に原因する無性物(ママ)のアニマリゼイシヨンや、動物類のヒユウマニゼイシヨンが、信じ傳へられたる結果ともいふべき怪談が、西洋に稀にして東洋に頗る多い所以ではなからうか。怪談は次に宗敎時代(レリジユス・エイジ)に移つて惡魔があらはれた。次に道德時代(モオラル・ヱイジ)に入つて、幽靈が創り出された。これを僕は近代怪談時代の總稱を以て呼ぶことは出來ないであらうか。最後に僕等は哲學的、科學的の意味を與託せられた怪談の時代を迎へるに至つた。西洋近代の怪奇小說は槪ねそこに生れてゐる。その怪奇思潮は日本にも流れ來つて、室町以來の日本怪談の一大特色、いや、その生命であつたアニマル・ヱイジ(動物時代)とモオラル・ヱイジ(道德時代)に屬するところの「バケモノ」や「幽靈」怪談を蹴とばしつゝある。言葉をかへて言ふならば、ホフマンやポオやシヱレヱ夫人やビエルスやヴヱルスとその模倣者らは、聊齋志異や剪燈新話や諸國物語や日本靈異記や雨月物語小泉八雲泉鏡花などを葬らんとしてゐる。時代はもはや、文福茶釜や靈猫や怪狐や古狸や池の主や足のない幽靈の出現をゆるさなくなり、悉くリゾナブル、プロバブル、ポシブルなものゝみを歡迎するやうになつた。一面に於て、甚だしく理屈つぽくなり、不健全に傾き不道德に流れ、病的に走り、神經過敏に陷つて來たことは事實であるやうだ。而して、これまでの原始的であり、陽氣であり、樂天的であり、敎訓的であり、粗朴であり、單純であることを、その特質としたる日本怪談の趣は、今やたゞこの「傑作中」の作者田中貢太郞その人に於て、見るのみである。その怪奇の精神と趣味に、東洋の傳統をうけつぐ者ありとせば、その人を指して田中翁といふべく、何ら抗議の餘地はないやうに、僕は思ふが、どうだ。

 中學一年生といへば、スマイルスやマアデンの立志物語に感奮する年頃だ。僕もその一人であつたが、何とかといふ大學者よ傳記を讀んで、俺も一つ眞似をして物に成つてやらうかと恐ろしい了見を起し、每日一册主義といふものを奉じた。書物と名のつくものなら、何でも構はず每日一册讀み終らなければ寢床に入らないといふ主義で、每日一册讀めさうなものを、圖書館から借りて來て、豆ランプの光で貪りよんだものだ。一二年は無理に押し通したが、結果は近眼になるを得るに止まり、讀み上げたものは、ほとんど頭に殘つてゐない始末だから、考へて見ると馬鹿なことをしたもので、肝心の學校の首尾は決して香ばしからう筈がないとある。テニスンバイロン。ワアズワアス。ミルトン。スコツト。ヂツケンスと近づきになつたのも其頃である。シヱクスピアの「マクベス」に喰ひついて見たところが、どうにも齒が立たない。のべつ幕なしに辭典を引くのが厭になつて、とうたう投げ出した。シエクスピアには悸毛をふるつて以來今日に到るまでシエクスピアのものは「ハムレツト」以外に知らないのである。ほの「ハムレツト」を讀む氣になつたのも、例のドンキホーテとハムレツトに關するツルゲニヱフの論說に興味を感じたからで、學校を出てからのことだ。中學三年の末頃、はじめて文章のようなものを作って「文章世界」に投書したところが何等かに當選した。選者は前田木城といふ人だ。前田晁氏のことではないかと思つてゐるが、尋ねる機會もない。そのときの賞品に貰つたのが「テニスンの詩硏究」。つまりテニスンは飜譯で讀んだわけだ。かういふと文學の書物にばかり熱中したやうに思はれるが、あながちさうではない、しかし記憶に殘つてゐるのは、むしろ忘れてもいゝ文學ものばかりで、それも、少年の頭にわかり易くて面白いウヱル・ジユルン[ジュール・ヴェルヌ]の冒險旅行小說やウオター・スコツトの歷史物であつたやうだ。今年はそのヴヱル・ジユルンの誕生百年にあたる。思ひ出すのは少年の頃といふわけで、くだらぬことを列べたものだ。

