抜き書きから
過日。泉涓太郎が分かったのだから、梢朱之介の正体が分からないはずはない(少なくとも本名くらいは)、という勘のもと、その手立てを考えていたところ、ふいに『鬱金帳』創刊号の奥付を抜き書きしていたことを思い出した。
大正十五年三月五日印刷
大正十五年三月八日発行
編輯兼発行者 東京市外上落合四七八利岡方 武内仁雄
※裏表紙に「大正十五年三月五日印刷 大正十五年三月八日発行」「(毎月一回発行)定価金二十銭」とある。
おや、この「編輯兼発行者」の「武内仁雄」という人がかなり怪しいな…?と思い、改めて鬱金帳メモを見返して見ると、「泉涓太郎と成都事件」に引用した梢朱之介「編輯記」(『鬱金帳』創刊号)に、「泉は來春にイギリス文學科の卒業をひかへたれば、ここ一年は余が編輯にあたることとなりたり」と書いてあるではないか……。さらにいえば、同文章には「高等學校の懷かしき怠け友達にして帝大經濟科に籍を置く椿紅一郞」とも書いてあるが、①武内仁雄は1921年4月10日に松江高等学校入学、1925年3月10日卒業(「泉涓太郎と成都事件」で梢が松江高校出身であることは分かっていた)、さらに②同年4月に東京帝国大学文学部国文科入学(堀辰雄、舟橋聖一、神崎清と同級生!)、1928年3月31日の学士試験合格という人物であること(官報 1921年04月05日,官報 1925年03月13日,官報 1925年04月23日,官報 1928年04月21日)、③創刊号には梢、泉=深川経二、椿=帝大経済科の三人しかいないということから、梢朱之介が武内仁雄であることはほぼ確実であると考えられる。まさか、手持ちの資料だけであっさりと判明してしまうとは思わなかった(おそらく『鬱金帳』に関心がある方の中には既にこのことをご存知の方もいただろう)。燈台下暗し。
武内仁雄
デジタルコレクションのログイン解禁を待って、「送信サービスで閲覧可能」の資料も調べてみた(ところで、サービス休止期間が「令和6年12月27日(金)18時~令和7年1月6日(月)までの間」ということで、6日中はログインできないのかと思っていたが、午前2時頃にはログインできなかったものの、午後3時頃にはログインができた)。
武内には、四点の著書があることが分かった。そのうち、以下三点はNDLデジタルコレクションの送信サービスで閲覧可能である(なお『ケルネルつるぎの花嫁』は訳書)。
もう一点、1945年5月20日にヘルムート・ビュルックレ『航空計器概論』の翻訳が共立出版から出たようだが(判型B6、82頁、定価2円。『共立出版六十年史』共立出版、1986年、125頁)、これはNDLや大学図書館等には所蔵が見当たらない。1944年12月発行の『出版弘報』51号の「近刊図書目録」の紹介文によると「独逸エーテルボーグ航空技術学校教官ヘルムート・ビユルツクレ技師が解説した航空計器学早分かり。」頁数は100頁とされており、部数は2000とされている。
『武内仁雄遺稿集』には詳細な「武内仁雄年譜」がある(また「マニフィカートの聖母─戸田三吉物語」は自伝的小説)。出生から帝大時代までの記述を引用しておこう。
一九〇三年(明治36年)
五月十五日、高知県高岡郡中土佐町上の加江に生まれた。父、武内瑛(開業医)、母、菫(同村の利岡家から嫁す)の第二子。他に一姉五妹。両親ともに日本聖公会派のキリスト教徒で、仁雄は幼児期に洗礼を受けた。本名は仁雄、筆名は仁雄または仁。
一九一七年(大正6年・14歳)
四月、高知県立高知第一中学校に入学。翌年上京して成城中学校(東京市牛込区、現新宿区)に転入学。叔父利岡中和宅に寄宿して通学した。この叔父も聖公会派のキリスト教徒で、大正十年からは汁粉店を経営するかたわら伝道士としても活躍した。家は淀橋区柏木一丁目(現新宿区北新宿)にあり、夏にはここから隅田川まで数キロの道のりを徒歩で水泳に通う健脚の少年であった。その頃観海流、神伝流、水府流等の古式泳法を修得している。
一九二一年(大正10年・18歳)
四月、旧制松江高等学校文科乙類に入学。医学コースへの進学を期待していた父親をいたく失望させた。高等学校時代の仁雄には社交的な傾向はほとんどみられず、むしろ語学(ドイツ語)と読書(特に江戸文学とシラーやホフマン)に没頭した。反面、理数系の学問を怠ったため、一年生のとき留年。卒業もおぼつかなかったが、担任でドイツ語教授小林松次郎先生(…)の恩情に救われた。これらのことは、後年、仁雄自身しばしば語るところであった。
