黒石大泉清詳細年譜稿(1930-)

※入力の都合上、二つの記事に分けて掲載します。引用等の際は、書籍/pdf版の註番号、頁数を参照していただければと存じます(黒石大泉清伝 - Google ドライブ)。

 

 

「紅葉の中をゆく ─片品川渓谷─」について

1930年10月11日から14日にかけて『都新聞』に連載され、後に『山の人生』に収録された大泉黒石「紅葉の中を行く─片品川渓谷」を要約すると、次のようになる。9月26日、「その旅の途上で知合になった紳士T氏」(土地の人)と共に「丸沼の北八丁、湯沢の湯煙る舎」に宿泊。翌日、T氏と共に白根温泉を目指して下山。追貝集落に入り、屏風岩に対する「清瀧閣」で休憩。吹割の滝の見物や、「前の村長永井翁」らと食事をとる。その後、T氏と共に栗原峠を経て川場温泉へ向かった。この夜、黒石は「武尊山麓白澤村の若き南画家岸龍水氏」の家に泊まった。

一方、「黒石廻廊 大泉黒石全集書報 No.8」に掲載された 岸大洞「巡査と雪まみれの組打ちとなった大泉黒石」には、次のようなことが書かれている。「私が利根郡白沢村の生家で絵を書き、郷土史研究をしていたころの昭和五年九月二十六日」、小野忠孝(おの・ちゅうこう)宅へ行くと、黒石と「塚越某」に行き会った。この夜、二人は岸の家に泊まった。翌日は「川場温泉の都旅館」に黒石と共に一泊。28日午前、黒石と共に沼田へ向かい、黒石は「午後四時三十二分発の上り列車」に乗っていった。その後黒石は「奥日光丸沼の奥の温泉へ行き、その紀行文を都新聞に連載し、郵送してくれた」という。

このように両作品には同じ時期のことを書かれているのだが、その順序が正反対になっている。黒石の文章に登場する「岸龍水」が岸大洞であること、「T氏」が「塚越某」らしいことは分かるが、その他のことについてはどちらが正しいのか今のところ判断ができない。

なお、岸によると黒石は「私の実家へもよく泊った。」また、岸も「東京目白の鶉山」の大泉家を「二、三回訪ねた」という[1]

 

昭和六年(1931) 38歳

1月6日、添田知道に年賀状を送付[2]。遅くともこの書簡送付時までに「東京市高田町鶉山一五〇一」に転居。「目白の駅の近く」の貸家で、「絵描き」の家主は「黒石の名前を識っていたので気持よく貸して呉れた」という[3]。19日、田中貢太郎に書簡を送付[4]。これによると、この頃黒石は病臥していたようだ。お見舞い金なのか、「昨日、東京電気会社から金五十円封入の手紙が参りました」という。「一両月中には起床出来ることと思いますから、お訪ねいたす考え」だという。また「先日」、水木伸一に「久しぶりで会って」、山や温泉の話をしたところ、「東京電気の何とか言はれる重役(?)と一緒に行こうということになりましたが、私は寝込んでしまって手紙も書けなかった」ため、「御心当りがございましたら、貴堂より宜敷く仰せ願ひたいと存じます」という。4月、花岡謙二らと共に千川で花見[5]。5月、『山と峡谷』(二松堂書店)刊行。6月、第八小説集『天女の幻』(盛陽堂書店)刊行。7月3日、「京橋際竹河岸のジヤガタラ軒」で行われた「南洋料理の試食会」に参加[6]。同月、湯宿湯元館の岡田作夫、笹ノ湯の東海林鉱吉ほか地元有志らによって「三国峠から清水峠への縦走路を開こうという計画」が立てられ、添田知道と共に招待された[7]。一週間ほど湯元館に降り籠められていたが、12日、居ても立っても居られなくなった添田と黒石は悪天候のなか三国山に登頂、濃霧のため北進は諦め、永井を経て吹路へ下り(その途次で唐沢山にも登山)、宿へ戻った。盆の頃、「奥上州赤谷川上流の小さい宿」に滞在[8]。11月3日、菅野千介に書簡を送付[9]。同日、湯宿温泉から「山の友人H氏S氏」と共に越後湯沢を目指して出発[10]。永井、旧三国街道、浅貝、清津川渓谷、二居集落、三股集落、八木沢集落、柴原峠を経て越後湯沢温泉に到着、「高半旅館」に宿泊。一行はスキーのために来たが、雪が積もっていなかったため断念。9日、添田知道に葉書を送付[11]。これによると、湯宿温泉湯元館の裏山の別荘を借りているという。19日、再び添田知道に葉書を送付[12]。これによると、11月中はここに滞在する予定だという。また、21日から22日にかけて笹の湯温泉の人などと共に旅行するという。

 

昭和七年(1932) 39歳

この年、四男の湧(よう)が誕生[13]。この年、「何年振りかで」京都を旅行したようだ[14]。嵯峨の天龍寺で修行していた宮嶋資夫を訪ねて「三嶋亭」で共に飲んだが、酩酊した宮嶋に暴行を受けた。その後、「比叡山麓坂本の戒蔵院」にいた今東光を訪ねた。初春頃、上越周辺に滞在していたようだ[15]。遅くとも2月24日までに「東京市外長崎町西原三六一八」に転居[16]。7月24日までに「上毛山岳会」の会員になった[17]。秋頃、三国街道永井宿で町野久吉に関する取材を行い、「一人対千二百人(戊辰の役秘話)」を書き上げる[18]。その間、「泉屋」に宿泊していた。執筆後、湯宿温泉にしばらく滞在した後、帰京。冬頃から翌年の初春頃にかけて水上町の「藤原部落の百姓家」に滞在していたようだ[19]

 

昭和八年(1933) 40歳

この年、林芙美子宅(淀橋区下落合四の二一三三)の隣に転居したか(「林芙美子宅の隣にいつから、いつまでいたのか」参照)。遅くとも1月15日にまでに「東京市板橋区中新井町1丁目71」に転居[20]。2月3日、添田知道に葉書を送付(書簡には1月25日とあるが、消印は2月3日となっている)[21]。4月24日、添田知道に葉書を送付[22]。夏頃、鬼怒沼中之条町を訪れた[23]。6月18日、午前10時30分からJOAKにて「山に住む」という題でラジオ講演。広告記事によると、黒石は「彼方此方の山を歩いた後で、上越国境に入って四年」になり、「時々東京へ出て参る他は、山に住んで居」るという[24]。7月、『峡谷行脚』(興文書院)刊行。

 

林芙美子宅の隣にいつから、いつまでいたのか

林芙美子の作品や年譜、またいくつかの回想を読む限り、大泉家は1933年前後に下落合の林芙美子宅の隣に引越したようだ。

まず林芙美子側の記述をまとめておく。彼女が「淀橋区下落合四の二一三三の洋風借家」に転居したのは1932年8月のことだった[25]。初めに大泉家が彼女の作品に現れるのは1933年1月20日印刷、2月1日発行の『作品』5巻2号に発表された「厨女雑記」である。ここには「隣に、大泉黒石さん夫妻が七人の子供さんを連れて越してきなっす(ママ)た」とあるほか、大泉家の子ども達との交流も描かれている。いくつかの林芙美子の年譜で1933年2月頃に大泉家が隣家に引越してきたとされているのは、この作品によるのだろう。これに関して、より正確には「厨女雑記」が発表された『作品』の印刷日である1月20日までに引越してきたと考えるべきだろう。次に大泉家に関する言及があるのは、1934年8月10日印刷、9月1日発行の『新潮』31巻9号に発表された「柿の実」である。これも大泉家の子ども達との交流を描いた作品だが、その末尾で大泉家について「今年は最早その家族もサギノミヤとかへ越してしまった」と述べている。以上、林芙美子側の記録を総合すると、林が「淀橋区下落合四の二一三三」に転居した1932年8月以降、「厨女雑記」が発表された『作品』の印刷日1933年1月20日までの間に隣家に大泉家が転居してきて、「柿の実」が発表された『新潮』の印刷日1934年8月10日までの間に鷺宮へ転居していったらしい、ということになる。なお、「今年は最早その家族も(…)越してしまった」という記述から、少なくとも1934年までは隣家にいたと推測できる。

