大泉小生「三高生活 冬の夜がたり」+大泉黒石「第三高等学校の生活」(アンケート)

 

大泉小生「三高生活 冬の夜がたり」(『中學世界』20巻1号1917.1 付録26-27頁)

 洛陽の冬はどん底から、犇々と冷氣が身に沁みて來る。東寺の高塔も、淸水の樓も、何も彼も比叡颪にそのまゝ凍つてしまふやうな氣がして、ぶらぶら車の上から、見物して行く遠國の人も、紅い唐傘をさして詣る京の女も影を消して了つて、衣の山僧があの高い處で、大きな暗い伽藍から、赤い蠟燭に燈を點して、山門を濳るのが、只、よろよろと寒さうに見ゆるばかりである。殊に明の明星がほのかに白くなる時分は。鴨の淸水も一時に氷化しさうに思はれる程つらい。
 鞍馬に、嵐に、大日に、愛宕に、挾まれた空合が、白々としらみかくると、寮の窓が摺ガラスのやうに茫と曇つて、物の凍る音を聞いてゐると、ぞつと寒くなる枕元を、足音も起てず消燈に來る白髮親爺が、赤い赤い掌に觸るゝ、薄暗い天井の塵梁から釣るした、煤けた洋燈の弱い光が消え去つて、親爺が捉げて來る、小さい古ぼけた四角のカンテラの音が、カランカランと鳴ると、眼を覺してゐる者は、もう起きねばならぬのかと思つて、「あゝ、嫌だなあ」と獨り呟きながら、赤い毛布を頭からすつぽりと冠つて、もう三分もう五分と思ひつゝ、眼をつぶつて、大原女が、花を頭に乘せて賣りに來る、透明な聲を聞いてゐる。
 東大へ去つた男が、ある年の冬、洛陽神陵の古巢へ宿借つて、夜明間近に、大原や八瀨、白川の花賣る女の聲を聞きながら、消燈がなくなつたのに氣附いて、一緖に宿つた九州の人に、
「あの花賣の聲に耳を澄ましながら眼をあけてゐて、不意に消燈に來る爺さんのカンテラの音を聞くと、あゝまた壽命が一日縮まるのかと思つた」と語つた。
「題寮燈。朝霞冬近づきぬ蓑の蟲」
 暫くはあの團栗の下の便所の壁に白墨で書き落としてあつた。今は白く塗つてある。
寒くて、冷めたくて、容易に床を疊むで起き出る者はなかつた。顏を洗つた人々は銘々飯を食ひに廊下を、ぞろぞろ通つた。頭の中には、
「今朝の菜は何だらう?」
と言ふ考へより他に何物も無かつた。そして、赤い味──噌汁を掻き雜ぜた揚句何の細末な物の影をも認め得ないときは五尺豐かな髯男も心中私かに落膽した。

 

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 夢二といふ畫家は試驗といふ字を死驗と書いた。その死驗といふ靑鬼に脅かされて、したゝか弱らされた男は、雁來紅の葉が黃ばんで、靑蟲の音が一日一日消ゆるひやゝかさを覺ゆると洋燈の紫を帶びた水の樣な油のしゆつしゆつと微かな響を立てゝ、一刻一刻に早く減るのを感ずる。比叡山の僧は冬の支度に町を下る。山僧のやうな陵校の男は、下宿の二階につくねんと胡座して考へた。その夜から、一間に二人分の夜具蒲團を堆高く積んで其兩側に机を運んだ。二人が背なか合せに、柔かな蒲團がふわりとして、燈心の燃ゆる音、煤けた明障子に堅く骸を橫たへた黑蜻蛉の影をも知らずに、夜つぴて獨逸語の奇妙な文字と根競べした結果、二日目からは只心地よい綿に凭り掛つて、小さい目も苦しい西洋の文字を睨むでゐるのが面白くなつて、寢たら瞼を上げて每夜こつこつと續けた揚句、茫とした瞳を向けて同僚を驚かせた。その時頃であつた。東山の奧の小さな寺の玄關から每朝てくてく通つて來る男があつた。岳堂と號して俳句を捻咒してゐた。黃昏、玄關へ歸つて見ると、鴨居に懸けてあると思つた帽子がなかつた。何げなく散らばつた邊。本箱の隅。机の下など覗いたが見當たらなかつた。

 其男は滅多に被らい(ママ)帽子が不意に踪跡を暗ましたので不思議に感じた。御寺の小僧が、惡戲に冠つて出る筈もないと感じた。調練の際に其のメステリユスな形の帽子を戴いて悠々と濶步する姿は一の偉觀を呈したものだ。維新から十年。西南の役の折に、
「西鄕隆盛りや、鰯か雜魚か、鯛に逐はれて逃げて行く」と囃しながら城山あたりに咆る砲聲をはるかに聞いてゐた日向の山蔭に、日每に、ざわざわと藪を掻き分けて落ちて來る、傷負ふ薩摩の隼も、絕え果て、村落の百姓衆バウエルがぼつぼつ、畑に野に鍬かつぐ頃、男の親父は鐵砲を肩に林の中を、彼方此方獲物を、探して步いた。
 丁度、靑葉濃き谷間に出た時、官軍の鎭臺兵が落して行つたものと見えて、黑い帽子が一つ轉んでゐた。親父が其時拾つて歸つたのが此男の帽子である。最初に冠つたのはその親父であつたらう。それが人の生肝を抉ると言ふあの森林から、中學の田舍者に運ばれたものだと言ふ。あちこち探してゐる內に到々押入から見付出した。
 明るい處へ引き出れた帽子にはぼろぼろの古綿が敷かれて、六匹の子鼠が赤い體に皺をよせて、もじもじ動いてゐた。男はそつと六匹を掌の平に上せて見たが、大いに處置に困つた。それから、その鼠の赤子は何うなつたか聞かぬが、彼は翌朝から昨日まで鼠の產屋であつた帽子を被つて、短かい髯を撫でながら例の通り漠然として通つた。

 

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大泉黒石第三高等学校の生活」(アンケート「私の得た最初の原稿料」『文章倶楽部』10巻1号、新潮社、1925年、91頁)

 

「中學世界」に「第三高等學校の生活」といふやうなものを書いて金參圓ばかり貰つたのが皮切りです。金を吳れた人は故人の竹貫佳水氏。その金で酒をのんで了ひました。飮んだ場所は京都の何とか山の上です。はつきりしたことは一向に記憶いたしません。

 

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註釈

 「三高生活 冬の夜がたり」は『中學世界』20巻1号の付録「新年付録 学校ロマンス」に掲載された。これは懸賞ではなかったようなので、どのようにして掲載にまでこぎつけたのか不明である。

 実際のところ初めて得た原稿料は「手軽で有利な商売」(『實業之世界』13巻13号1916.6。『俺の自叙伝』において黒石が『空業之世界』に寄稿したという「半紙に十枚ばかり絵入り」の「豚の皮で草履をつくる金儲けの法」にあたると思われる記事)か、丘の蛙『一高三高学生生活 寮のさゝやき』(磯部甲陽堂1916.10)辺りのはずだが、このアンケートでは以上のことは隠したのだろう。また、この時期の彼は東京にいたはずなので、京都で飲んだというのはおそらく虚構ではないかと思われる。 

 

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※おそらく『文章世界』掲載作の次に活字になった文章。

 

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※おそらく彼の最初の単行本。