大泉きよ『文章世界』掲載作品+大泉黒石「ひとりごと」

 

「一人の女」 長崎市伊良林四八三 大泉きよ

(『文章世界』7巻4号1912.3 187頁「短文」部門、「秀逸」選者=相馬御風)

 

 一人の女は今日も繪師の軒先に彳むで一枚の油畫を眺めてゐた。畫板には白壁の土藏と低い古瓦の上の後が描いてあつた。石垣の上の二棟には黃色い日が落ちてゐた。埃の白い瓦の上に靑空が濁つてゐた。檐の生えた淋しいペンゝ草の影が灰󠄁色の玻璃窓に力なく動いてゐた。干乾びた土の淡色、壞れた烟突の煉瓦の色、鍊びた扉の重い土藏の沈むだ香が、若い女の胸に染々淋しく懷しかつた。

 小暗い一枚の畫を背負つて巡る髮の長い男は雲の樣に古い都會の影を着た漂流者だ、男の心細い生活を想へば悲しかつた。一人の女は淋しい町を通る每屹度一枚の畫を眺めた。

 

 評 小川未明氏の作に見るやうな淋しいうちに慰めのある、悲しいうちに喜びのある人の心持が、しんみりした書き方のうちに溢れて居る。たゞ技巧に煩さはれて(ママ)自然の情懷を傷けるやうな傾きのあるのはとらぬ。

 

 

「ベンチの春」 長崎 大泉きよ

(『文章世界』7巻6号1912.5 192頁 「短文」部門、「佳作」選者=相馬御風)

 

 蝙蝠傘を小脇にして藍の褪めた職工の服を着た男が一人、ベンチに尻を向けて柵に椅り掛つてゐた。水色のペンキの剥げたベンチの腹に赤土の撥泥が上つてゐた。其處を辷つて行く水滴が密かに男の耳に觸れない微かな響をたてゝ冷めたいベンチの陰に『ぽたり』と落ちた。熟しきつた黑色の楠の實が『ぼた、ゝ』と重さうに雨に濕つた高い梢から墜ちた。そして轉つた儘ひつそりと落着いた。

 煤煙の漂ふ街の空を眺めていたゐた男は、淋しい顏をしてすたゝと去つてしまつた。

 春風が靜な公園のベンチを吹いてゐた。

 

 評 春と云ふ普通的な自然の狀態が、或る特殊的な人の心狀と結びついて、そこに特殊的な情趣を帶びて來る。そこを狙つて書いた作者の態度には同感出來るが、全體としての情味がまだ淺い。

 

 

「雲」 長崎 大泉きよ

(『文章世界』7巻8号1912.6 195頁 「短文」部門、「佳作」選者=相馬御風)

 

 『來るようい。』

 薄鼠色の雨雲が、後ろからと押れて、忙しく流れてゐた。

 暗い山蔭の、崩れた仄白い崖下に、工夫がいくたりも蹲んでゐた。

 『來るようい。』

 岩切る男の聲が、霧を含んだ風に消されて、淋しく響かなかつた。

 すると、蹴り放された、大きな岩のかけらが、野の小笹を押潰して逃げるやうに、轉り下つた。そのどろどろといふ音を聞きながら麓に、農夫が一人鍬を振つてゐた。

 

 評 もつと、力強く、そして暗示的に書けさうなものであつた。輪廓ばかり書かうとしてある。

 

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註釈

 『文章世界』は当時の文壇の登竜門であり、多くの作家を送り出した投稿雑誌である。懸賞としていくつかの部門が設定されているが、彼の作品が掲載されたのはいずれも「短文」部門であった(これ以外の部門にも投稿していた可能性はあるが、少なくとも入選はしていない)。投稿作品のうち、おそらく最初に掲載された「一人の女」が「秀逸」として住所付きで大きく掲載された。このことについて、随筆「ひとりごと」(『騒人』3巻4号、騒人出版局、1928年、122-124頁)では「中學三年の末頃、はじめて文章のようなものを作って「文章世界」に投書したところが何等かに當選した」と述べている。ここでは選者が前田木城(晁)だったと回想しているが、これは記憶違いである。この時の「短文」の賞品は「一円以下の図書」で、彼は「テニスンの詩研究」を貰ったという(石川林四郎テニスンの詩研究』(研究社)の出版は1921年である。本書は雑誌『英語青年』1911 年10月号(26巻1号)から1913年9月号(29巻12号)まで連載していたものをまとめたものであるため、清が景品として貰ったのは『英語青年』の方だろう。『英語青年』の定価は「一部 拾銭 郵税五厘」「十二部(半年分) 前金 一円貮拾銭 郵税共」「廿四部(一年分) 前金 貮円参拾銭 郵税共」であったため、半年分程度のバックナンバーが贈呈されたのだと考えられる)。