次に、大泉家側の記述をまとめておく。黒石は1934年11月10日印刷、11月15日発行の『シャリヴァリ』1巻3号に発表された「はれきん先生」において、林芙美子家の隣家に引越すまでの顛末を述べている。正確な日時は書かれていないが、まず日本放送協会長野放送局でラジオ収録をした後、松本、浅間温泉、「奥上州なる私大泉の山房」を経て上京、それから「我が子ども等一小隊の屯所を、下落合の一角に移した。翌日に至るまで知らなかったンだが、杉垣一重の隣家は、民間洋装清少納言林芙美子さんの御殿だ」った[26]。大泉

氵顕氏の回想によると、「この家は一寸気の利いた二軒長屋で落合川に面する南向き傾斜面の中腹にあった」[27]。以上によると、近所には林唯一、古屋芳雄、神近市子夫婦(夫は鈴木厚)、沖野岩三郎、宮地嘉六、吉屋信子らが住んでいた。そして「はれきん先生」には、やはり「私は既に下落合には住んでいない」とある。いつまで林宅の隣家にいたのかは未詳だが、大泉淵氏の回想から少なくとも転居した年のクリスマスまでは隣家に住んでいたらしいことが窺える[28]

最後に、当時の大泉家の住所を探っておく。

まず有力な手掛かりとなるのは当時書かれた書簡に記載された住所である。中本信幸「大泉黒石異聞」に引用された黒石の書簡(宛先不明)によると、1933年1月15日当時の大泉家の住所は「東京市板橋区中新井町1丁目71」だった[29]。さらに、同年2月3日、4月24日に送付された添田知道宛の葉書にも同住所が記載されている(いずれも神奈川近代文学館所蔵、特別資料)。また、2月3日の葉書には「僕の家は夏はよかッたけれども、冬の寒いことゝといったら、お話にならない。」とあり、ここからは昨年の夏も同じ家に住んでいたことが窺える(ただし「夏ならばよかったが」という仮定として読むこともでき、その場合は必ずしも去年の夏に住んでいたということにはならない)。

年鑑の類も見ておこう。『文芸年鑑』の1933年、1934年(共に6月発行)、1935年版(10月発行)では「東京市板橋区中新井町一丁目七一」となっている。1933年9月発行の「八年七月調査」とされている『毎日年鑑 現代日本人名録』(昭和九年版)では、「東京市目黒区下目黒二ノ四〇六」となっている。また1934年9月発行の「九年七月調査」とされている『毎日年鑑別冊 現代日本人名選』(昭和十年版)では、「東京市板橋区中新井町一丁目七一」となっている。以上、当時の年鑑は「板橋区中新井町一丁目七一」としているものが多いことが分かる(目黒区の住所にいたってはいつのものであるのか不明)。

以上から、林芙美子側および大泉家側の記録から推定された両家が隣り合っていた時期と、大泉家の住所が「東京市板橋区中新井町1丁目71」にあった時期とは、大体において一致することが分かる。それでは「東京市板橋区中新井町1丁目71」(大泉家)が「淀橋区下落合四丁目二一三三番地」(林家)の隣であったのか、ということになるが、これはどうも有り得なそうである[30]。明らかに林家の隣家に住んでいたはずの1933年1月15日、2月3日、4月24日の書簡にさえ中新井町の住所が書かれているのは何とも気がかりである。複数人の回想から、林家と大泉家とが隣り合っていた時期があったということに関しては間違いがないはずである。とすると、さしあたりはいずれかの回想なり住所の記述なりに誤りが含まれていたと考えるしかない。

なお、大泉家四女の淵氏は芙美子に気に入られ、養女にするという話まで出たが、これは立ち消えになった[31]。しかし大泉家の転居後も林はしばしば淵氏を迎えに来て自宅へ連れて行った。1934年9月21日、尾崎一雄一家が「淀橋区下落合四丁目二〇六九」(もぐら横丁)へ引越してきてからは[32]林芙美子宅で一雄の娘・一枝と淵氏とが遊ぶこともあった[33]。その後、氏は1945年から1951年の臨終まで「林芙美子のアシスタント・秘書・娘」として始終芙美子の傍にいた[34]

 

昭和九年(1934) 41歳

早春頃、上越国境周辺にある「岩蔵という爺さんの農家の一室」に滞在していたようだ[35]。6月頃、「残雪の笠ヶ岳に見参のつもり」で「奥利根鹿の沢の山房」から出発[36]。「清水隧道土合口の山ノ家」で朝食を取り、マチノ沢(マチガ沢)、芝倉沢、武能沢、「白樺小屋址」などを経て笠ヶ岳へ向かった。6月25日に以上の紀行を「奥上州の鹿の沢の山房にて」書き上げる。26日に上京し、翌日に東京日日新聞学芸部に原稿同封で書簡を送付[37](掲載されたか不明)。その書簡によると「十日ばかりのうちに、また山の家に帰ります」という。おそらくこの後、沢渡温泉沢渡温泉宿丸本」に滞在しており、ここから「丸本旅館の関口氏、島村氏」と共に「沢渡大洞窟」を探検した[38]。その後上京。7月、『山と峡谷 附・温泉』(浩文社)刊行。遅くとも8月10日までに林芙美子宅の隣から鷺宮へ転居(「林芙美子宅の隣にいつから、いつまでいたのか」参照)。この後、五反田、大森、小田原と転居していった[39](それぞれの転居時期や住所は未詳)。冬頃、草津温泉に滞在していたようだ[40]。 

 

昭和十年(1935) 42歳

この年、五女の泱(えい)が誕生[41]。またこの年、上石神井に住んでいたようだ[42]。年始に横須賀にいたようだ[43]。7月頃、ミヨと別れ話が出ていた[44]。秋頃から冬頃、沢渡温泉に滞在していた[45]。9月25日、集中豪雨による大規模な山津波があり、沢渡温泉は甚大な被害を受けたが、黒石は隣の集落に滞在していたため無事だった[46]。10月頃、上京して久しぶりに林芙美子を訪ね、共に酒を飲む[47]

 

昭和十一年(1936) 43歳

1月から2月頃、山本勇夫が「品川区大井立会町五二三」で古本屋を開店し、黒石も「此の仕事を扶けなかなか繁盛」していた[48]。2月頃、沢渡温泉に滞在していたようだ[49]。2月22日から24日にかけて『東京朝日新聞』朝刊に連載された「吹雪に踊る人々 原始村落の伝統と異俗」によると、この時点で沢渡温泉日本大学の大学村を作る話(黒石発案)は出ていたようだ(一説によるとこれは宿賃滞納の挽回策だった[50])。遅くとも3月までに「東京市板橋区石神井町北一ノ三〇五」に転居[51]。7月1日から3日にかけて『中外商業新報』に連載された「山から出て来た山男──文学後備兵の告白──」によると、「大分以前から」彼は中之条から「二里半」に位置する「S温泉」(おそらく沢渡温泉)の「仮寓(うち)」に「立籠って、仕事を続けている。上京するのは、用のある時だけだ」という[52]。この頃の大泉家は「九品仏へ遠からぬ西郊」にあった。11月、『創作 老子』(春秋文庫、春秋社)刊行。冬頃、越後周辺に滞在していたようだ(1935年冬~1936年新年の可能性あり)[53]

 

昭和十二年(1937) 44歳

この年、藤田健次に連れられて出席した雑誌『民謡詩人』の例会(池袋駅西口近くの蕎麦屋)で平山武章と知己となる[54]。2月、『創作 老子とその子』(春秋文庫、春秋社)刊行。同月の初午の日、新潟県六日市村から金城山へ登った後、再び六日市に戻り、電車で越後湯沢まで行き、当地の「高半屋」へ行った(「専女三(あけめみ)狐(けの)神(かみ)の小豆湯」に入るためであったようだ)[55]。黒石は湯沢の「山間の、他人の家」に「簡易軽便な移動書斎」を持っていたという。2月後半、現在の新潟県三条市の「瑞雲橋」付近に住む「土地の田園詩人を以て任ずる、此家の若主人、東都放浪時代からの旧知」という人物の家に滞在していた[56]。遅くとも4月までに「品川区西大崎二ノ二〇九渡邊アパート」に転居[57]。6月頃、鷲子山(現在の茨城県常陸大宮市と栃木県那珂川町の県境に位置)周辺の集落に滞在していた[58]。ここの「繭玉屋の苧太郎」の家に黒石の「山歩きの移動書斎」があった。

 

昭和十三年(1938) 45歳

7月から8月頃、大森に住んでいたようだ[59]

 

