目次/第1章:出生と孤独──長崎のロシヤ人

拙稿『大泉清小伝 〈大泉黒石〉の誕生』を、一章ごとに区切ってブログ記事としても投稿しておきます(目録を除く)。基本的に異同や修正はございませんが(ただしウェブ記事のみに掲載している写真が数点あります)、引用をされる場合はpdf版(=書籍版)の方を参照していただければと存じます。

 

 

黒石大泉清小伝目次


はじめに──「大泉黒石」をめぐって 
第 1 章:出生と孤独──長崎のロシヤ人 
1-1.出生
1-2.大泉(本川)ケイ
1-3.アレクサンドル・ステパノヴィチ・ワホーヴィチ
第 2 章:学生時代──海外遊歴の謎・文学への目覚め
2-1.父アレクサンドル没後の動向
2-2.大谷清水『午』──もう一つの自叙伝・海星商業学校
2-3.『午』から読む黒石大泉清──作品の類似・睡眠論・借金論 
2-4.鎮西学院中学部時代──文学への目覚め
2-5.鎮西学院卒業後の進路
2-6.結婚と第一子の誕生 
2-7.第三高等学校 
第 3 章:労働者時代
3-1.京都から東京へ
3-2.労働者時代
3-3.第一高等学校 
第 4 章:赤本作家時代──丘の蛙・大谷清水ほか
4-1.赤本について 
4-2.清と赤本屋──門前払いの苦悩
4-3.丘の蛙──赤本作家としての出発 
4-4.『一高三高学生生活 寮のささやき』──剽窃と記憶
4-5.『博士になるぞ』──『俺の自叙伝』のエクリチュールの萌芽・苦悩の表出
4-6.『諧謔小説 かっぱの屁』──夏目漱石の影響・石川島造船所の描写の変遷
4-7.『滑稽俳句 海鼠の舌』──種本との戯れ
4-8.大泉小生「三高生活 冬の夜がたり」と大泉清『卵を多く産ませる素人養鶏』 
4-9.大谷清水『午』
4-10.『文壇出世物語』の謎
第 5 章:〈大泉黒石〉の誕生と泉清風
5-1.春江堂書店の書記
5-2.春江堂書店からのデビュー
5-3.赤本作家泉清風──概覧
5-4.活動期間の比較
5-5.「大泉黒石」・「泉清風」としての出発──二つの戦略

5-6.〈大泉黒石〉の誕生
5-7.〈大泉黒石〉の受容──喝采と疑義
5-8.大泉黒石と泉清風
第 6 章:不幸な誕生──姿の消し方
6-1.書けなくなっていった
6-2.『中央公論』創作欄におけるスランプ
6-3.スランプの持続・過去作品の使い回し
6-4.いくつかの活路
6-5.長編小説の復活
6-6.黒石大泉清と周辺の人々
6-7.まとめ
おわりに
補論:〈大泉黒石〉の/という「嘘」をめぐって
補論:大泉黒石の〈シベリア行〉追跡
補論:『俺の自叙伝』の成立・丘の蛙の剽窃
【資料編】
黒石大泉清詳細年譜稿
丘の蛙・大谷清水・泉清風著作目録
大泉黒石著作目録」補遺(国松春紀氏作成目録への追加)
大泉黒石参考文献目録」補遺(国松春紀氏作成目録への追加)

 

1-1.出生 

黒石大泉清は、1893(明治二十六)年10月21日、長崎県長崎市八幡町8番地に、父アレクサンドル・ステパノヴィチ・ワホーヴィチАлександр Степанович Вахович(中国名は王厚[1])、母大泉(本川)ケイの長男として生まれた[2]。同年生まれの文学者で、いわゆる「文壇」で花々しく活躍して今でも人口に膾炙している、というような作家は見当たらない。比較的名前が知られている者としては大田黒元雄、甲賀三郎獅子文六(岩田豊雄)、土師清二、浜田廣介、舟木重信、南洋一郎村岡花子、百田宗治、山田珠樹(森茉莉の夫、山田𣝣の父)等が挙げられる。ほか、後年に何度か旅を共にした永田衡吉、福田正夫や、画家だが随筆も書いた木村荘八、曾宮一念、中川一政俳人の高野素十、詩人の結城哀草果、経済学者の矢内原忠雄社会運動家・政治家の市川房枝も同年生まれである。

母親のケイは清を産んでまもなく亡くなった。父アレクサンドルも漢口のロシア領事として激務に追われていたため日本にいなかった。そのため、清は身の回りの女性たち──ケイの母(本川系)である祖母(片目が不自由であったようだ[3])、曾祖母、乳母、伯母(ケイの姉)の「ゑい子」、大泉系の親類達──によって育てられたという[4]。ただし、乳母は駆け落ちをして家を去って行った。伯母は嫁入りできないほどに病弱で始終寝込んでおり、清が7歳の頃に亡くなった(伯母が亡くなるまで清は彼女のことを母親だと思っていたという[5])。伯母が亡くなってからしばらくして曾祖母も亡くなった。したがって、幼少期を通じて清の面倒を見たのは『俺の自叙伝』にしばしば登場している本川の祖母(ケイの母)であったようだ。祖母の没後、清はその「写真を大きなパステ肖像画にして壁に飾って」いたという[6]。祖母への深い思慕が窺われる。

『俺の自叙伝』によると、幼少期は「春徳寺下の幼稚園」に通った。それから「桜の馬場の小学校」に通った[7]。「混血児」としての苦悩は、既にこの頃から始まっていた。

 

幼年時代は到る処で迫害された。少年時代にその迫害を痛切に感じ始めた。幼年時代には何故俺だけ小共の仲間から馬鹿にされて、のけものにされたんだか解らずにひとりで小さくなっていたが、物心がついて、親類と他人の区別が判然(はっきり)分明(わか)る時分に漸く、俺の親の爺が露西亜人だから、酷(いじ)められるんだと言うことが解った。

(大泉黒石「俺の見た日本人」[8])