 山本勇夫その人の「業平」に關する氣焔は每號敬意をもつて讀んでゐるが、三月號「騷人」には、一弦琴の發明者がこの本朝ドン・ジユアン氏であるやうな話だ。僕の聞いたところによると、例の松風村雨(?)の行平卿であつたやうに思ふが、それも確證はない。

 村松梢風その人が、中里介山その人を揶揄してをられる「介山常に傲語して謂へらく、豫は社會の要求によつて筆を把る、社會の要求なくんば立所に筆を折つて田園に隱退せんと。文士の文を綴つて新聞雜誌に發表するは素より個人の註文に依るものに非ず。社會の要求に依つて筆を把る者豈介山居士一人のみなりとなさんや云々。」と。これがほんとうなら大泉黑石その人だけは例外であるらしい。

 僕は社會の要求に應じて生れたやうな氣がしないせか(ママ)、あるひはまた社會と餘りソリの合はぬ性分に出來てゐるせいか社會樣の御厄介になつてゐながら、怪しからんことには、社會の思惑なんざ、とんと御構いなしに御當人の意志の命ずるまゝの、勝手氣儘なことばかり書いてゐるのである。たまたま社會の要求に投じたやうな形の代物も。一つや二つは有るかしらんが、決して、それも世間のお求めに應じて書いたつもりではない。たまには世間の御機嫌も伺はうかといふやうな了見になることも絕無ではないが、どうも相手が探偵小說やら大衆文藝なんど專ら歡迎するやうな社會では、とても御註文に應ずる氣色になりかねるのだから仕方がない。遲筆に寡作に加ふるに、この調子では貧乏もあたりまへとある。弱つたね、あつはつは。 (三月八日)

辻潤全集未収録作品

 大泉黒石について調査するなかで、辻潤についても調べている時期がありました。その過程で、数点の全集未収録作品を発見したため、ご参考までにその出典や解説(もどき)等を掲載いたします。なお、本記事は基本的に過去に書いたnote記事の転載です(辻潤全集未収録作品|мерцание)。発見次第、随時更新していければと思います。

 

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「打てば響く 1931年問答録」(アンケート)

               『新青年』12(1)、昭和六(1931)年一月発行

備考:十個の質問に対する回答。辻潤らしいのは

①「あなたが生まれ替ったら(どうなさいます?)」➡「今迄にまだ一度もそんなことを空想してみたことはありません、人生は一度で懲りこりです。その上前世の意識でも持ち合していたとすればなお更耐(たま)らないことだと思います。」
②「あなたはどんな青年(男女)が御好きですか?」➡「誠実で快活な人が好きです。」
③「映画があなたに与えたものは?」➡「若干の好奇心の満足、生きる為にはあんなことまでしなければならないのか──と云うようなこと。」
⑤「あなたの最後の日が知れていたら(どうなさいます?)」➡「なるべくそれを忘却することに努めます。」
⑦「あなたの青春に最も影響を与えた書物(又は絵画)は?」➡「内村鑑三氏の著書。」
⑧「日本で一番魅力的な言葉は?」➡「思いあたりません。」
⑨「日本が現在第一にやらねばならぬことは?」➡「人口をへらすことと農村を救済すること。」
⑩「何が無くなったら一番御困りですか?」➡「水。」

など。他にも多数の作家が回答している。

 

「文壇酒客放談」(座談会@新宿二丁目「よ太」)+『食道楽』における辻潤の作品

              『食道楽』4巻2号、昭和五(1930)年二月発行
☞味の素食の文化センター等に所蔵あり。
    味の素食の文化センターホームページ(https://www.syokubunka.or.jp/search/?q=%E8%BE%BB%E6%BD%A4)