昭和十四年(1939) 46歳

この年、「池袋二丁目」に転居した[60]立教大学の近くで、立教大学生が頻繁に黒石宅を訪れた。また、秋田雨雀との交流もあった。黒石の酒乱ぶりを見兼ねたミヨたちは黒石を残し拝島へ転居した。しかし、転居先をかぎつけた黒石は何度かそこを訪れた。秋頃、日本大学芸術科の創立者である松原寛や、当時講師だった福田清人らが沢渡温泉へ大学村の視察をしに来た(この年以前の可能性あり)[61]。この計画のその後は未詳だが、沢渡に大学村が作られることはなかったようだ。

 

昭和十五年(1940) 47歳

1月21日午後1時より多摩川撮影所にて行われた映画俳優山本嘉一の葬儀に、沢渡温泉から上京して出席[62]。11月15日、秋田雨雀が来訪[63]。12月4日、雨雀がミヨと会って共にコーヒーを飲んだ[64]

 

昭和十六年(1941) 48歳

この年(おそらく夏以降)、「東京都杉並区阿佐ヶ谷四ノ九三七」の「南風荘」に転居したようだ[65]。ここで「菊池薫子」というファンと知り合い、後に同棲に至った[66](後述のように太平洋戦争の開戦前後に黒石は離婚したようだが、その前から菊池と同棲していたのか、離婚を機に同棲するようになったのか、はっきりとは分からない)。ここに「約三年間」住んだ後、横須賀に転居した。夏頃、元アナキストの作家松原晃が黒石宅からほど近い「豊島区池袋二ノ一一〇九」に位置するアパート「三弘別館」に仕事場として部屋を借りた[67]。黒石は彼と知り合い、時折ここを訪ねるようになった[68]。同じく夏頃、北魚沼の小出町の「青島屋」に前泊し、銀山平に登った[69]。10月頃、黒石の誕生日のためにミヨは奔走して祝膳を整えたが、彼がこれを無碍に扱ったことで、離婚の決心をしたようだ[70]。11月、『おらんださん』(大新社)刊行(ただし志村有弘大泉黒石文学ノート」によると、四女の淵が「幼年のとき黒石と共に、この作品をどこかの出版社に持ち込み、そのときは出版にいたらなかった」というため、執筆自体は出版時よりも少なからず隔たっているかもしれない[71])。太平洋戦争の開戦前後にミヨと離婚したようだ(「離婚時期について」参照)。

 

離婚時期について

大泉氵顕「大泉ミヨ伝」(56頁)によると、「黒石は大泉一家が池袋に漂着して間もなく或る女性のもとに家族から去って行った。」(ただし志村有弘大泉黒石の文学と周辺」262頁によると阿佐ヶ谷で菊池と知り合ったという)。そして「間もなく第二次大戦が始まる少し前」に「長崎時代に芽生えた(…)ミヨと黒石との幼い恋は幾多の変転の末、遂にここに潰えた」。同「大泉黒石と私の回想録 ─その(二)─」(108-109頁)には「昭和十七年頃離婚したらしい」とあるが、氵顕氏はこの時既に結婚して大泉一家とは別居しており、「たまたま池袋に住んで居た母親を訪ねた折にそれを聞いた」という。一方、同時期に母と同居していた大泉淵氏によると、離婚は太平洋戦争の始まる頃であったという。以上から、ここでは太平洋戦争の開戦前後に離婚したと推測した。

なお、ミヨは「自分だけを父の籍から抜いて子供を置いて家を出た」というが(『フミコと芙美子』411頁)、子ども達は母の行先を知っていたというし(同412頁)、戦後は子ども達と共に滝野川に住んでいたため、離婚を期に全く大泉家と関係がなくなったわけではなかった。子ども達の苗字は大泉のままであったことから、ミヨが「自分だけを父の籍から抜い」たということは事実なのだろう。

 

昭和十七年(1942) 49歳

この年、沼袋駅付近で偶然高橋新吉に会い、新吉の下宿「常盤荘」で雑談をしたが、このとき黒石は「九人の子供のある妻君が、若い燕と逃げた話をした」という[72]。5月、『山の人生』(大新社)刊行。7月、『白鬼来 阿片戦争はかく戦はれた』(大新社)刊行。秋頃、「笹の湯」、猿ヶ京温泉、「生井部落」を訪れた[73]。この時、「生井の校長」笛木正雄宅に上がり(校長は留守だった)、旧知の「生井国民学校永井分教場主任」田村氏、「老郵便脚夫」、校長夫人と久闊を叙す。田村氏と共に湯島温泉「見晴館」、「桑原館」を訪ねる。この後、姉山集落へ行き、ここにある田村氏宅に宿泊。9月、『露西亜文学史』(霞ヶ関書房)刊行。10月12日、群馬県白沢村の雲谷寺、高平集落、古語(こご)父(ぶ)を経て、川場温泉の「何年か前に泊ったことのある湯元部屋」に宿泊(この前に猿ヶ京温泉を訪れていたようだ)[74]。翌日、井土上、真庭などを経て、後閑駅まで歩いた。23日、病床にあった北原白秋を見舞う[75]

 

昭和十八年(1943) 50歳

7月、大泉清『草の味』(大新社)刊行。

 

昭和十九年(1944) 51歳

2月、大泉清『ひな鷲わか鷲』(大新社)刊行。これが生前最後の著書となった。12月6日、みたみ出版社を訪ねて『粗食栄養学』という本の出版を提案したが、叶わなかった[76]。この時、編集者の一人として一色次郎がいた。一色によると、黒石はここへ「いろんな案をよく持って」来ては断られていたという。

 

昭和二十年(1945) 52歳

東京大空襲で黒石以外の家族の住居が全焼したため[77]、彼らは長野県の「上田から少し千曲川を下った(…)川べりの静かな小さい村」に疎開した[78]終戦後は「北区滝の川二の一六」に移り住んだ[79]。一方、黒石は終戦後まもなく進駐軍の通訳に就いた(「九年何ヶ月」続けたという)[80]。はじめ任地は横浜に決まったが、「通訳どもの弗売買を取り締まる」役目になってしまい、「通訳どもの袋叩き」になることを危惧して、「横須賀進駐軍第四海兵隊通訳」になった[81]日本海軍施設の破壊作業、海軍図書館の創設時の通訳官、米兵と日本女性の恋文の仲介等をした[82]。普段は「兵隊屋敷」に起居していたが、「横須賀の山の中にも、小さい家を安い家賃で借りていた」[83]。これはおそらく終焉の地でもある「神奈川県横須賀市坂本町三-三〇」[84]で、「横須賀の港が見下ろせる小高い丘の上」にある家だった[85]。ここに菊池薫子も住んでいた。菊池は横須賀の居酒屋で働いていた[86]

 

昭和二十一年(1946) 53歳

5月25日、26日に「海兵図書館」上下(東京新聞)を発表。この年か翌年、「陸軍の騎兵第五連隊」に異動(「終戦と珈琲」によると海軍の通訳になってから「十八ヶ月後」に異動)。陸軍では「Camp Mcgill(武山兵営)」の「兵隊屋敷」に起居していた[87]。正確な時期は不明だが、SPB(特別調達庁)からの依頼で、独立の回復に向けて米軍による接収家屋の測量をしたこともあった[88]

 

昭和二十二年(1947) 54歳

1月3日、新田潤が「横須賀のかすとり焼酎を飲ませるところ」で「白髪の大泉黒石」に会ったという話を高見順にした(新田が黒石に会った時期は不明)[89]

 

昭和二十五年(1950) 57歳

8月6日、「銃剣を研ぐ」(朝日新聞)発表。これによると、この頃は朝鮮戦争に関する新聞記事の英訳をしていた。

 

滝野川宅への訪問

大泉湧「坂上の家」によると、高校三年生の夏休みが始まったばかりの頃、湧氏は横須賀の家に招待されて行った[90]。この際、氏は黒石に滝野川の家へ来ることを勧めた。これを受けて、「しだ(ママ)らくして、父が」滝野川の家を「たずねてきた」。それからしばらくここで暮らした。しかし、黒石は始終「息を殺し」たようにしており、氏は軽率に父を呼んだことを悔いたという。その後、黒石は「帰ったり、又しばらく居たりを繰返し」ていた。志村有弘氏による湧氏への聞き取りによると、黒石は「湧のもとに来ても創作はしなかったが、常に机に向って読書はしていた。いっこうに創作の筆を執らぬ父を見て、湧がこれをすすめ、活字にはならなかったが書き残した未定稿(…)がある」という[91]