 

多少の脚色はあるだろうが、差別的な扱いを受けていたということは事実であったと思われる。長崎は日本の中では比較的外国人が多い土地であったため、中学生にもなれば人種や文化の多様性について多少の分別はつくだろう。また、長崎市の中心地からそう遠くない稲佐一帯にはいわゆる「ロシア村」と呼ばれるロシア人海兵が多く止宿した地域もあった[9]。しかし、様々な物事に敏感な幼稚園生や小学生の段階では、際立った風貌を持つ清が「異人」というレッテルを貼られて差別的な扱いを受けたであろうことは想像に難くない。アメリカ人の父と日本人の母との間に生まれ、幼少期を横浜で過ごした平野威馬雄によると、横浜の人は外国人には慣れていたのに「いわゆる混血児にたいしては、なぜか冷たかった」という[10]。「混血児」ゆえの差別があるということは、今も昔も変わらないことが分かる。また、横浜には「戸籍がないから」学校にさえ行けない「混血児」が大勢いたというため、父アレクサンドルが清を日本国籍にしたことは賢明であったといえる[11]

 

それでも、幼い清の心を癒すものがないわけではなかった。

大泉氵顕氏(大泉家次男)の「大泉ミヨ伝」によると、大泉家の近所(一説によると崇福寺[12])に大泉家と姻戚関係にある高西家が住んでいた[13](『俺の自叙伝』によるとミヨの「祖父の兄」が「本川」だったという)。高西家には一人の少女がおり、清とその子は幼馴染として親しんだ。彼女こそ後年に清の妻となるミヨである(なお、「美代子」という表記も見られるが、「大泉ミヨ伝」にしたがって本稿では「ミヨ」とする)。ミヨは1896年か1897年生まれで、清より二三歳年下だった[14]。ミヨの父はドイツへ留学したまま帰って来なかった。ミヨの母高西ヒロは、東京にいた姉を頼って上京し、裁縫教師の職を得た。その後、彼女は福原という海軍軍人と再婚して大阪に移り住み、ミヨをここへ呼んで、信愛女学校に入学させた。この学校へのミヨの入学年月、ないし二人が離れ離れになった時期については詳らかでない[15]

それから、生まれ育った長崎の町を歩くことも彼にとって大きな慰めとなった。

 

自分の生れた場所をほめたところで決して見っともなくないことだと思うから、逢う人毎に国の自慢をすることにきめている。長崎という昔ながらの古風な町は西に港がひらけているだけで、あとは山なのである。その山は左ほど高くないが、登りにくい山なのである。私はその山に登るのが、その頃たった一つの楽みであった、と云うのは、空が晴れていさえすれば島原や天草や五島などが霞の中に遠くうすうす見えるからであった。

(大泉黒石「雲仙嶽」[16])

 

その美しい景色、変化に富んだ地形。西洋建築や中華街など、異文化の混淆が生み出す妖しい雰囲気。大泉黒石の作品の随所に、長崎の景色や雰囲気を讃えた名文章が見出せる。とりわけ長崎を舞台にした晩年の長編小説『おらんださん』には多くの地名や地形が描き込まれている。本作執筆時の彼の動向は杳として知れないが、後半生において長崎へ帰省したという記録は今のところ見つかっていない。おそらくこの作品は幼い頃からの記憶を頼りに書かれたのではないだろうか。室生犀星が歌ったような意味において彼が長崎のことを「故郷」と感じていたかは分からないが、少なくともそれは貴重な題材であっただろうし(四方田犬彦氏曰く「物語を発動させるための特権的な場所」[17])、その記憶は異郷での心の拠り所でもあり続けただろう。晩年に「横須賀の港が見下ろせる小高い丘の上」の一隅に居を構えたのも、故郷の思い出にひかれるものがあってのことであったかもしれない[18]

また、乳母の故郷があった時津にもしばしば出掛けたという[19]。「私は肩からスケッチ箱を下げて、そして夏服のポッケットに金を三銭入れて、この三里ばかりの漁村へ出かけた。そして、あちこちとスケッチして歩」いた。「私の幼年時代の記憶の中で、一番色彩の濃いのは、この漁村である。」晩年の随筆でも、「中学四年の夏」に「乳兄妹の娘を時津の入江に訪ねての帰るさ」にふと嗅いだ梔子の香が「老年のこの鼻を今も去らない」と振り返っている[20]

ところで先に引いた文章にもあるように、清は文学に目覚める前は絵を描くことが趣味であったようで、中学生の頃などは生活の資のために「毎日数枚の素画をかいて、それを縁日へ出して一枚五厘位で売って居った」という[21]。その頃は「頗る真面目で、将来、これで飯を食おうと思い詰めたことがある」と回想している[22]。実際、大泉黒石として活動する前の筆名で書いた本には多数の自筆イラストが掲載されているし、大泉黒石としても『雄弁』や『現代』におけるスケッチの連載、自筆イラスト付きの作品、自作の装訂(『趣怪綺談 燈を消すな』)等、実は様々な形で自身の絵を発表している。その絵柄は端正なスケッチから漫画風のイラストまで様々であり、小説同様に器用に描き分けている。

 

1902年2月11日から12日にかけての晩、父アレクサンドルが任地の漢口にて亡くなった。このことはほどなくして清にも伝わったらしい。彼はまだ小学生であった。

この後の彼の動向には不明な点が多い。そこでまずは、母と父がどのような人物であったかについてまとめておく。清は「自分の両親の写真を非常に大切にしていた」[23]。それは彼の子ども達が「立ち入れない位の思い入れを感じた」ほどだった。彼にとって両親とはいかなる存在であったのか、それは窺い知れないことではあるが、不在だからこそ募る思いがあったのだろう。

 

1-2.大泉(本川)ケイ

 ケイは「恵子」と表記されることもあるがこれは俗称で、戸籍では「ケイ」となっている[24]。ケイについては史料がほとんど見つかっていない。おそらく大泉黒石露西亜人を父に持ち日本人を母に持った 混血児の偽らざる告白」が彼女について最も詳細に語られたものであるため、これを引きながら補足を加えることとする[25]