画像
左前列より辻潤田中貢太郎、高須芳次郎、水守亀之助、藤澤清造。後列左より松崎天民(主宰)、酒井真人、吉井勇

備考:豪華なメンバーが揃っているが、通読した感じだと辻潤がかなりご機嫌で、発言回数も最も多いようだ。酒をテーマに様々な話題が出てくるが、個人的に興味深かったのは辻潤の天草やパリでの出来事、坂本紅蓮洞の最期、藤澤清造が酒を覚えた機縁など。
また、「味の素食の文化センター」ホームページ内で検索をしたところ、4巻6号に「浅草漫語」(1930年6月)第三期5巻2号(1940年2月)に「天狗の麦飯」が寄稿されていることが分かった。味の素食の文化センターに所蔵されているものを確認したところ、これらもおそらく全集未収録であることがわかった(複写もさせていただいたのだが、紛失してしまった)。

 

「きやぷりちこ」/「模倣といふやつが一番くだらない」(アンケート)


     
勝田香月『詩に就いて語る』交蘭社、大正十五(1926)年十月発行
☞NDLDCログインで閲覧可能(https://dl.ndl.go.jp/pid/1019692/1/99)

備考:「ダダイズムの詩」の例として「きゃぷりちこ」がおそらく全文引用されている。この詩は五月書房版全集第四巻に収録されているが、なぜか『詩に就いて語る』に引かれているものは全集収録のものよりも長く、こちらが完全版であると思われる。アンケートの題名は「今後詩壇はどう動いて行くか」で、筆者の雑誌『自由詩人』で実施されたものであるとのこと。巻末の「現代日本詩人録」に辻潤も載っており、これによるとこの時の住所は府下荏原郡大岡山一二七。

 

「選者より」


           
『英語文学 THE LAMP』5巻5-8,10号 大正十(1921)年
早稲田大学図書館編『マイクロフィッシュ版精選近代文芸雑誌集』(復刻版)

備考:前回の更新の後、一時期『英語文学』で辻潤が選者をやっていたことを思い出した。該当号には辻潤による「選者より」という選評と解説が掲載されている。いかにも選者然とした丁寧で優しい解説になっている。『英語文学』にはいくつか辻潤の作品が掲載されており、それらは全集に収録されているが、この「選者より」は作品ではないためか収録されていない。
選者に着任した5号では、「本号から、僕が生田(長江)先生に代って選者たる光栄を担うことになりました。なにしろ今迄少しもこういう経験がないので選のやり方などもかなり偏したものになりはしないかと内々気づかっている次第です。けれども僕は万事自分流儀○り他のことはなんにも出来ない性分ですから、一切その調子でやるつもりです。・・・」(○は少なくとも私が確認したマイクロフィルムでは判読不能)と書いたあと、自身の翻訳観を語っている。「僕は言葉としては自分の日常用いている現在の日本語に一番重きを置きます。散文は勿論、詩を訳す場合でも、なるべく自分の使っている生きた言葉を用いたいと心がけています。それが如何に生硬未熟であっても、致し方がありません、唯だ各自が自分の力の範囲でそれを出来るだけ洗練してゆくより方法はありません。少し極端な云い方かも知れませんが、自分の毎日使っている言葉が駄目だと云うなら、やがては自分の毎日の生活を否定しなければならないようなことになります。ですから、僕は如何にそれが変でも、妙でも、クラシックを訳す場合にも出来るだけ現代語を使いたいと思います。従って詩(その新旧を論ぜ)を訳す時でも、同じ態度をとりたいと思います。」
残念なことに、『英語文学』はこの5巻をもって終刊したようだ。

 

「断想」


                   水月哲哉編『星の巣 第一輯』星の巣社,昭和八(1933)年九月発行
☞NDLDCログインで閲覧可能              (https://dl.ndl.go.jp/pid/1214196/1/37,)
   表紙は「稀覯本の世界」で閲覧可能(https://kikoubon.com/hoshinosu.html)