大泉氵顕「大泉黒石と私の回想録 ─その(二)─」にも同様の回想がある[92]。戦後、氵顕氏は「横浜の米第八軍司令部の技師」の職を得て、ミヨや子ども達が暮らす滝野川の家から通勤していた。「ある日曜日の午后」、黒石が突然現れた(「何年か振りで、フラリと家族の家に舞い戻って来た」112頁)。ミヨが黒石に現在の職を訊くと、「一流紙のA新聞」に載った自身の随筆を示して「進駐軍の通訳をやって居ります」と答えた。これは1950年8月6日発行の『朝日新聞』の「銃剣を研ぐ」のことだろう(ただし氵顕氏は「筆者紹介には通訳官としてあった」としているが、これはおそらく記憶違いで、正しくは1946年5月25~26日に『東京新聞』に掲載された「海兵図書館」で「横須賀進駐軍第四海兵隊通訳」として紹介されたことを指しているのだろう。あるいは「一流紙のA新聞」が「東京新聞」を指しているのかもしれないが)。黒石は「久し振りに東京の雑誌社に来たので、一寸寄って見た」とミヨには言ったが、その後で氵顕氏に「あの女(ひと)[菊池薫子]と喧嘩して追出されてきたんです」と打ち明け、「今夜泊めて貰えんでしょうか?」と尋ねた。ミヨからも「可哀そうな人なら助けなくてはなりませんね」と了承を得て、黒石は嬉しそうにしていたが、家族と打ち解けることはなく(「親父が滞在して居た間、家族の者は殆ど彼とは口をきかない様子であった」112頁)、酒を飲んでも「昔の様に荒れることもなく、息を殺して酔って居るように見えた。」持参した包みには下着の他に「原稿用紙と鉛筆」があったという。「そして何日か、或は十何日か経った或る日、彼は忽然と去って行った。」しばらくして、氵顕氏もまた横須賀宅に招待されて行ったという。以上、久しぶりに帰ってきたということ、家では終始ひっそりと過ごしていたということなど、いくつかの記述の類似からこれは湧氏の回想と同じ時のことを書いたものだと考えられる。

おそらくこれらを受けて、四方田犬彦氏はこの滝野川宅での居候を1950年のこととしている[93]。確かに『朝日新聞』の「銃剣を研ぐ」が発表された1950年8月6日以降である可能性は高いが、必ずしも1950年のことであると断定することはできない。そのため、ここでは念のため別に項を立てた。

なお、1955年8~10月に黒石が『みづおと』に発表した作品からは、彼がその当時滝野川の家で生活していたことが窺えるが、各作品から当時は既に通訳官を退いていたことが分かるため、『みずおと』発表作品における滝野川滞在は上述の訪問よりも後の出来事であると考えられる。

 

昭和二十八年(1953) 60歳

7月頃、俳誌『藝園』(主宰=藤田健次)の同人になり、7月号から11・12月号にかけて同誌に俳句が掲載された(翌年以降は同人ではなくなり、寄稿も無くなる)。7月17日、藤田健次に書簡を送付[94]。これによると、この頃久里浜に住んでいた佐々木孝丸と交流があったようだ。この後、左肩、左腕を骨折してしばらく入院。10月1日、藤田健次宛に書簡を書き、8日に送付。これによると、この時は既に退院していたが、「半身ギブスで外出不可能」という状態であった。

 

昭和二十九年(1954) 61歳

松尾邦之助が『辻潤集』(近代社)の刊行を計画した際、何らかの形で協力した[95]

 

昭和三十年(1955) 62歳

この年の前半か前年の後半頃、進駐軍の通訳を退いたか(「いつ陸軍通訳から退いたか」参照)。5月、俳誌「みづおと」の会員になり、同誌に「夏の花」発表[96](以降、確認できる限り作品は『みづおと』にのみ発表)。6月、7月に「洋花」発表。7月6日、発行所(新宿区戸山ハイツ五の七六〇武井方)で行われた「みづおと」七月例会に参加、七月号の「七月例会」にも三句が載った。8月、「山小屋」、「嗜好(くち)に合ふ句」発表。9月、10月に「卓子異変」発表。8月から10月に『みづおと』に寄稿した作品によると、この頃滝野川で暮らしていたようだ[97]。11月、「終戦と珈琲」発表。

 

いつ陸軍通訳を退いたか

彼がいつ陸軍の通訳を退いたのか、これは今のところ彼の文章から推測するしかないので、その記述を整理しておく。

まず、「終戦と珈琲」(初出『みづおと』38号、1955年11月)によると、彼は終戦後まもなくして「横須賀米海軍基地」の通訳官となった。「これがアメリカの兵隊に塗れて九年何ヶ月の生活を送る皮切となった」という。1945年9~12月に通訳官として着任したと仮定すると、1954年後半から1955年前半頃まで通訳官をしていたと推測できる。逆に言えば、1954年後半から1955年前半までの間に進駐軍を退いたのだろうと推測できる。このことを裏付ける記述がいくつかあるので、それらを引いておこう。「山小屋」(初出『みづおと』35号、1955年8月)には「六十二歳の今日、東京に出戻りして一年にはならんのに、…」という記述がある。また「卓子異変①」(初出『みづおと』36号、1955年9月)には「駐留軍の勤めをやめて、東京へ舞い戻った私は…」とある。さらに「卓子異変②」(初出『みづおと』37号、1955年10月)には「体一つで横須賀から来て、今、寝起きする滝の川の家には、…」とある。

一方で「洋花」(初出『みづおと』33-34号、1955年6-7月)には、「私どもの落第事業に一段落ついて、日本は独立した。それから幾らもたっていない。雨も雪も降ったであろう。私は駐留軍から退いた。」という箇所があり、これを読む限りでは日本独立の頃に退いたようにも読める。ただし、これは時の推移を極端に切り詰めて表現するという黒石のよくやるレトリックであるようにも読める。

「洋花」の記述には解釈の余地があるが、「終戦と珈琲」「山小屋」「卓子異変」の記述を総合すれば、1954年後半から1955年前半の間に通訳官を退いて、一時的に滝野川宅へ来ていたのではないかと推測できる。さしあたりこの年譜ではそのように解釈した。

 

昭和三十一年(1956) 63歳

3月、4月に「紅燈街の浪人」(みづおと)発表。「紅燈街の浪人(二)」の末尾には「つづく」とあるが、これが絶筆となったようだ。

 

昭和三十二年(1957) 64歳

10月26日、横須賀宅にて脳溢血で逝去。翌朝、淳と氵顕が遺体を受け取りに来た[98]

 

昭和四十一年(1966)

12月、元夫人の福原ミヨが逝去[99]

 

昭和四十四年(1969)

7月、「俺の自叙伝」が抄録された『ドキュメント日本人9 虚人列伝』(学芸書林)刊行。

 

昭和四十七年(1972)

3月、『黒石怪奇物語集』(桃源社)刊行。9月、『人間廃業』(桃源社)刊行。

 

昭和四十八年(1973)

9月、「毛皮の褌」が収録された『大衆文学大系29 短篇集 上』(講談社)刊行。

 

昭和四十九年(1974)

8月、『部落問題文芸作品選集13 預言』(世界文庫)刊行。

 

昭和五十年(1975)

1月、「妙な狂人」が収録された『部落問題文芸作品選集20 文芸評論・随想集』(世界文庫)刊行。

 

昭和五十一年(1976)

12月、「毛皮の褌」が収録された『修養全集6 滑稽諧謔教訓集』(講談社)復刻。

 

昭和五十二年(1977)

8月、『部落問題文芸作品選集43 俺の自叙伝』(世界文庫)刊行。

 

昭和五十七年(1982)

5月28日、大衆文学研究会(主宰=尾崎秀樹)で「大泉黒石の文学」を研究課題として例会が行われた[100]志村有弘がまず「大泉黒石の文学」、次に大泉氵顕が「父・黒石のこと」を話した。大泉滉と大泉淵も参加した[101]。7月、志村有弘の引き合わせによって、鎌倉の大泉淵宅を島尾敏雄が訪れる[102]。大泉氵顕も同席した。10月、「幽鬼楼」が収録された中島河太郎紀田順一郎編『現代怪談集成 上』(立風書房)刊行。

 

昭和五十九年(1984)

3月19日、次男の大泉氵顕が逝去[103]

 