これによると、ケイの旧姓は本川で、本川家は貧乏な武士の家系であったという(ただし清は士族ではなく平民だった[26])。ケイの父であり、清の祖父である「本川庸四郎」(大泉黒石「放浪の半生 (文壇数奇伝─その一─)」では「傭四郎」[27])は「小才子で大酒呑で、絵をかいたり、歌を読んだり、彫刻をしたり、旅行をしたりする人物」だった。祖父のこうした性向が、若くしてロシア文学に親しんだというケイや、大の酒好きで絵や文学にも親しむ私自身にも遺伝したのだろう、と黒石は自嘲気味にうそぶく。また、これは後年の随筆で述べていることだが、「筆者の祖父は、幕末ごろ長崎に組織された振遠隊の一員だった」という[28]。これについては第三者による証言もある。田中貢太郎の俳友で、「黒石と中学校が一緒であった」者の話によると、明治維新の際に「長崎からも土地のあぶれ者を募って、一隊を編成し、それを征東軍の旗下に送ったが、黒石の祖父も其の卒伍の一員として、後に士族になった」という[29]。さて黒石によると、おそらく隊が解散した後のことだろう、庸四郎は下関の税関の設立に関係した。その後、長崎の税関の要職に就いた(『俺の自叙伝』では「下関の最初の税関長」)。しかし、酒のために身を持ち崩して、勝手に家を売り渡した挙句、失踪してしまった。「長州の小さい村」(俺の自叙伝)、「山口県下のある山寺」(放浪の半生その一)で自殺したという記述もある。

ただし、税関の経歴については中沢弥氏が疑問を呈している[30]。氏によると、「そもそも下関は、門司税関の管内で税関長はいない」、「赤間関港(当時)が海外貿易港に指定されたのは明治三二年」(1899)、「赤間関が下関と改称されたのは、明治三五年」(1902)だったという。祖父の経歴が虚構であるとすれば、なぜ「税関長」としたのかという疑問が生まれるが、中沢氏は黒石が「白樺派に対する批判」を『俺の自叙伝』に込めたのではないかと仮定した上で、「「俺」の祖父を税関長としたのは、有島三兄弟の父・有島武(横浜税関長などを歴任)が念頭にあったかも知れない」と推測している。

庸四郎の妻が、『俺の自叙伝』等に登場する片目の不自由な祖母で、その娘として姉「ゑい子」と妹「けい子」(ケイ)がいた。ケイの生年は、没年から計算すれば1877年か1878年だったことになる[31]。三人は長崎の寺町にある三宝寺の近所に住んだ。ケイは「文学や絵画が好きで、毎日朝から晩まで、ただ読んだり書いたりして日を送っていた」。また、「露西亜の文字を若い癖に生意気に噛(かじ)っていた」。『俺の自叙伝』にも「お袋は露西亜文学の熱心な研究者だった。それは彼女の日記や蔵書を見ても解る」とある。長崎にはロシア人も多く暮らしていたため、ロシア語を学んでいたということ自体はありえないことではない。ケイの時代にはまだロシア文学の邦訳はあまり無かっただろうから、専ら原文を読んでいたのだろう。それでは引きこもりがちな「文学少女」だったのかというと、そうではなく、姉もてこずるほど「大層やかまし屋」だったという。

ある日、「姻戚でも縁類でもない大泉という一家が、忽然として本川の身辺に現れ」た。ケイはこの大泉家に養子としてもらわれることになったため、大泉に改姓したという。大泉家には「トラという老婆と、ヤヱというその妹」がいた。

 ケイが15歳の時、アレクサンドル・ステパノヴィチ・ワホーヴィチが「公務を帯びて、天津から長崎へ来」た(なお黒石は『俺の自叙伝』等では皇太子時代のニコライ二世の東方旅行時に両親が出会ったとしているが、次節で述べるように近年の研究ではこれは暗に否定されている)。この時、本川家の親戚の家が大きく景色も良かったため、アレクサンドルはここに泊まることになった。ケイは以前からロシア語を学んでいたこともあり、手伝いに行こうと申し出たものの、親族に「相手は露西亜人で言葉も解らないし、習慣も礼式も変っているのだから、止した方がよかろう」と止められたため、その時は見合わせた。ところが、アレクサンドルが「露西亜婦人より日本婦人を妻に貰いたがっていたこと」を知った第三者が、「その時分露西亜かぶれであって、好(い)い意味に於て露西亜通であった」ケイに縁談を持ち込んできた。親族はこぞって反対したが、それを振り切って二人は結婚式を挙げてしまった。そして、アレクサンドルが任地の天津へ戻るのにケイも「一足おくれ」でついて行った。天津での新婚生活は大泉黒石「父と母の輪郭」にも描かれている(その大部分は想像によるものだろう)。一年後に帰って来て「龍子」を産んだが、この子は間もなく死んでしまった[32]。そして再びアレクサンドルの元へ行って、彼の転勤に合わせて天津から漢口へ行った。アレクサンドルのもとにいる時はその妹の「ラリイザ」がケイの面倒をよく見てくれたという。ケイは再び日本へ戻って来て清を産んだが、産後一週間で「脳溢血」で亡くなった。前述のように、死亡時の年齢は16歳(俺の自叙伝)、17歳(放浪の半生その一)などの説がある。父母のいない清は「本川系の老婆と、大泉系の老婆との間に挟まって、曲りなりに、ひねくれ拗(ひね)くれして小学校に入るようになった」という。

以上のケイの中国行については、後に検討するグザーノフ氏やШаронова氏によるアレクサンドルの伝記研究では全く言及されていない。また、グザーノフ氏によるとアレクサンドルはケイの妊娠を手紙で知ったというため、果たして本当にケイがアレクサンドルと共に中国へ行っていたのか、やや疑わしい。