 
備考:少なくとも五月書房版全集には同名の作品は収録されていないようだが、別名で収録されている可能性は否定できない。一応全集に収録された散文作品は全て読んでいるはずなんだが・・・。
同輯には他に横井弘三、織田一磨、清水登之、野村愛正、小比賀虎雄、椎名剛美、左甚水、水月哲哉、近森岩太、福田正夫、正富汪洋、白鳥省吾、安成二郎、西谷勢之助、南江二郎、赤松月船、永井叔、吉澤獨陽、阿野赤鳥、小川未明新居格、井澤弘、大倉桃郎、谷亮輔、槇本楠郎、岡田賤子、岡下一郎、高見範雄、山脇〈莞の右足にム〉太郎、谷口正らの作品が収録されている。結構豪華な?メンバーだ。詩、随筆、童話、小説等が雑然と収録されている。
ちなみにこの本はウェブサイト「稀覯本の世界」の「幻の本・珍本」ページを見ていた時に発見した。このサイトに載っている本は、意外とNDLデジタルコレクションにもあったりする。「稀覯本の世界」管理人様も、NDLも、偉大である。

 

 

「夢で聽いたデハートメントストアの話」+高洲豊水幹一について

        高洲豊水編『東京商品界 第一巻』大正十一(1922)年四月発行
☞NDLDCでログイン無しで閲覧可能   (https://dl.ndl.go.jp/pid/914272/1/24)