昭和六十一年(1986)

11月、「黄夫人の手」が収録された『小説幻妖 弐』(幻想文学会出版局)刊行。12月7日、部落問題文芸作品研究部会で「大泉黒石著『俺の自叙伝』(選集第43巻)」をテーマに研究会(第三十一回)が行われた[104]

 

昭和六十三年(1988)

2月から『大泉黒石全集』(緑書房)第一期の配本が始まる。『大泉黒石全集 2 老子』から配本された。3月『大泉黒石全集 3 老子とその子』、4月『大泉黒石全集 4 預言』、5月『大泉黒石全集 1 人間開業』、6月『大泉黒石全集 5 人間廃業』、7月『大泉黒石全集 6 葡萄牙女の手紙』、8月『大泉黒石全集 7 眼を捜して歩く男』、9月『大泉黒石全集 8 恋を賭ける女』、10月『大泉黒石全集 9 おらんださん』配本。

 

昭和六十四年/平成元年(1989)

2月、『露西亜文学史』(講談社講談社学術文庫)刊行。11月、「俺の見た日本人」が抄録された玉川信明編『日本番外地の群像 リバータリアンと解放幻想』(社会評論社)刊行。

 

平成四年(1992)

5月、「洋花」「卓子異変」「終戦と珈琲」が収録された「神奈川県近代文学資料」10集(神奈川県高等学校教科研究会国語部会)刊行(大泉黒石の調査・編集委員は国松春紀)。

 

平成四年(1993)

7月、「幽鬼楼」が収録された中島河太郎紀田順一郎編『現代怪談集成』(立風書房)刊行(1982年刊行のものの新装版)。

 

平成七年(1995)

4月、「犬儒哲学者」「不死身」が収録された中村三春編『ひつじアンソロジー 小節編1』(ひつじ書房)刊行。

 

平成十年(1998)

4月23日、三男の大泉滉が逝去[105]。10月、「幽鬼楼」「人間料理」「黄夫人の手」「不死身」が収録された『大衆〈奇〉文学館2 不死身・幽鬼楼』(勉誠出版)、「洋花」「卓子異変」「終戦と珈琲」が収録された「神奈川県近代文学資料」の合冊本『神奈川県近代文学資料 7~11集』(神奈川県高等学校教科研究会国語部会)刊行。

 

平成十一年(1999)

11月、「聖母観音興廃」が収録された志村有弘編『怪奇・伝奇時代小説選集2 伊右衛門夫婦 他10編』(春陽堂書店春陽文庫)刊行。

 

平成十三年(2001)

8月、「幕末武士と露国農夫の血を享けた 私の自叙伝」が収録された紅野謙介編『編年体 大正文学全集8 大正八年』(ゆまに書房)刊行。

 

平成十七年(2005)

7月、「黄夫人の手」が収録された紀田順一郎東雅夫編『日本怪奇小説傑作集1』(東京創元社創元推理文庫)刊行。

 

平成十九年(2007)

1月、パルテノン多摩にて、「ロスト・フィルム・プロジェクト」の第一回として映画「血と霊」を再現して上映する試みが行われた[106]。企画監修は『1923 溝口健二『血と霊』』(筑摩書房)の筆者である佐相勉、活動弁士澤登翠、ピアノ伴奏者は柳下美恵。

 

平成二十一年(2009)

12月、亀田武嗣による現代語訳『創作 老子』(メタブレーン)刊行。

 

平成二十四年(2012)

2月、『人間開業』(志木電子書籍)刊行。3月、『人生見物』『人間廃業』(志木電子書籍)刊行。4月、『山の人生』(志木電子書籍)刊行。

 

平成二十五年(2013)

この年、紀伊国屋書店が販売およびサポートしていた「EBSCOhost eBook Collection Netlibrary(EBSCO eBooks)」において『大泉黒石全集』全9巻(電子書籍、原版=緑書房)が販売開始[107](現在は紀伊国屋書店による販売およびサポートは終了)。6月25日から7月26日にかけて、日本大学芸術学部芸術資料館において「『世界文学の中の林芙美子』展」が行われ[108]、展示の中に「大泉黒石コーナー」もあった[109](このコーナーは清水正氏の主導によって作られた[110])。7月、『黄夫人の手─黒石怪奇物語集』(河出書房、河出文庫)刊行。7月5日、日本大学芸術学部文芸学科において、大泉淵が講師となって「父・黒石とおばさま・林芙美子を語る」という題の特別講座を行った[111]

 

平成二十六年(2014)

7月、『俺の自叙伝』『闇を行く人』(電子書籍、君見ずや出版)刊行。

 

平成二十七年(2015)

1月22日、日本大学芸術学部文芸学科において、大泉淵が講師となって「日本近代文学の人々~大泉淵が見た文人たち~」という題の特別講座を行った[112]。9月23日、次女の洽(Ai Oizumi Shay)がロサンゼルスのCedars-Sinai Medical Centerにて逝去[113]。11月、緑書房から『大泉黒石全集』全9巻(電子書籍)が販売開始。

 

平成二十八年(2016)

1月26日、日本大学芸術学部文芸学科において、大泉淵が講師となって「私が出会った近代文学の作家たち~大泉黒石から林芙美子まで~」という題の特別講座を行った[114]。7月、「火を吹く息」が収録された竹中英太郎『挿絵叢書2 竹中英太郎(二) 推理』(皓星社)刊行。

 

平成二十九年(2017)

11月、「谷底の絃歌」が収録された東雅夫編『山怪実話大全 岳人奇談傑作選』(山と渓谷社)刊行。

 

令和二年(2020)

4月、「人間開業」が抄録された「文豪と借金」編集部編『文豪と借金』(方丈社)刊行。

 

令和五年(2023)

2月、「谷底の絃歌」が収録された東雅夫編『山怪実話大全 岳人奇談傑作選』(ヤマケイ文庫、山と渓谷社)刊行。5月、『俺の自叙伝』(岩波書店岩波文庫)刊行。8月26日、四方田犬彦(ゲスト)と鹿島茂(メインパーソナリティー)の対談「四方田 犬彦著『大泉黒石 わが故郷は世界文学』(岩波書店)を読む」が行われた[115]

 

 

 

[1] 岸大洞「藤原の怪異譚」安達成之、川崎隆章編『藤原風土記宝川温泉汪泉閣、1977年、214-216頁。

[2] 神奈川近代文学館所蔵(特別資料)。この時の住所は「東京市高田町鶉山一五〇一」。

[3] 大泉氵顕「大泉黒石伝」『文人』2号、138頁。ここにはこの家に住んでいる時に黒石が土産として生きた青大将を持ってきたというエピソードが紹介されているが、同様のエピソードを黒石自身が綴った随筆「青大将」(『マツダ新報』18巻2号)は1931年2月に発表されている。

[4] 日本近代文学館所蔵(特別資料)。この時の住所は「市外高田町鶉山一五○一」。

[5] 尾崎眞人監修、編集『池袋モンパルナスそぞろ歩き 培風寮/花岡謙二と靉光』(池袋モンパルナス叢書⑨)池袋モンパルナスの会、2013年、24頁。他、井上好澄、下田惟直、津田正隆、藤田健次、堀江かとえ、横沢千秋らが参加。同頁及び本書表紙はこの時の集合写真。

[6] 「南洋料理の試食会」『芸術』9巻13号、1931年、7頁。黒石の他、「味之素の安東蘇洲」、井上和雄、大隅為三、北島浅一、栗原忠二、永見徳太郎、「出獄者の恩人で有名な原胤昭」、「銀座バッカスの女将藤島彌生」らが参加。

[7] 大泉清「蔓珠沙華と山牛蒡」『草の味』80-89頁、「釣鐘草」同163-164頁。大泉黒石「山の味谷の香」『である』1巻4号、59-60頁。添田知道「赤谷渓谷・三国界隈」『利根川随歩』三學書房、1941年、216-219頁。「山の味谷の香」が発表されたのは1932年4月だが、作中の紀行は「本年七月十二日」のこととされている。同紀行は添田知道「赤谷渓谷・三国界隈」では「昭和六年の七月」のこととされているため、これにしたがった。