 

家系に関する異説として、大泉氵顕氏によると、大泉の方が旧姓で、仙台藩あるいは鶴岡藩を脱藩して長崎へ来た大泉庸四郎の娘がケイの母(清にとって祖母)であり、ケイの父(本川)が賄賂の疑惑で自殺したために清の名誉のために旧姓の大泉に戻したという[33]。この場合「庸四郎」は清から見て曾祖父ということになる。ただしこれは氏が「親父から聞き伝えられたもの」だというため、記憶違いである可能性は否定できない。大泉滉氏は「ぼくの祖母は近藤勇の三女でケイといった。(…)近藤勇は、結婚していないのに子供があるのはおかしいとおもうだろうが、なにも、結婚しなくともガキは簡単にできる」と述べているが、これはさすがに虚構だろう[34]。また、志村有弘氏は「そもそも大泉家は、黒石の祖母系の姓で、仙台から出て九州へ派生したものである」と述べている[35]。いずれの説が正しいのか、今のところ判断できない。

 

1-3.アレクサンドル・ステパノヴィチ・ワホーヴィチ

清の父であるアレクサンドル・ステパノヴィチ・ワホーヴィチについては二つの論文がある。一つがビターリー・グザーノフ「私のからだには二つの血が…」(訳註=左近毅)[36]で、もう一つがВ.Г. Шаронова「漢口におけるロシア人外交官:アレクサンドル・ステパノヴィチ・ワホーヴィチ Русские дипломаты в Ханькоу: Александр Степанович Вахович」(未邦訳)[37]である。困ったことに、両論文の情報にはところどころに食い違いが見られるのだが、前者には参考文献が書かれておらず、後者にはその一部は書かれているものの、そのほとんどがおそらくロシア現地にしかないものであるため原典を確認することができない。そこで、さしあたり未邦訳であるШаронова氏の論文の情報を基本としつつ、適宜グザーノフ氏の研究や黒石自身の回想と比較検討した。

なお、翻訳にあたっては左近毅氏によるグザーノフ氏の論文の翻訳を参考にさせていただいた。また、ここではあくまで大泉清の父としてのアレクサンドルに焦点を当てたため、アレクサンドルの細かな職務内容については省略した。彼の職務内容について詳しく知りたい方はШаронова氏の論文を参照されたい。

 

アレクサンドル・ステパノヴィチ・ワホーヴィチАлександр Степанович Ваховичは1858年9月8日にシェドレツカヤ県ベリスキー郡ルコーヴィッツ村д. Луковец Бельского уезда Седлецкой губернииの司祭の家庭に、長男として生まれた(グザーノフ氏p.42:誕生日が11月5日、県名がグロズノ県)。父はステパン・ワホーヴィチ、母はヴァルヴァラ(中本信幸氏:ヴェロニカ[38])といった。黒石がしばしば書いているような高貴な血筋であったのかは詳らかでない。生地のルコーヴィッツ村は現在ではポーランドにあたる場所であり、父の「本家」がヤースナヤ・ポリャーナにあり、父はその「総領」であったとする黒石の説は虚構であることが分かる[39]。なおШаронова氏は「ヤースナヤ・ポリャーナ近郊に住む遠い親戚のワホーヴィチ」を清が訪ねたことがあると書いているが、その典拠は不明である。おそらく、清がヤースナヤ・ポリャーナに行ってトルストイと会ったということを否定していないロシア語文献──『Япония сегодня』1996年4月号に掲載されたグザーノフ氏の論文や、『Печатный Двор : Дальний Восток России』2009年第9号に掲載された中本信幸氏の「ТОЛСТОЙ И ЛАО-ЦЗЫ: ПРЕЕМНИКИ ИДЕЙ Л.Н.ТОЛСТОГО В ЯПОНИИ」(ウェブサイト「КЛУБ ПРИ ЯПОНСКОМ ЦЕНТРЕ ВО ВЛАДИВОСТОКЕ」にも掲載されている[40])等──を参考にしたのではないかと思われるが、いずれにせよヤースナヤ・ポリャーナに親族がいたのかどうかについては確たる証拠はなく、疑問が残る。また、彼は1928年に「杜翁の顔」という随筆を依頼されて書いているが、これは専らトルストイの思想に関する諸氏の意見を衒学的に引用するだけのもので、個人的な感想や見聞は一切書かれていない[41]。このことから、ヤースナヤ・ポリャーナの親族だけでなく、彼がトルストイに会ったということ自体も疑わしく思われる。冒頭には編集者(おそらく黒石と親しかった翁久允)の言葉として「[黒石が]これを語るに最も適当した人であることは、いうまでもないと思います」と書かれているので、おそらく編集者は『俺の自叙伝』のトルストイに関する描写を念頭に置いて彼に依頼したのだろう。しかし、もしトルストイとの会見が虚構であったとすれば、約十年前の虚構の引き写しをするのはさすがに気が引けたのではないだろうか。