一九二五年(大正14年・22歳)
東京帝国大学文学部国文科に入学。左翼運動華やかなりし頃で、学内でも毎日、左翼学生の演説・咆哮が絶えなかったが、仁雄はこれに一顧をも与えず、ひたすらわが道をゆく姿勢を持した。この頃仁雄は創作に志し、文学仲間と同人雑誌『蠍』(さそり)を発行している。
「かつて私も大正末期〈象徴的純粋小説〉を志して、ドイツ表現派の影響を受けた短編を書き、中河与一、黒島伝治などにほめられたことがありましたが、〈命あっての物種〉的恐怖におそわれてやめました。」(昭和四十九年三月七日付書簡)
後年、在職した聖光学院の生徒のアンケートに答えて、仁雄は学生時代のことを次のように記している。
「クラブ=文芸部、読書=ドイツ文学(シラー、ホフマン、表現派)、国文学(万葉集、太平記、よみ本)、アメリカ文学(アラン・ポー)、友人=文芸部員(ほとんどみんな若死にをした)」(昭和四十一年発行『聖光芸苑』)
大学では、江戸文学の藤村作教授の講義に関心を示し、平安朝女流文学は最もこれを忌避した。卒業論文の表題は『江戸末期の文芸を論ず』であった。
一九二八年(昭和3年・25歳)
東京帝国大学文学部国文科卒業・続いて大学院に二年間在学。
と結婚。
この後の、佐佐木信綱の元での万葉集研究(この時の武内の著述はほとんど佐佐木名義で発表されたという)、国語教師としての遍歴等は年譜に譲る。なお、武内夫妻は1951年にカトリックに改宗している。
数点補足しておく。
1917年の欄に、成城中学時代に叔父利岡中和宅に寄宿していたとあるが、本稿冒頭に引用した『鬱金帳』奥付では「編輯兼発行者」=「鬱金帳発行所」の住所が「東京市外上落合四七八利岡方」となっていることから、帝大時代も(少なくともこの時期は)利岡宅に寄宿していたことが窺える。また、『鬱金帳』の印刷者「青野即本」、印刷所「使徒行社印刷部」は、デジタルコレクションで調べたところ、主にキリスト教関係の出版物を印刷している印刷者・印刷所であることが窺えるため、これは利岡の紹介によるものかもしれない。なお後年、武内は利岡著『真人横川省三伝』の校正をし、また歌集『戦争と平和』(未見)に跋文を寄せている(心の花 54(12)(626)、34頁)。
引用部分の記述を総合すると松江高等学校時代に文芸部員であったと推測できるが(まあ帝大時代のことを指しているとも取れるが)、「泉涓太郎と成都事件」で考証のために引用した『─翠松めぐる─ 旧制高等学校物語(松江高校編)』の「文芸部々史」を改めて確認すると、確かに大正十一年度には校友会誌第二号に武内仁雄名義で「悲劇未遂者の手記」を寄稿、大正十二年度には文芸部員に坂西新(『蠍』同人)と共に名を連ねていた(そして大正十四年三月十日発行の第七号に「梢朱之助」名義で小説「葵のかげ」を寄稿した)。
また、年譜中に『蠍』が挙げられているため、『鬱金帳』の「武内仁雄」(=梢朱之介)と『遺稿集』の武内とは同一人物であると確定してよいと思われる。分かっている限りで「梢朱之介」名義の活動を挙げておく。
1925.6 蝦蟇 蠍1(1)
.7 亂行 蠍1(2)
.8? ? 蠍1(3)
※前後巻からの推定
.9 鯛の怪異 蠍1(4)
※以降12月までの間に発行があったか不明だが、「ぬりえ屋」氏のポスト*1に『蠍』2巻2号には「No9」という通巻番号が振られているため、10,11,12月も発行されていたと推測できる。
1926.1? ? 蠍2(1)
※2(2)からの推定
.2 新悪魔主義と下駄について ─泉健太郎に與ふ─ 蠍2(2)
.3 岬 鬱金帳第一册
含羞草(「玻璃鏡」欄)
.5 一片の夏 鬱金帳第二册
.6 怪しき花 鬱金帳第三册
.8 猫鮫 鬱金帳第四册
1927.6 秋の遊絲 鬱金帳第五册
.8 みづたま(ハンス・アンデルセン) 象徴1(1)
吐心丸(フリツツ・フオン・オスチニ)
古風の浮世繪
※「望遠鏡」(53頁)に「うこん帳はしばらく休刊します。」とある。
.9 飛行する魚 象徴1(2)
香潮樓漫錄
☞『信濃毎日新聞』1927.8.31の〈見本帖〉欄に「飛行する魚」の抜粋。山蔦恒、星野晃一編「『信濃毎日新聞』文芸年表稿(昭和篇) (二)」『解釈』31(8)1985.8による。