 以上のように『文章世界』の懸賞で立て続けに掲載されたということは、若い彼に文学への志を起こさせるに十分であっただろう。このように一面において典型的な文学青年であったというところに彼の悲劇があった。上京後、彼は方々の書店へ原稿を売り込むのだが、彼の風貌が全く日本人らしくないために、中身すら問題にされず突き返されてしまう(拙稿第 4章第2節「清と赤本屋──門前払いの苦悩」参照)。そうした「混血児」としての苦悩において、〈大泉黒石〉が生まれたのである(拙稿第5章第6節「〈大泉黒石〉の誕生」参照)。 

 ちなみに、彼が「泉清風」という筆名で書いた『夫婦心中 須磨の松風』(春江堂書店1918.7)には「柳瀬清」という人物が登場するが、彼は「女名前で少女雜誌へ寄せた一篇の小說が懸賞に當つて、非常な評判と成つた。それから如何も其女名前が止されなく成って、何處までもそれで寄稿して居た」という。これは以上の経験をもとに書いた記述かもしれない(「大泉きよ」というのは「女名前」というべきだろう)。なお、泉清風が黒石の筆名であるということについては、拙稿第5章を参照されたい。

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大泉黒石「ひとりごと」(『騒人』3巻4号、騒人出版局、1928年、122-124頁)

 英文學者のなかでも、屈指の名文家といはれる、ウヰリアム・ペヱタアの遲筆は嘘のやうだ。例のジヨン・モウレイの雜誌「フオトナイトリイ・レヴイユ」に賴まれた少か二十頁ばかりの小論文を書くのに、一ヶ年もかゝつてモウレイを驚かしたり、それほど大部のものでもない小說「マリアス」などを書き上げるのに、十二年そこらも費やしてゐる。日本でも紅葉山人には三行博士の名がある。僕、あへてペヱタアや紅葉山人の遲筆を氣取るわけでは決してないと斷つて話をしなければならぬほど近頃は、めつきり書けないのである。二三行の文句に一時間も引つかゝり一枚の原稿紙を眞つ黑くするのに、どうかすると半日丸つぶしの苦吟の揚句が、碌な成績ではないのだから、商賣にならんことは申すまでもなく、山の手の隱居が發句をひねるやうな按排の道樂にもなりかねた話だ。每月半ダース以上の長々しい小說やら小說まがひのを達者に書いてをられる向を見ると、そゞろ恐怖を感ずる。何。君。さうまで凝るに及んだ世の中ぢやないさ。お茶をのみながら饒舌るやうなんでいゝんだよと、村松梢風その人が每度忠吿される。凝るわけでもないのだが、そんなら一つその氣で書きますかねといつたやうなわけで是を書く。だらしのないこと先刻定つた。

 田中貢太郞翁の「怪談傑作集」を讀んで感あり。この作者の怪談の、他と趣を異にする點は、その妖怪の本質ともいふべき精神が東洋的であることだ。そこに出沒する化物には、「フランケンシユタイン」の怪物のやうに、人間の存在を呪詛し、人間の生活を破壞する兇惡の敵意あるのではなく、むしろ人生に興を添へる「人のいゝ化物」が多い。その悠々たる活動變化を指して、僕は東洋的といふ。

 不可抗的自然力の活動に對する微弱な人間の恐怖と崇拜とは、古き時代の怪談を生んだ。宗敎的にも科學的にも未開蒙昧の人間は、火や石や動物の中に不可思議な靈力、超人間の魔力を信じた。天狗。狐。狸。鬼。鵺。火喰鳥やバンジイなどが怖れられたのは此の時代である。僕はこれを怪談のアニマル・ヱイジ(動物時代)と呼び得る。而してその世界は專らヱジプト附近とエジプト以東に限られてゐる。これ卽ち自然恐怖と自然崇拜に原因する無性物(ママ)のアニマリゼイシヨンや、動物類のヒユウマニゼイシヨンが、信じ傳へられたる結果ともいふべき怪談が、西洋に稀にして東洋に頗る多い所以ではなからうか。怪談は次に宗敎時代(レリジユス・エイジ)に移つて惡魔があらはれた。次に道德時代(モオラル・ヱイジ)に入つて、幽靈が創り出された。これを僕は近代怪談時代の總稱を以て呼ぶことは出來ないであらうか。最後に僕等は哲學的、科學的の意味を與託せられた怪談の時代を迎へるに至つた。西洋近代の怪奇小說は槪ねそこに生れてゐる。その怪奇思潮は日本にも流れ來つて、室町以來の日本怪談の一大特色、いや、その生命であつたアニマル・ヱイジ(動物時代)とモオラル・ヱイジ(道德時代)に屬するところの「バケモノ」や「幽靈」怪談を蹴とばしつゝある。言葉をかへて言ふならば、ホフマンやポオやシヱレヱ夫人やビエルスやヴヱルスとその模倣者らは、聊齋志異や剪燈新話や諸國物語や日本靈異記や雨月物語小泉八雲泉鏡花などを葬らんとしてゐる。時代はもはや、文福茶釜や靈猫や怪狐や古狸や池の主や足のない幽靈の出現をゆるさなくなり、悉くリゾナブル、プロバブル、ポシブルなものゝみを歡迎するやうになつた。一面に於て、甚だしく理屈つぽくなり、不健全に傾き不道德に流れ、病的に走り、神經過敏に陷つて來たことは事實であるやうだ。而して、これまでの原始的であり、陽氣であり、樂天的であり、敎訓的であり、粗朴であり、單純であることを、その特質としたる日本怪談の趣は、今やたゞこの「傑作中」の作者田中貢太郞その人に於て、見るのみである。その怪奇の精神と趣味に、東洋の傳統をうけつぐ者ありとせば、その人を指して田中翁といふべく、何ら抗議の餘地はないやうに、僕は思ふが、どうだ。