[8] 大泉黒石「山笑い谷笑う唄 ─山の人生─」『公民講座』82号、1931年、103頁。

[9] 中本信幸「大泉黒石異聞」『ドラマチック・ロシアin JAPAN 3』335頁。

[10] 大泉黒石「秋の夜の旅」『山の人生』79-85頁。初出は『都新聞』1931年11月12日~14日。

[11] 神奈川近代文学館所蔵(特別資料)。

[12] 神奈川近代文学館所蔵(特別資料)。

[13] 志村有弘大泉黒石の文学と周辺」『近代作家と古典 ──歴史文学の展開──』262頁。

[14] 今東光「華やかな死刑派」『小説新潮』26巻7号、新潮社、1972年、56頁。今が三十三歳で僧侶となって「三年目、比叡山麓坂本の戒蔵院という僧房に籠っている或る日」のことであったという。各種年譜によると今が延暦寺に入ったのは1930年のことであるため、その「三年目」として1932年のことであると推測した。

[15] 大泉黒石「スキー小唄」『日曜報知』140号、報知新聞社、1933年1月29日、14頁。

[16] 「文芸思想 Who's who」『読売新聞』朝刊、1932年2月24日、4頁。

[17] 大泉黒石「山の怪異」『日曜報知』113号(1932年7月24日発行)の末尾に「上毛山岳会員大泉黒石記」とある。

[18] 大泉清「釣鐘草」『草の味』大新社、1943年、137-142頁。なお「一人対千二百人(戊辰の役秘話)」は同年の『キング』11月号(8巻11号)に発表された。

[19] 大泉黒石「スキー小唄」『日曜報知』140号、14-19頁。

[20] 中本信幸「大泉黒石異聞」『ドラマチック・ロシアin JAPAN 3』336頁。黒石による宛先不明の書簡に書かれた大泉家の住所。

[21] 神奈川近代文学館所蔵(特別資料)。この時の住所は「東京市板橋区中新井町1丁目71」。

[22] 神奈川近代文学館所蔵(特別資料)。この時の住所は同上。

[23] 大泉黒石「山の苦楽」『山』1巻8号、36頁。

[24] 『東京朝日新聞』朝刊、1933年6月18日、7頁。

[25] 磯貝英夫「略年譜」『新潮日本文学アルバム 34 林芙美子』新潮社、1986年、106頁。

[26] 大泉黒石「はれきん先生」『シャリヴァリ』1巻3号、無門社、1934年、4-7頁。

[27] 大泉氵顕「大泉黒石と私の回想録 ─伝記を続けるの弁─」『文人』3号、1981年、98頁。

[28] 「そんなことがあって[林芙美子「柿の実」と同様の挿話]、やがてクリスマスが来て、子供たちみんなおばさまに招かれて行ってみると、洋間にクリスマスツリーが飾ってあるの。あまり美しいのでみんなみとれてしまったわ。おばさまに教わって聖し夜を唱って、棒の先に赤や青の銀紙に包んだキャンデーがくっついてリボンを結んだのを一本ずつプレゼントして貰って帰りました。」(「恋しいわたしのおばさま芙美子 大泉渕さんの話」池田康子『フミコと芙美子』417-418頁)

[29] 中本信幸「大泉黒石異聞」『ドラマチック・ロシアin JAPAN 3』336頁。

[30] 一例として、『大東京新地図』文化地図普及会、1933年。NDLデジタルコレクションで閲覧可能(https://dl.ndl.go.jp/pid/8311055/1/12)。最終閲覧2024年4月2日。

[31] 大泉氵顕「大泉黒石と私の回想録 ─伝記を続けるの弁─」『文人』3号、1981年、99頁。板垣直子『林芙美子の生涯 うず潮の人生』大和書房、1965年、130-131頁。

[32] 「年譜」『尾崎一雄全集 第十五巻』筑摩書房、1986年、454頁。

[33] 尾崎一雄「もぐら横丁」『もぐら横丁』池田書店、1952年、143、148頁。淵氏と尾崎一雄の長女一枝が遊んでいる場面は、1935年1月に尾崎家長男が生まれた後のことである。これを読む限り、黒石と一雄の間には特に交流はなかったようだ。ちなみに尾崎家は1935年夏に牛込馬場下町へ引越していった。

[34] 「恋しいわたしのおばさま芙美子 大泉渕さんの話」池田康子『フミコと芙美子』395-498頁。「林芙美子47歳で急逝 26年6月28日 かっぽう着の女性、焼香に列」(昭和史再訪)『朝日新聞』夕刊、2012年6月30日、4頁。山下聖美「大泉淵氏の証言による林芙美子の臨終場面についての研究」『日本大学芸術学部紀要』63号、日本大学芸術学部、2016年、5-10頁。

[35] 大泉黒石「石塔を剃る ─狸を食うまで譚─」『山の人生』115頁。初出『日曜報知』1934年3月18日。

[36] 大泉黒石「雪渓漫歩 ─山開き前の山小屋のぞ記─」『政界往来』5巻8号、1934年、224-228頁。

[37] 川村湊、守屋貴嗣編『文壇落葉集』毎日新聞社、2005年、55頁。

[38] この紀行は、大泉黒石「蝙蝠の糞 ─澤渡温泉穴小屋の洞窟─」(『山の人生』252-261頁)では沢渡温泉で山津波があった年=1935年のこととされている。しかし、1934年7月21~22日に『国民新聞』に掲載された「自然の迷宮 沢渡穴小屋沢洞窟記」と記述が酷似していることから、「蝙蝠の糞」も同じ紀行を書いたものであると考えられる。1934年7月21日発表の「自然の迷宮」には「つい先日、私が探検した一ッの景物である」と書かれているため、ここでは笠ヶ岳登山の後のことと推測した。

[39]「恋しいわたしのおばさま芙美子 大泉渕さんの話」池田康子『フミコと芙美子』422頁。

[40] 大泉黒石「珍風景 雪の湯の町」『政界往来』6巻1号、1935年、244-245頁。

[41] 志村有弘大泉黒石の文学と周辺」『近代作家と古典 ──歴史文学の展開──』262頁。

[42] 志村有弘大泉黒石の文学と周辺」(『近代作家と古典 ──歴史文学の展開──』260頁)によると昭和「十年ごろは、上石神井に住」んでいたという。

[43] 大泉黒石「軍港ゆうもあ」上下、『都新聞』1935年1月16-17日、いずれも1頁。

[44]「銀婚式から破婚へ」(「展望台」欄)『読売新聞』朝刊、1935年7月16日、10頁。

[45] 大泉黒石「炉辺独語 (一)狐とハンドバッグ」『都新聞』1935年12月10-12日、1頁。

[46] 大泉黒石「蝙蝠の糞 ─澤渡温泉穴小屋の洞窟─」『山の人生』253頁。一年前に仙人窟探検を共にした二人は圧死してしまったという。

[47] 「芙美子女史と大泉老」(「文壇噂話」欄)、『週刊朝日』28巻17号、1935年、38頁。

[48] 「転居一束」『白日』10巻1号、白日荘、1936年2月12日印刷15日発行、64頁。

[49] 大泉黒石「吹雪に踊る人々」『山の人生』230-237頁。初出は『東京朝日新聞』朝刊、1926年2月22-24日。滞在中に「天神籠り」という年中行事が行われたという(初天神の行事か)。

[50] 志村有弘大泉黒石の文学と周辺」『近代作家と古典 ──歴史文学の展開──』254頁。

[51] 文芸家協会編『文芸年鑑 一九三六年版』第一書房、1926年3月15日印刷20日発行、261頁。

[52] 大泉黒石「山から出て来た山男──文学後備兵の告白──」『中外商業新報』朝刊、1936年7月1-3日、1日と2日は8頁、3日のみ7頁。同作によると、「日本大学芸術科の学生約百五十名」が「奥上州吾妻渓谷」を撮影した「六百呎の発声(トー)映画(キー)」があり、これの民間への払い下げを「映画科主任の仲木貞一氏」に頼まれたという。そこで黒石は「私設全権の役」を引き受け、「御大の松原寛氏にこの事を告げて」中之条へ向かったが、払い下げは思うように進まなかったという。以上については今のところ詳細不明。

[53] 大泉黒石「雪橇は走る」『山の人生』98頁。「白樺の梁にブラ下る石油洋燈の灯下。越後素麵の空箱を机と心得、もはや頑として動かぬ、東京奠都卅年祭紀年置時計を文鎮に、原稿なるものを書いたのは、昨年の私であったが、…」とある。初出が『都新聞』1937年2月21-23日で「昨冬」とあるため、1936年後半の冬と1935年後半の冬~1936年新年の二つの可能性があるが、ここでは前者とみなした。なお同随筆の後の箇所によると、越後湯沢の「山間の、他人の家」に「簡易軽便な移動書斎」を持っていたというが、先に引用した「昨年」の出来事(「白樺の梁にブラ下る石油洋燈の灯下…」)がここで行われたことなのかは不明。