.10 くづれる五月 象徴1(3)
望遠鏡
童謠妙々車
※この号より2(1)まで「編輯及び発行人」を担当。
.12 頽唐美少年錄 象徴1(4)
※附録の翻訳のいずれかを担当していた可能性がある。
おそらくホフマン「仕立屋の空中哀史」かホーソーン「野心」だろう。
1928.1 狛犬 象徴2(1)
香潮樓漫錄
ボフマン奇文抄 (獨)アマデウス・ホフマン
この他、デジコレで検索すると本名で佐々木信綱主宰『心の花』への寄稿、『短歌表現』への寄稿が確認できる。年譜によると1953年に「雑誌「文芸首都」に神戸三七の筆名で、『化猫の話』(六月号)[文芸首都 21(6)]と『松江』(九月号)の二編の短編小説を発表」、1969年に聖光学院の生徒達数名による「仁雄会」結成と雑誌『じんゆう』の発行、1975年にカトリック関係雑誌『カテケジス』(28号)、『カトリック新聞』(11月16日)に投稿した。遺稿集に収録された小説と翻訳はいずれも晩年に着手したものである。また年譜には記載されていないが、『世紀』1964年1月号(通巻164号、デジコレ館内限定)の「創作について─創作懸賞募集選考会─」には「予選通過作品」の一つとして武内仁雄「ドン・パウロ一条兼定」が挙げられている。選評では「土佐の国司兼定が戦乱の陰謀かけ引きの中に生き、しだいに所領を失い、失意の状態になったとき、大友宗麟によってキリシタンに改宗する。それから再起をはかるが、これも空しくなったときに、かつて不本意ながら自分がおとし入れた平田兼成に再開するという作品」と要約されているが、歴史的叙述に「引きずられてどうも肝心の兼定の性格が書かれていない」等の理由で落選した。
以下、梢朱之介時代の主義や作風を紹介するため、いくつか文字起こしを掲載しようと思っていたが、梢が武内仁雄であると一応証明してしまった以上、武内は未だ著作権保護期間内であるため、梢の作品の文字起こしを掲載してよいものか迷う。「周知の変名」の場合は本名の場合と同じ保護期間になるが、まあ「知る人ぞ知る」とすら言い難い本ブログで考証したところで、「周知」からは程遠いとは言える。しかし、「バレなきゃセーフ」のような形で公開するのも気が進まないので、ここでは年譜にあった「〈象徴的純粋小説〉を志して」いたという当時の姿勢を窺うための資料として、『鬱金帳』創刊号の随筆のみを引いておく。
梢朱之介「含羞草」
『鬱金帳』第一册23頁、随筆欄「玻璃鏡」より
1
象徵は寓意や譬喩ではない。生硬な哲理と槪念とをはなれた直觀である。さればこそ飛躍があり感覺がある。これはAなる理念をかゝげ、かれにはBなる槪念を盛る。などと、個々の現象をおのれが拳をまはす如く克明に指適すれば、もはや說明に落ちて徵象を失ふ。何故にか。寓話は象徵の形式ではあり得ざる故に、それでは「でたらめ」だと云ふのか。そのそしりなら、ある種のレアリズムスに向けるがよい。──寫眞屋は藝術家ではありませんからね。現實の寫實的なものよりも寫實であり、美的よりも美をもつ世界がある。直觀の形式によりその世界のゲミユウトこそ象徵のエスヒリたり得。
2
泉は何故に猫と煙草とカメレオンとを好むか、說明のかぎりではない。椿は、內的必然の命ずるに從つて書いたモオパスサンの「女の一生」を尊ぶと云つた。わたしもまた、猫と煙草とカメレオンとに官能の快美をかける泉の藝術を尊ぶであらう。左樣、「でたらめ」には「でたらめ」のゲミユウトがあるのさ。わたしの云ふゲミユウトとは、かのフリイドリツヒ・ホン・ホオヘンリンデンの云ふ所の意味である。氣分と譯して遠い情感である。
3
わたしは殿樣と鯛と合歡花と齒みがきとを好む。從つてわたしは彼等を小說に書く、かつてわたしは「亂行」なる舊幕の殿樣を主人公とした小說を書いて惡評を受けた、「齒を磨く男」と云ふ小說を書いてでたらめだと云はれた。わたしの心は如何におだやかでなかつたことか!しかし、これからもわたしは『殿樣』と『齒を磨く男』とを書くであらう。
4
わたしはわたしの書く小說が分からぬと云ふ非難を受ける。みなさん、御心配なさらさいで下さいまし。わたしの小說はわたし自身にも分からないのです。
5
それまでにして同人雜誌が出したいか。と云ふ人にはかう應へる。
それまでにして生きてゐたいのですか。
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