アレクサンドルの父ステパン・ワホーヴィチは、ユニアト教会(東方帰一教会。ローマ教皇の首位権を認めながらギリシア正教会固有の言語・典礼を保持する[42])の司祭として村のクレストヴォズドゥヴィージェンスカヤ教会に務めていた(グザーノフ氏p.42)。アレクサンドルが生まれた後、エメリアン(グザーノフ氏p.45:後にペテルブルグの役人)、レフ(グザーノフ氏p.45:後にウラジオストクの医師)、エレナ(グザーノフ氏p.45:マリヤ・マトゥヴェーエヴナ・ダマンスカヤ/黒石「放浪の半生 (文壇数奇伝─その一─)」:マリア・ド・ラリーザ)が生まれた。アレクサンドルは地元ベリスキーのギムナジウムに通った後、1871年に父と共にワルシャワショパン通り16番地のアパートに移り住み、当地のワルシャワ第一男子ギムナジウムで勤勉に学んだ[43]1878年、サンクト・ペテルブルク大学の東洋語学部に入学した。家庭はあまり裕福ではなく、奨学金を受けていた。それでも卒業後に大学への未納金が残るほどだった(グザーノフ氏p.42)。大学では、モンゴル語、カルムィク語、満州語、中国語のほか、経済学、国際法、ロシア国内法、東洋の歴史や文学についても学んだ(グザーノフ氏p.42)。1882年12月20日修士号を授与され(グザーノフ氏p.42)、1883年7月1日に優秀な成績で卒業した。まもなく彼は外務省へアジア局に勤務したいという旨の書類を提出し、これが受け入れられ、同年8月13日からアジア局の中では高位の十等官чин коллежского секретарとして雇われた(グザーノフ氏p.42:単に「外務省アジア局」)。同年末にはさっそく北京使節団の研修生として中国へ派遣された。彼の中国語の知識は同僚達の尊敬を集めた。1886年には彼の活躍が評価されてウルガ(現=ウランバートル)における通訳官、1887年には北京公使館付き第二通訳官に任命された。1887年の春、彼は内モンゴル各地へ赴いて地理や露中の貿易問題の調査をする任務を託された。山岳地帯、砂漠、大河を越える困難な旅路、各地での詳細な調査研究の末、同年11月27日に北京へ戻った。彼の作成した報告書は高く評価され、聖ウラジーミル四等勲章を授与された(『俺の自叙伝』では父が授与された勲章として「アレキサンドル・ネヴスキー勲章」が挙げられているが、実際にアレクサンドルがこの勲章を授与されたかは不明)。

1890年11月4日、皇太子だった頃のニコライ2世が東方旅行に出発した際、アレクサンドルは中国語の通訳官として同行した。香港、福州、上海、漢口を経て、1891年4月27日に一行は長崎を訪れた[44]。この後に有名な大津事件が起こったが、アレクサンドルは長崎のロシア領事館の臨時支配人として任命されていたため、同行したのは長崎までだった。

この旅行において皇太子に優秀さを認められ、また中国に10年近く駐在したことの功績も評価されて、まもなくアレクサンドルは天津のロシア領事館の支配人に任命された。ここで彼は貿易路の改善や、ロシア租界、ロシア系銀行の設立に奔走した。

グザーノフ氏(p.43)によると1892年末、アレクサンドルは「上海と漢口(現在の武漢)への自主船団(定期客船)寄港予定の変更をめぐる問題で、責任者とまとめるため」長崎を訪れた(Шаронова氏:単に公務に関する「ある日本旅行В одной из поездок」としており、年月は書かれていない)。この時、アレクサンドルがケイに結婚を申し込んだ(ただし清の誕生日から考えると、二人が出会ったのは1892年末よりも前ではないかとも思われる)。グザーノフ氏(p.43)によると、長崎のロシア領事から二人の結婚は認められた。なお、『俺の自叙伝』では二人が出会ったのはニコライ皇太子の東方旅行時とされているが、いずれの論文においてもニコライの東方旅行時に二人が出会ったという記述はなく、別の時のこととされている。またこの後、黒石によるとケイもまた天津や漢口へ行ったことになっているが、そのような記述も両論文には見られない。さらにグザーノフ氏(p.43)によると、アレクサンドルは手紙でケイが身籠ったことを知ったという。今のところ、ケイの中国行については確証が得られない。

天津での働きが高く評価され、1893年にはアレクサンドルは漢口のロシア領事に任命された。ここで彼はロシア租界の設立、茶貿易のための茶業の研究、水上交易の奨励に励んだ。Шаронова氏によると、ケイの没後、「息子が成長すると、アレクサンドル・ステパノヴィチは息子を連れて漢口に住まわせた」というが、その具体的な時期は書かれていない。

アレクサンドルは仕事に打ち込むことで気を紛らわせていたが、やはり妻の死は彼にとって大きな悲しみとなっていた。Шаронова氏によると、漢口にいたポーランド出身の「M.M.ダマンスカヤ」という愛人がアレクサンドルを支えていた。二人は土地の司祭に結婚を申し込んだが、それは叶わなかったという。ところで困ったことに、グザーノフ氏の論文では、おそらく彼女と同一人物の「マリヤ・マトゥヴェーエヴナ・ロリス=ダマンスカヤ」がアレクサンドルの妹とされている。また、大泉黒石『俺の自叙伝』(玄文社)には漢口の領事館にてアレクサンドルとその母(ヴァルヴァラ)と「伯母ラリーザ」が共に写っている写真がある。以上のことから、「M.M.ダマンスカヤ」はアレクサンドルの愛人ではなく、妹とするのが正しいのではないかと思われる。いずれかの論文において文献の読み間違いがあるのか、それとも史料の情報が曖昧なために解釈に相違が生じているのか。今のところ原典を確認できないため、「M.M.ダマンスカヤ」が妹であるのか愛人であるのかを確定する術はない。

グザーノフ氏(p.44)によると、アレクサンドルは息子に会いに行くために1895年の初めに北京大使アー・ペー・カッシーニ宛てに休暇申請を何度かしていたが、実際に「上海から長崎へ行く便船の初符を購入」することができたのは1896年1月だった。数日間アレクサンドルは長崎で清と過ごした。この時、清は数え年で4歳、満年齢で2歳である。『俺の自叙伝』には「俺が三つの時」に突然父が現れたというエピソードがあるが、これはこの時のことかもしれない。

一方、Шаронова氏の論文には上述の休暇についての記述はなく、1901年に休暇を求めたことになっている。アレクサンドルは激務によって心身ともに疲れ果てていたうえに、「ウラジオストクへ行き、息子がギムナジウムに行けるように手配」する必要もあったという(Шаронова氏によると、少なくともこの時点で清が漢口の父の元にいたことになっている)。そこで福州からA.T.ベルチェンコА.Т. Бельченкоが派遣されることになったが、彼の到着はワホーヴィチの休暇の開始予定の12月よりも遅れてしまったという。