[54] 平山武章「時の翼にのって」『赤い泥鰌』185頁。他に佐藤一英、福士幸次郎、藤田徳太郎らも出席(なお大泉氵顕「大泉黒石伝」『文人』2号、135頁では黒石と交友があった人物の一人として福士幸次郎が挙げられている)。「平山武章(郷土史家)」「国土庁長官表彰受賞者・全離島会会長表彰受賞者/プロフィール」『しま』39巻3号、日本離島センター、1994年、23頁。

[55] 大泉黒石「雪橇は走る」『山の人生』94-101頁。

[56] 大泉黒石「雪の新潟 雪中行脚土産」『東京朝日新聞』朝刊、1937年3月4日、16頁。

[57] 文芸家協会編『文芸年鑑 一九三七年版』第一書房、1937年4月15日印刷20日発行、285頁。これ以降、確認できた限りでは文士録等で大泉家の住所が更新されることはない。

[58] 大泉黒石「緑の魔力」『サンデー毎日』16巻32号、1937年、12-13頁。作中で6月1日と6日に行われる村の風習について述べていること、またこの作品が6月27日発行の雑誌に掲載されたことなどから、この頃に鷲子山周辺の集落に滞在していたと推測した。

[59] 7月発表の「やまを飛ぶ女 山の奇怪話」(改造)では住居が大森にあるとされている。また8月発表の「祖先の追憶─モールス誕生百年前奏譜─」(経済知識)は大森貝塚に関する随筆である。大泉淵氏の回想にしたがえば、この前に五反田に住んでいた時期があり、大森の次には小田原に転居した(「恋しいわたしのおばさま芙美子 大泉渕さんの話」池田康子『フミコと芙美子』422頁)。

[60] 志村有弘大泉黒石の文学と周辺」『近代作家と古典 ──歴史文学の展開──』261頁。

[61] 福田清人大泉黒石のスナップ」「黒石廻廊 大泉黒石全集書報 No.6」3-4頁。ただし、ここで述べられている黒石が川から仏像を拾った話とほとんど同様の話を、既に1938年8月の『好古』4号の座談会で黒石が語っている。また、1940年2月の『サンデー毎日』19巻9号に発表された大泉黒石「雪靴小靴」でも同様のエピソードが「数年前の大雪の日」のこととして語られている。以上から、視察は1939年以前の可能性がある。

[62] 大泉黒石「雪靴小靴」(『サンデー毎日』19巻9号、1940年2月25日発行、12頁)によると、「東京の拙宅から、亡友の葬儀に罷り出なさい、といって来た」という。また末尾に「故山本嘉一翁の霊に捧ぐ」とある。山本嘉一は1939年12月17日に亡くなった(「老優・山本嘉一氏死去」『読売新聞』朝刊、1939年12月18日、7頁)。葬儀については「豆手帳」『読売新聞』夕刊、1940年1月13日、3頁や『東京朝日新聞』朝刊、1940年1月15日、5頁の葬儀の広告等参照。「豆手帳」によると20日夜は「全所員が俳優部屋で通夜」をするという。

[63] 秋田雨雀秋田雨雀日記 第3巻』未来社、1966年、248頁。秋田は池袋に来たついでに黒石を訪ねているため、この時はまだ黒石は池袋に住んでいたと考えられる。

[64] 秋田雨雀秋田雨雀日記 第3巻』252頁。

[65] 明確な転居時期は不明だが、志村有弘氏によると「第二次世界大戦中は、阿佐谷に住していた。黒石はここで菊池某という女性と知り合った。ここで約三年間住し、後、横須賀に住することになる。」(「大泉黒石の文学と周辺」『近代作家と古典 ──歴史文学の展開──』262頁)また265頁に「阿佐谷の南風荘に住していた時」とある(南風荘の住所は以下による。日本学術会議編『日本科学者総覧 昭和28年版』日本学術出版連盟、1952年、33頁。『日本紳士録 第四十八版』交詢社、1954年、い69頁。『塾員名簿 昭和32年慶應義塾、1957年、539頁)。後述の松原晃「田代儀三郎君の思い出(1)」によると、この年の夏頃は黒石はまだ池袋に住んでいたらしいため、夏以降に転居したと推測した。

[66] 志村有弘大泉黒石の文学と周辺」『近代作家と古典 ──歴史文学の展開──』262頁。「菊池薫子」という名前は「黒石廻廊 大泉黒石全集書報No.7」大泉黒石全集刊行会、1988年、5頁による。なお、俳人の菊池薫子とは別人であるようだ(『母菊池薫子俳句集子恭三絵葉書俳句集・卆寿記念』ウチヤマ出版2016年を参照する限り)。

[67] 松原晃「田代儀三郎君の思い出(1)」『日通文学』17巻7号、日通ペンクラブ、1964年、10頁。「池袋二丁目の立教大学の近くに三弘別館というアパートがあった。隣は村松時計の工場である。」「アパートの前は大通りで、その向う側の路次を入ったところに昔「老子」で鳴らし「ロシヤ文学史」などもある大泉黒石氏が住んでいたが、同氏はロシヤ公爵と日本女性との間に出来たアイノコで風貌が変わっている。妻君が他の男と出来て家出をし一人で住んでいた(…)この人が私のアパートに時々来る」という(三弘別館の住所については「社団法人 日本文学報国会会員住所録」の松原晃の項、『昭和十八年度 会員名簿』社団法人日本文学報国会、1943年、257頁)。黒石宅の隣が「お湯屋」だった。ミヨの不倫に関しては、この時期の黒石が随所で吹聴していたことであるため、事実かどうか不明。

[68] 松原晃「田代儀三郎君の思い出(2)」(『日通文学』17巻8号、7頁)によると、ここには黒石の他に作家の蒲原拓三(山添栄一)、柴田慶二、諏訪千恵子、滝川駿、武岡葉、田代儀三郎、根岸寛、町喜郎、物上敬、山下一夫、吉田与志雄らが訪れた。(1)によるとこの大半は「歴史文学研究会」のメンバーで、これは松原、滝川、蒲原、陳出達郎らが中心となって、松原の部屋で月に一度集まって歓談する集まりで、他にも「その仲間の女性もくるし、池袋辺の酒場のマダムなども来」るような気楽なものだった。黒石がこの集まりに参加していたかは不明。

[69] 大泉清「釣鐘草」『草の味』164-165頁。1942年の紀行であると思しき「釣鐘草」において、「昨年の夏」のこととして銀山平行に言及がある。「銀山平の今昔」(『山の人生』所収)はこの時の体験を元に書かれたか。

[70] 「ところが私が女学校へ入った年に破局が来たのよ。もう母の箪笥もほとんど空になっていたはずです。その日は父の誕生日だというので、母は質屋へ走って祝膳を整えて、子供は次の部屋へ放って父のお給仕に坐ったところ、父はお膳を一瞥するといきなり膳ごと脇の長火鉢へひっくり返したのよ。もう母の決心は動かなかった。どういう話合いがあったのかわからないけど自分だけを父の籍から抜いて子供を置いて家を出ました。(・・・)勿論母の行先は聞いてましたがしつこくきく父に誰も教えなかったので父は知らぬ間に家を出ていきました。」「十二月に入るとアメリカと戦争が始まりました。そのころです、両親が別れたのは・・・。」(「恋しいわたしのおばさま芙美子 大泉渕さんの話」池田康子『フミコと芙美子』411-412、426頁)

[71] 志村有弘大泉黒石文学ノート」『文人』5号、73頁。

[72] 高橋新吉『ダガバジジンギヂ物語』思潮社、1965年、272頁。

[73] 大泉清「釣鐘草」『草の味』122-172頁。1932年秋発表の「一人対千二百人(戊辰の役秘話)」の取材以降、十年ぶりにこの人々に会ったということから1942年の出来事だと推測した。正確な日付は不明だが、「十月十五日」よりは前のことであったようだ(149頁)。10月12日の川場温泉行との前後関係は不明。

[74] 大泉清「武尊山の草々」『草の味』63-75頁。

[75] 「みとり日記」『多磨』15巻6号、多磨短歌会、1942年、45頁。場所はおそらく阿佐ヶ谷に会った白秋宅。この日の見舞客は他に岡田勝治、岡村三司馬、清原齋、古田中正彦、小島末治郎、牧野律太など。