備考:豊水高洲幹一については、高橋新吉がいくつかのプロフィールを伝えている。『ダガバジジンギヂ物語』(147-151頁)によると、この人物は山口県出身で辻の友人だった。新吉は「川崎の辻潤のところ」で高洲に会った。高洲は「商品界」という雑誌を出していた。彼には「政治ゴロのようなところ」があり、「東京都内の有名商店を、名刺代りのように、雑誌にのせて、その雑誌を受領証にして、金をゆすって、生計を立てている人物」だった。「高州の家は、浅草の向柳原町にあった。私は高州の家に住み込んで、雑誌の仕事を手伝うことになった。新潟県人の妻がいた。子供がなくて細君の妹の子を貰って育てていた。女の子だったが、十歳くらいだった」。「高州は、喧嘩が強くて、若い時は、上野の花見の折などに、アバレまくったと、辻潤のおふくろが言ったが、ステッキをついて、毎日家を出ていくのであった。或時、浅草の山谷あたりにあった製本屋へ、雑誌をとりに、私は行ったことがある。うす暗い土間の、貧弱な製本屋であった。商店の名前や商品の広告文などは、紙型があって、毎月、同じようなうすい雑誌であった。南洋の土人の女の写真を巻頭に、印刷したことがあったが、高州が、どこから手に入れたものか、それは、ナマメカシイ美人の写真だった」。その他、高洲家に居候していた新吉のところへ当時『婦人公論』記者だった諏訪三郎(半沢成二)が訪ねて来て原稿を依頼されたこと(「これが原稿料の出る雑誌から、原稿の依頼を受けた私の最初の経験」)、新吉が川崎の辻のところから山内村(当時佐藤春夫が住んでいて「田園の憂鬱」を書いた)へ歩いて行って数日止まっていたとき、「辻潤か誰か」が新吉を迎えに来て「高州が病気で仆れたので、看病のために帰ってくれ」と言われたこと、高洲は家の近所の病院に入院していて、そこへ伊藤弥太という油絵描がよく遊びに来ていたこと(院長が伊藤の絵を買っていたためらしい)、高洲が「ジャクソン氏の癲癇」という病で死んだこと(「高州は夜中に起き上って、彼の陰茎から血が出ていたとは、細君の言うところだが、細君は、バケツに水を汲んで、高州に打つかけたという」)等が書かれている。
 『禅に遊ぶ』(118-119頁)にも高洲についていくつかのことが書いてあり、こちらからおおよその年代を推測できる。新吉は半年ほど栗橋で自炊生活をしていたことがあり、その頃『まくはうり詩集』『生蝕記』をガリ版で刷って辻潤佐藤春夫に配っていた。それが「原敬が、東京駅頭で、暗殺されたりした頃」(1921年11月4日)だった。その後に川崎の辻潤のところで高洲と出会い、同居して雑誌の手伝いをすることになったという。「高洲という人は、まもなく、「ザックソン氏の癲癇」という病名で、或病院で死んだが、平戸廉吉という未来派の詩人が、一、二年後に肺病で死んでいる。「シンだ廉吉」という『ダダイスト新吉の詩』の中の一文は、廉吉としてあるけれど、多分に高洲の事を書いたものである」。それは渋谷の廉吉の家へ見舞に行ったら面会謝絶で、臨終に立ち会えなかったからだという。
 国会図書館には、高洲豊水の著として他に『東京商品 第一輯』(1918.8)、『日本優良商品文庫』(1921.9)がある(新吉の記述を読む限りこれ以外にもありそうだ)。廉吉の死は「1922年7月20日」(『ダガバジジンギヂ物語』)とのことで、『日本優良商品文庫』は1921年9月15日印刷なので、高洲の死はこれ以降~廉吉の死の間のことだと考えられる(先の記述をふまえると新吉が高洲と出会ったのもこれ以降か)。高橋幹一名義では『京浜イロハ地理』(1911.11)、『京浜イロハ地図』(1912.12)、『京浜商用地図』(1913.8)等が収蔵されている。
 さらに、大泉黒石も高洲について語っている。「諸行無常」(初出『雄弁』11巻9号、1920年。『天女の幻』盛陽堂書店、1931年 にも収録)によると、彼は労働者時代の一時期に「和泉橋際の平和活版印刷所(間もなく佐久間町へ引越して、長生堂と云う名前に変わって了ったが)」で働いていたという。「長生堂」ではないが、「長正堂書店」ならば確かに神田区佐久間町四丁目六番地に実在したので、この書店が移転する前の時期に職工をしていたのだろう(山野芋助『化の皮』長正堂書店、1919年、奥付。なお移転前の「和泉橋際の平和活版印刷所」については未詳)。この印刷所には「商品之世界」社の「赤須丙十郎」が校正に来ていたというが、これは豊水高洲幹一をモデルにしていると考えられる。ある時「赤須」(≒高洲)の 家に遊びに行くと、広告の原稿を書いていた「平辻潤平」(≒辻潤)がおり、これが彼との初会見で、「西暦1917年6月23日午後5時」のことであったというが、その真偽は不明である。 あるゴシップ記事によると、「この雑誌の記者の仕事というのは、一日の中、二三時間出社 して、二ツ三ツの広告文案を作ればよい」というようなもので、「文名大いに挙がらざる時 代の辻潤氏、宮地嘉六氏、大泉黒石氏などが、その雑誌に関係していたとのこと」とされている(「兎の耳と梟の目」『中央文学』5巻5号、1921年、50頁)。黒石もまた「はれきん先生」において、辻潤や宮嶋資夫と共に広告の原稿を書いていたと明かしている(『シャリヴァリ』1巻3号、無門社、1934年、7頁)。曰く、「ね君・・・宮島蓬州和尚やnoctivagant辻潤などの一味と、原稿一枚二十銭くらいで、広告文をかきなぐっていた雑誌が昔あったよ。剃刀の広告文が俺に廻って来たから、この剃刀が、いかに切れるかという嘘をつくために・・・これを桐箱に入れて蔵って置くと、自然に箱が切裂けて、カミソリが飛出す危険があるから、鉄製の函に入れておく必要がある・・・なんて意味のホラを吹いた。チトこれは浪漫的だったカナ、とは思ったが、それで売出したんだからね。」
  辻潤の作品が掲載された『東京商品界 第一巻』には「文芸欄」があり、辻の他に例の伊藤弥太「春信」、田中正春「新劇と歌舞伎俳優」、KS生「歌舞伎芝居の舞台的効果」、無署名「平博の唄」が掲載されている。続巻等があれば、そこに辻潤や黒石らの作品が載っていた可能性もある。なお黒石の労働者時代は基本的に1916年初頭から9月頃までであると考えられるが、その時期に豊水が関わった広告雑誌はNDLには所蔵されていないようだ。