それから間もない1902年2月11日から12日にかけての夜、漢口においてアレクサンドルは亡くなった。享年は46歳である。彼の死はロシア人だけでなく多くの中国人や外国人達にも悼まれた。葬儀には多くの領事や軍艦の司令官が列席した。遺体はウラジオストク郊外のセダンカседанкаの聖エヴゲーニイ教会церковь Св. Евгенияの近くに埋葬された(現在、当地は「女子修道院」になっているという[45])。彼の没後数年間、ワホーヴィチの命日に漢口のアレクサンドル・ネフスキー教会で追悼式が行われた。1903年の追悼式には、ロシア、フランス、日本の総領事が出席したという。漢口のロシア租界のロシア領事官のあった通り(現在では「合作路」から「洞庭街」の駅までの約635mにあたる区間、沿道にロシア領事館など)は、彼にちなんで「鄂哈街」(Vahovitch Skaia)と名付けられた[46]。また、「王厚街」(アレクサンドルの中国名)とも呼ばれた。1910年には彼の愛人(グザーノフp45:妹)だったダマンスカヤが墓の上に石造の小礼拝堂(チャソーヴニャчасовня)を建て、1911年2月に聖別された(これは現存している。古谷耀子「大泉黒石とその父」に写真あり)。この小礼拝堂ではないようだが、近くの教会を描いたと思しき黒石の絵がある(1912年の「展墓記念に描いたもの」であるという)[47]

 

黒石の晩年の随筆によると、「小学三年を終わったばかりの私」にアレクサンドルの遺骸を見せようという「皇室の思召し」で、アレクサンドルの「遺骸をロシアの軍艦に積んで、揚子江をくだり、ウラディオストックの墓地に運ぶ途中、長崎に立ち寄った」[48]。清が満6歳になる年(1899)に小学校に入学していたとすれば、アレクサンドルが亡くなった1902年はちょうど3年生を終える年であるため、辻褄は合う。この随筆では軍艦に載ってきた叔母「ラリーサ(ママ)」と話をしたとしか書かれていないが、『俺の自叙伝』や「玄界灘の暴風雨(早崎海峡にて)〔六〕」等ではウラジオストク郊外の墓地まで着いて行ったとされている[49]。さらに大泉氵顕「大泉黒石伝」では、以上に加えて「広いサロンに安置した柩の写真と遺言による日本の銀行通帳とを黒石の後見人である祖母に託して去って行った」とされている[50]。以上の出来事についてはアレクサンドルに関する両論文のいずれにも言及がなく、真偽のほどは不明である。

また『俺の自叙伝』によると、アレクサンドルの生前、「桜の馬場の小学校を三年生で打ち切って漢口へ親爺の顔を見に行った」という。しかし前述の通り、実際には三年生の終わり頃に父が亡くなったと考えられるため、これを字面通りに受け取ることはできない。三年生の時、父が亡くなる前に行ったのか、三年生というのが誤りなのか、そもそも父に会いに行ったということ自体が虚構なのか、詳らかでない。

 

 

 

[1] 王汗吾、吴明堂「第三章 各成体系的市政建设」『汉口五国租界』武汉出版社、2017年、85頁。同著はインターネットでも閲覧可能(http://www.whcbs.com/Upload/BookReadFile/202004/c0

20dd817d274b44bee1d25f14614edc/OPS/chapter003.html)。最終閲覧2024年4月2日。

[2] 由良君美「黒石の生没年確定について」、「黒石廻廊 大泉黒石全集書報No.5」緑書房、1988年、7頁。大泉滉氏が取得した戸籍謄本に拠る。

[3] 大泉黒石『俺の自叙伝』(全集32頁、文庫52頁)に「片目の祖母」とある。後述の大谷清水『午』(日吉堂本店、1917年、5頁)にも「片盲目の老祖母」とある。

[4] 乳母、伯母、曾祖母については『俺の自叙伝』や「妖画帳」(『現代』1巻3号、大日本雄弁会1920年、168頁)、また「漫画漫文 伯母の印象」(『現代』3巻1号、1922年、213頁)などを参照。大泉系の親類に育てられたという記述は「露西亜人を父に持ち日本人を母に持った 混血児の偽らざる告白」(『婦人世界』実業之日本社1920年、59-63頁)にある。

[5] 大泉黒石「妖画帳」『現代』1巻3号、168頁。大泉黒石「漫画漫文 伯母の印象」『現代』3巻1号、213頁。『俺の自叙伝』にも同様の記述あり(全集7頁、文庫17-18頁)。

[6] 大泉氵顕「大泉黒石伝」『文人』2号、文人の会、1981年、131頁。

[7] 長崎にはかつて「桜馬場小学校」があったが、清が小学校に通う時期には現「西山町3丁目42番号」に移転して「上長崎尋常小学校」と改称していた(現=長崎市立上長崎小学校)。清が通ったのはこの小学校かもしれない。「長崎市立上長崎小学校 沿革史」長崎市立上長崎小学校ホームページ(https://www.nagasaki-city.ed.jp/kaminagasaki-e/history/)、最終閲覧2024年4月2日。

[8] 大泉黒石「俺の見た日本人」『中央公論』34巻12号、中央公論社、1919年、68頁。

[9] 松竹秀雄『ながさき稲佐ロシア村』長崎文献社、2009年、6頁。

[10] 平野威馬雄『新版 レミは生きている』(ちくま文庫)筑摩書房、2023年、12頁。なお、平野は黒石について「ぼくは、自分の混血人生のデビューから、この日露混血文士黒石の、実に天衣無縫な生き方に力づけられ、ともすれば、しおれ勝ちの青春を、最大限に鼓舞されてきたのである。」と述べている。『俺の自叙伝』については「混血児のヒガミや、イジイジした所が全然ないのだ。ぼくは大泉黒石のえらさを、今さらのように見なおさずにいられない。」「国際児同士でなければ、ピンと来ない〝皮肉なユーモア〟が随所に波打っている彼の人生記は、今後、成長し、いためつけられるであろう日米混血児達の、精神的強壮剤として好個の宝典だ。」と絶賛している。「ブルータス・お前もか」『随筆 ロマンス・シートのうわさ話』美和書院、1956年、71-73頁。