[76] 一色次郎『日本空襲記』文和書房、1975年、92-93頁。

[77] 「恋しいわたしのおばさま芙美子 大泉渕さんの話」池田康子『フミコと芙美子』428頁。

[78] 大泉氵顕「大泉黒石と私の回想録 ─その(二)─」『文人』4号、110頁。

[79] 「新会員」『みづおと』32号、水音発行所、1955年、10頁。

[80] 大泉黒石終戦と珈琲」「黒石廻廊 大泉黒石全集書報No.9」大泉黒石全集刊行会、1988年、1-2頁。初出『みづおと』38号、1955年。

[81] 経緯は大泉黒石終戦と珈琲」、所属と役職は大泉黒石「海兵図書館(上)」『東京新聞東京新聞社、1946年5月25日による。

[82] 大泉黒石「卓子異変①」「黒石廻廊 大泉黒石全集書報No.7」1-2頁。「終戦と珈琲」「黒石廻廊 大泉黒石全集書報No.9」1-3頁。志村有弘大泉黒石の文学と周辺」『近代作家と古典 ──歴史文学の展開──』262頁。

[83] 大泉黒石「洋花」「黒石廻廊 大泉黒石全集書報No.5」3頁。初出『みづおと』33-34号、1955年。

[84] 由良君美「黒石の生没年確定について」「黒石廻廊 大泉黒石全集書報No.5」7頁。なお、この文章では「阪本町」とされているが、正しくは「坂本町」。

[85] 大泉氵顕「大泉黒石と私の回想録 ─その(三)─」『文人』5号、71頁。同号収録の大泉湧「坂上の家」は、湧氏が黒石の生前にここを訪れたときの回想。なお、現在の当地からは港はおろか海さえ見えない(訪問日2023年10月26日)。

[86] 志村有弘大泉黒石の文学と周辺」『近代作家と古典 ──歴史文学の展開──』261頁。

[87] 大泉黒石「洋花」「黒石廻廊 大泉黒石全集書報No.5」1頁。坂本曻「米軍キャンプで」(「黒石廻廊 大泉黒石全集書報 No.8」7頁)は1949年に黒石と同じキャンプで生活していたという者の証言である。

[88] 大泉黒石「洋花」「黒石廻廊 大泉黒石全集書報No.5」1-3頁。

[89] 「新田が酩酊して、面白いことをいって、みんなを笑わせる。横須賀のかすとり焼酎をのませるところで、白髪の大泉黒石に会った話などをする。」(高見順高見順日記 第七巻』勁草書房、1965年、311頁)

[90] 大泉湧「坂上の家」『文人』5号、57-59頁。

[91] 志村有弘大泉黒石の文学と周辺」『近代作家と古典 ──歴史文学の展開──』266頁。「未定稿」の概要も同著で紹介されている。

[92] 大泉氵顕「大泉黒石と私の回想録 ─その(二)─」『文人』4号、109-114頁。

[93] 四方田犬彦大泉黒石 ──わが故郷は世界文学』185頁。

[94] 7月17日と10月8日の藤田健次宛の書簡は日本近代文学館所蔵(特別資料)。これらの内容は四方田犬彦大泉黒石が遺した書簡について」『日本近代文学館館報』316号にまとめられている(複写も掲載されている)。

[95] 松尾邦之助「DADAとその仲間」(『青春の反逆』春陽堂書店、1958年、244頁)で、「昭和二十九年わたしが、『辻潤集』の刊行を計画したとき、原稿を寄せたり、発起人になって協力してくれた」人々が列挙されるなかで大泉黒石も挙げられている。

[96] 「新会員」『みづおと』32号、10頁。ただし39号の「水音会員住所録(三〇、一二、二〇現在)」には「大泉黒石 北区滝の川二の一六(寄稿者)」とある。「寄稿者」とわざわざ但し書きされているのは黒石のみであるため、一般的な会員ではなかったようだ。実際、黒石は例会にはほとんど参加しておらず、俳句を発表する場合も自身の随筆の冒頭に付すのみであった。

[97] ただし滝野川にいる一時期に8~10月分をまとめて書き上げた可能性もあるため、これらをもってこの期間ずっと滝野川で暮らしていたと断定することはできない。

[98] 大泉氵顕「大泉黒石伝」『文人』2号、129-130頁。墓は小平墓地に設けられた。「23-41-24」を手掛かりにすれば見つけられる(四方田犬彦大泉黒石 ──わが故郷は世界文学』191頁)。

[99] 大泉氵顕「大泉ミヨ伝」『赤い泥鰌』56頁。

[100] 大泉氵顕「大泉黒石と私の回想録 ─その(三)─」『文人』5号、60頁。なお磯貝勝太郎編「年表 大衆文学研究会略年表」(『大衆文学研究』97号、1992年、49頁)では、氵顕氏の発表の題名は「父・大泉黒石」となっている。

[101] 志村有弘大泉黒石文学ノート」『文人』5号、73頁。

[102] 島尾敏雄「大泉氵顕さんを偲んで」『赤い泥鰌』168-170頁。志村有弘『忘れ得ぬ九州の作家と文学』パワプラ出版、2016年、65頁。

[103] 「大泉氵顕略歴」『赤い泥鰌』222頁。

[104] 「部落問題文芸作品研究部会の歩み」『部落問題と文芸』1号、部落問題文芸作品研究会、1988年、54頁。

[105]大泉滉氏(俳優)死去」『読売新聞』全国版ほか、1998年4月24日、19頁。

[106] 「幻の無声映画を再構築 溝口健二監督の「血と霊」」『読売新聞』全国版ほか、2007年1月19日、12頁。四方田犬彦『署名はカリガリ 大正時代の映画と前衛主義』新潮社、2016年、125-127頁。

[107] 国松春紀「I 大泉黒石著作目録への追加」『大泉黒石・小林勝・獄中作家(永山則夫他)』13頁。

[108] 清水正「「世界文学の中の林芙美子展」のポスター」(https://shimizumasashi.hatenablog.com/e

ntry/20130620/1371722469)、「清水正ブログ」、2013年6月20日、最終閲覧2024年4月2日。

[109] 清水正「『世界文学の中の林芙美子』展示会」(https://shimizumasashi.hatenablog.com/entry/2

0130626/1372213978)、「清水正ブログ」、2013年6月26日。清水正「大泉淵さん(大泉黒石の四女)がお孫さんの亜紀子さんと一緒に日芸を訪れた」(https://shimizumasashi.hatenablog.com/

entry/20130706/1373077480)、「清水正ブログ」、2013年7月6日。最終閲覧2024年4月2日。

[110] 清水正「「世界文学の中の林芙美子」展示会の準備」(https://shimizumasashi.hatenablog.com/e

ntry/20130624/1372081114)、「清水正ブログ」、2013年6月24日。清水正四方田犬彦大泉黒石――わが故郷は世界文学』を読む」(https://shimizumasashi.hatenablog.com/entry/2023/04/

19/131336)、「清水正ブログ」、2023年4月19日。最終閲覧2024年4月2日。

[111] 清水正「大泉淵さん(大泉黒石の四女)がお孫さんの亜紀子さんと一緒に日芸を訪れた」(https:

//shimizumasashi.hatenablog.com/entry/20130706/1373077480)、「清水正ブログ」、2013年7月6日、最終閲覧2024年4月2日。

[112] 「特別講座」、「日本大学芸術学部文芸学科」公式サイト(https://www.nichigei-bungei.info/cou

rse/class/special/)、最終閲覧2024年4月2日。

[113] 「Ai Shay Obituary」(初出『Los Angeles Times』2015年10月1日)、「Legacy.com」(https://www.

legacy.com/us/obituaries/latimes/name/ai-shay-obituary?id=6984369)、最終閲覧2024年4月2日。

[114] 「特別講座」、「日本大学芸術学部文芸学科」公式サイト(https://www.nichigei-bungei.info/cou

rse/class/special/)、最終閲覧2024年4月2日。

[115] 「書評アーカイブサイト・ALL REVIEWSのファンクラブ「ALL REVIEWS 友の会」の特典対談番組「月刊ALL REVIEWS」、ノンフィクション第56回」として行われた。「ALL REVIEWS」(https://allreviews.jp/news/6196)、最終閲覧2024年4月2日。