 

「もっと光を!」+西村賢太「瘡瘢旅行」について


     東京電気株式会社『マツダ新報』18巻5号昭和六(1931)年五月発行
☞NDLDCログインで閲覧可能。
▶なんとなく読んだことがある気がして調べ直したら、『癡人の独語』に入っていた。しかし、①文章のタイトルと著者名が辻潤による手書きであること(他の筆者のものではそれぞれ筆跡が違うため、本人が書いていると思われる)、②西村賢太と『マツダ新報』について言及した文章は見当たらないため、とりあえず残しておく。            
                 (https://dl.ndl.go.jp/pid/1583064/1/20)
備考:西村賢太「瘡瘢旅行」で、貫多は秋恵を連れてはるばる岐阜の古書店まで雑誌を買いに行ったが(Youtubeにあがっていたいずれかの対談?でこれはおおむね事実を基にしていると言っていた)、それは『マツダ新報』のことだと思われる。これは東芝の前身の東京電気株式が発行していた雑誌である。たまたま黒石の作品が数点『マツダ新報』に掲載されていたことを知っていたため、ピンと来たのであった。おそらく国立国会図書館には全巻が収蔵されており、NDLデジタルコレクションで閲覧できる(ただし会員登録が必要)。

【(5.5更新) 追加・訂正】「大泉黒石参考文献目録」補遺(国松春紀氏作成目録への追加)

【訂正】

・p320 上から八行目、「明治二十七(1984)年」➡「明治二十七(1894)年」

※ご指摘いただきありがとうございました。

 

・p364 山本歩様の「大泉黒石『不死身』論──創作としての怪奇、抗いとしてのメタフィクション」の註釈において、「2020年12月に…」➡「2020年12月12日に…」

※日付を書くことを失念しておりました。誠に申し訳ございませんでした。

 

・p365 国松春紀様の『硝子戸の中』の註釈において、「私と文献探索──大泉黒石、小林勝、獄中作家」の初出として「『文献探索人 2014』金沢文圃閣2014.12」。

※ご教示いただきありがとうございました。

 

・p366 国松春紀様の『東京ノスタルジア』の註釈において、大泉黒石への言及箇所として「II 滝の坂界隈」p99を追加。

※『私の東京』の巻末索引で気が付きました。見落としをしてしまい誠に申し訳ございませんでした。

 

【追加】

1997.7 川端香男里大泉黒石」『【新版】ロシアを知る事典』平凡社

※p105に大泉黒石の項あり。なお確認したのは新版第5刷2014.4。

 

2005.12 三浦正雄「<研究資料> 日本近現代怪談文学史年表 : 昭和戦前・戦中編」川口短大紀要(19)

※p44昭和2年の項に大泉黒石怪奇小説集 眼を捜して歩く男』、p47昭和4年の項に大泉黒石『趣怪綺談 燈を消すな』が載っている。冒頭に概観あり。機関リポジトリからダウンロード可能。

 

2020.1 国松春紀『私の東京 消えた庭園と戦争遺跡』国松春紀

※巻末に詳細な索引あり。

 

2024.4 四方田犬彦大泉黒石の生涯と文学」白百合女子大学言語・文学研究センター編・井上隆史責任編集『世界文学としての日本文学』(アウリオン叢書22) 弘学社

※川村直様、及び山中剛史様のツイートに教えられました。おそらく4月刊行。入手方法が分からず未だ読めていませんが、必ず読みます。