[11] 「私は併し国籍は日本にあるので、(日本方に家督をつぐ者がいなかったので、父は私が生れると直ぐ私を日本人にして了った。)」大泉黒石「放浪の半生 (文壇数奇伝―その一―)」『文章倶楽部』7巻2号、新潮社、1922年、28頁。

[12] 大泉黒石「俺の落書 『少年時代にかいた絵』と『自讃』」『雄弁』11巻2号、大日本雄弁会1920年、320頁。

[13] 大泉氵顕「大泉ミヨ伝」『赤い泥鰌』(私家版)、大泉初枝発行、1984年、54-56頁。

[14] 明治二十九年(1896)説は大阪毎日新聞社編『婦人宝鑑 大正12年度』大阪毎日新聞社、1923年、602頁、および「現代婦人録」『女性日本人』4巻1号、政教社、1923年、附録6頁。明治三十年(1897)説は大泉氵顕「大泉ミヨ伝」『赤い泥鰌』54頁。

[15] 別れた時期についてはいくつかの言及があるが、「八つの歳」(俺の自叙伝)、「五歳」(「俺の落書「少年時代に書いた絵」と「自讃」」『雄弁』11巻2号、320頁)など、一貫性がない。

[16] 大泉黒石『山と峡谷』二松堂書店、1931年、182-183頁。初出は「変った避暑地 島原紀行の中から」『改造』3巻8号、改造社1921年

[17] 四方田犬彦大泉黒石 ──わが故郷は世界文学』135頁。

[18] 「横須賀の港が見下ろせる小高い丘の上」という表現は大泉氵顕「大泉黒石と私の回想録 ─その(三)─」(『文人』5号、1982年、71頁)による。同号収録の大泉湧「坂上の家」は、大泉家四男である湧氏が父・清の生前にここを訪れたときの回想。横須賀の住いは「横須賀市坂本町三ノ三〇」に位置した(由良君美「黒石の生没年確定について」。なお、この文章では「阪本町」とされているが、正しくは「坂本町」)。なお、現在の当地からは港はおろか海さえ見えない(訪問日2023年10月26日)。ちなみに、偶然ながら長崎にも同じく「坂本町」と呼ばれていた地域がある。現在ではちょうど長崎大学の「坂本キャンパス」が位置するところであり、住所は単に「坂本」になっている。

[19] 大泉黒石「戯づら書き」『現代』1巻2号、91頁。

[20] 大泉黒石「夏の花」『みづおと』32号、水音社、1955年、6頁。

[21] 大泉黒石「俺の落書 『少年時代にかいた絵』と『自讃』」『雄弁』11巻1号、278頁。

[22] 大泉黒石露西亜寺院と親爺の墓」『雄弁』11巻6号、198-199頁。

[23] 大泉淵「心の故郷は父母の写真?」(連載 父の肖像(198) 大泉黒石(下))『かまくら春秋』419号、ノア書房、2005年、23頁。

[24] 由良君美「黒石の生没年確定について」、「黒石廻廊 大泉黒石全集書報No.5」緑書房、1988年、7頁。

[25] 『婦人世界』15巻1号、実業之日本社1920年、59-63頁。

[26] 第三高等学校編『第三高等学校一覧 大正3年9月起大正4年8月止』第三高等学校、出版年月不明(国立国会図書館所蔵のものは奥付欠如)、125頁。

[27] 大泉黒石「放浪の半生 (文壇数奇伝―その一―)」『文章倶楽部』7巻2号、28頁。

[28] 大泉黒石阿片戦争」『政界往来』11巻3号、政界往来社、1940年、223頁。

[29] 田中貢太郎『人情の曲』教文館、1928年、299頁。

[30] 中沢弥「大泉黒石「俺の自叙伝」」『芸術至上主義文芸』27号、芸術至上主義文芸研究会、2001年、73頁。

[31] ケイは清を産んだ1893年に亡くなったことになっており、没年は『俺の自叙伝』(全集3頁、文庫12頁)では16歳、「放浪の半生 (文壇数奇伝―その一―)」(『文章倶楽部』7巻2号、新潮社、1922年、28頁)では17歳。数え年で計算した場合、1877年か1878年ということになる。

[32] 「龍子」に関する言及はこの随筆においてしか確認できず、未詳。

[33] 大泉氵顕「大泉黒石伝」『文人』2号、130頁。ただし祖父が鶴岡藩を脱藩したというのは大泉氵顕「大泉黒石と私の回想録 ─その(三)─」『文人』5号、1982年、66頁による。

[34] 大泉滉『ポコチン男爵おんな探検記』青年書館、1975年、11頁。他に以下などでもケイの父を近藤勇としている(大泉滉「18歳の妻だけを四回もとりかえた男」(インタビュー記事)『週刊ポスト』2巻30号、小学館、1970年、48頁。「東京湾に新吉原を作るのがワシの夢」(戸川昌子の「艶論性談」、第36回 大泉滉)、『週刊サンケイ』24巻38号、産経新聞出版局、1975年、167頁。「この人たちのご先祖さまを知ってますか」『週刊平凡』17巻32号、平凡出版、1975年、62頁。)また、氏は祖父(=アレクサンドル)がロシア皇帝だったとも述べていたようだ。上述の「この人たちのご先祖さまを知っていますか」という記事によると、「大泉滉はつねづね「ぼくはロシア皇帝の末裔」といいふらしているが、彼の説明によると、その血筋はこうである。父方の祖父がアレキサンダー・ステパノウィッチ・ワフオウィッチといって、王制時代のロシアの皇帝だった。/「当時、全ロシア国内にいくつもあった共和国のうちの1国の王様だったということだと思うけどね」(大泉)/そのアレキサンダー皇帝が幕末のころ長崎に来日。そしてなぜか美人コンテストを開催、これに応募した〝ケイ〟という名の日本女性を見そめ、結婚してロシアに連れ帰った。そのケイさんは、あの新選組局長・近藤勇の3女だったという話だが、この真偽のほどはあやしい。」これは明らかに虚構であり、近藤勇のことも同様に冗談だろうと思われる。仮にこのことが事実か、あるいは少なくとも氏の作り話ではなかったとしたら、清がこれを知らなかったはずはなく、『俺の自叙伝』等の自叙伝的作品なり小説なりに書かれていたことだろう。