 中學一年生といへば、スマイルスやマアデンの立志物語に感奮する年頃だ。僕もその一人であつたが、何とかといふ大學者よ傳記を讀んで、俺も一つ眞似をして物に成つてやらうかと恐ろしい了見を起し、每日一册主義といふものを奉じた。書物と名のつくものなら、何でも構はず每日一册讀み終らなければ寢床に入らないといふ主義で、每日一册讀めさうなものを、圖書館から借りて來て、豆ランプの光で貪りよんだものだ。一二年は無理に押し通したが、結果は近眼になるを得るに止まり、讀み上げたものは、ほとんど頭に殘つてゐない始末だから、考へて見ると馬鹿なことをしたもので、肝心の學校の首尾は決して香ばしからう筈がないとある。テニスンバイロン。ワアズワアス。ミルトン。スコツト。ヂツケンスと近づきになつたのも其頃である。シヱクスピアの「マクベス」に喰ひついて見たところが、どうにも齒が立たない。のべつ幕なしに辭典を引くのが厭になつて、とうたう投げ出した。シエクスピアには悸毛をふるつて以來今日に到るまでシエクスピアのものは「ハムレツト」以外に知らないのである。ほの「ハムレツト」を讀む氣になつたのも、例のドンキホーテとハムレツトに關するツルゲニヱフの論說に興味を感じたからで、學校を出てからのことだ。中學三年の末頃、はじめて文章のようなものを作って「文章世界」に投書したところが何等かに當選した。選者は前田木城といふ人だ。前田晁氏のことではないかと思つてゐるが、尋ねる機會もない。そのときの賞品に貰つたのが「テニスンの詩硏究」。つまりテニスンは飜譯で讀んだわけだ。かういふと文學の書物にばかり熱中したやうに思はれるが、あながちさうではない、しかし記憶に殘つてゐるのは、むしろ忘れてもいゝ文學ものばかりで、それも、少年の頭にわかり易くて面白いウヱル・ジユルン[ジュール・ヴェルヌ]の冒險旅行小說やウオター・スコツトの歷史物であつたやうだ。今年はそのヴヱル・ジユルンの誕生百年にあたる。思ひ出すのは少年の頃といふわけで、くだらぬことを列べたものだ。

 山本勇夫その人の「業平」に關する氣焔は每號敬意をもつて讀んでゐるが、三月號「騷人」には、一弦琴の發明者がこの本朝ドン・ジユアン氏であるやうな話だ。僕の聞いたところによると、例の松風村雨(?)の行平卿であつたやうに思ふが、それも確證はない。

 村松梢風その人が、中里介山その人を揶揄してをられる「介山常に傲語して謂へらく、豫は社會の要求によつて筆を把る、社會の要求なくんば立所に筆を折つて田園に隱退せんと。文士の文を綴つて新聞雜誌に發表するは素より個人の註文に依るものに非ず。社會の要求に依つて筆を把る者豈介山居士一人のみなりとなさんや云々。」と。これがほんとうなら大泉黑石その人だけは例外であるらしい。

 僕は社會の要求に應じて生れたやうな氣がしないせか(ママ)、あるひはまた社會と餘りソリの合はぬ性分に出來てゐるせいか社會樣の御厄介になつてゐながら、怪しからんことには、社會の思惑なんざ、とんと御構いなしに御當人の意志の命ずるまゝの、勝手氣儘なことばかり書いてゐるのである。たまたま社會の要求に投じたやうな形の代物も。一つや二つは有るかしらんが、決して、それも世間のお求めに應じて書いたつもりではない。たまには世間の御機嫌も伺はうかといふやうな了見になることも絕無ではないが、どうも相手が探偵小說やら大衆文藝なんど專ら歡迎するやうな社會では、とても御註文に應ずる氣色になりかねるのだから仕方がない。遲筆に寡作に加ふるに、この調子では貧乏もあたりまへとある。弱つたね、あつはつは。 (三月八日)