[35] 志村有弘大泉黒石の文学と周辺」『近代作家と古典 ──歴史文学の展開──』笠間書院、1977年、197頁。

[36] 『窓』99号、ナウカ、1996年、40-47頁。初出『Япония сегодня』、1986年4月号。

[37] ДЕРЕВЯНКО АНАТОЛИЙ ПАНТЕЛЕЕВИЧ, ЭЛЕРТ АЛЕКСАНДР ХРИСТИАНОВИЧ編

『今日における祖国史・史料研究・古文書学の諸問題:ポクロフスキー卒寿記念のために

АКТУАЛЬНЫЕ ПРОБЛЕМЫ ОТЕЧЕСТВЕННОЙ ИСТОРИИ, ИСТОЧНИКОВЕДЕНИЯ И АРХЕОГРАФИИ: К 90-ЛЕТИЮ Н.Н. ПОКРОВСКОГО』ロシア科学アカデミーシベリア支部歴史研究所Институт истории СО РАН、2020年、405-420頁。この論文集はインターネットでダウンロード可能(http://www.history.nsc.ru/publications/books/ais_39.htm?Page=1&Category=ais)。最終閲覧2024年4月2日。

[38] 中本信幸(小石吉彦訳)「トルストイ老子──日本におけるトルストイ思想の継承者」神奈川大学人文学研究所編『グローバル化の中の日本文化』(神奈川大学人文学研究叢書30)御茶の水書房、2012年、107頁。

[39] 『俺の自叙伝』冒頭によると、「露西亜の先祖はヤスナヤ・ポリヤナから出た。レオフ・トルストイの邸から二十町ばかり手前で、今残っている農夫のワホウィッチというのが本家だ。俺の親爺は本家の総領だった。」

[40]「КЛУБ ПРИ ЯПОНСКОМ ЦЕНТРЕ ВО ВЛАДИВОСТОКЕ」(https://www.jp-club.ru/tolstoj-i-lao-czy-preemniki-idej-l-n-tolstogo-v-yaponii/)、最終閲覧2024年4月2日。中本氏の文章の邦訳版は「トルストイ老子──日本におけるトルストイ思想の継承者」(小石吉彦訳)として神奈川大学人文学研究所編『グローバル化の中の日本文化』(神奈川大学人文学研究叢書30)御茶の水書房、2012年に収録されている。初出は『Печатный Двор : Дальний Восток России』第9号、Дальнаука(ロシア科学アカデミー極東支部の出版組織)、2009年、144-151頁。

[41] 大泉黒石「杜翁の顔」『週刊朝日』14巻9号、朝日新聞社、1928年。

[42] 東郷正延、染谷茂、磯谷孝、石山正三編『研究社露和辞典(携帯版)』研究社(第34刷)、2021年、2456頁。森安達也「教会合同」『世界大百科事典』平凡社、2014年(ジャパンナレッジで閲覧)。

[43] 中本信幸「トルストイ老子──日本におけるトルストイ思想の継承者」によると、父だけでなく、両親と共にワルシャワへ移住したという。また、ショパン通り16番地のアパートは、「十代前半の黒石が住んだところ」でもあり、「その頃黒石は祖父のスチェパンと祖母のヴェロニカに育てられていた」というが、その典拠は明らかにされていない。『俺の自叙伝』にはワルシャワにいるラリーザから電報が来る場面はあるが(全集47頁、文庫72頁)、彼がワルシャワに滞在していたという記述はない。

[44] 東方旅行の出発日、長崎への到着日は保田孝一『最後のロシア皇帝 ニコライ二世の日記』朝日新聞社、1985年、211頁の「ニコライ二世関係年表(西暦)」による。なお本書にはアレクサンドルに関する記述はない。

[45] 古谷耀子「大泉黒石とその父」、島尾伸三志村有弘編『検証 島尾敏雄の世界』勉誠出版、2010年、304-307頁。アレクサンドルから見て曾孫にあたる古谷耀子氏(大泉家次男の大泉氵顕氏の子女であられる方)が、紆余曲折を経てグザーノフ氏に調査を依頼し、アレクサンドルが埋葬されていた小礼拝堂へ辿り着くまでの過程を描いたものである。

[46] 王汗吾、吴明堂『汉口五国租界』85頁。原文は「鄂哈街(Vahovitch Skaia,今洞庭街合作路至车站路段,长约635米)以俄国驻汉口领事鄂哈维奇(A.Vahovitch,汉名王厚)而得名。又称王厚街。」その後、1925年には「两仪街」、1945年には「两仪路」、1946年には「洞庭街」と総称して呼ばれるようになったという。通りにはロシア領事館(俄国驻汉口总领事馆)のほか、「俄国新泰砖茶厂」、「顺丰茶栈」、「源泰洋行(那克伐申公馆)」、「安格联公馆」、「俄国邮局」、「李凡诺夫公馆」などがあった。

[47] 大泉黒石露西亜寺院と親爺の墓」『雄弁』11巻6号、198-199頁。

[48] 大泉黒石「山小屋」「黒石廻廊 大泉黒石全集書報No.6」緑書房、1988年、1-3頁。初出『みづおと』35号、1955年。

[49] 『読売新聞』朝刊、読売新聞社1921年7月25日朝刊、7頁。

[50] 大泉氵顕「大泉黒石伝」『文人』2号、131頁。