※入力の都合上、二つの記事に分けて掲載します。引用等の際は、書籍/pdf版の註番号、頁数を参照していただければと存じます(黒石大泉清伝 - Google ドライブ)。そのうち、新情報も含めて改訂できればと思います・・・
【凡例】
・拙稿「黒石大泉清小伝 〈大泉黒石〉の誕生」に基づいて「丘の蛙」、「大谷清水」、「泉清風」は彼の筆名であるとみなした。
・彼が生まれてから1919年9月に『中央公論』において「幕末武士と露国農夫の血を享けた 私の自叙伝」(自叙伝第一篇)を発表するまでの過程については拙稿「黒石大泉清小伝 〈大泉黒石〉の誕生」で詳細に論じているため、そちらも併せてご参照いただければ幸いである。
・著作については既に国松春紀氏による詳細な目録があるため、本年譜では基本的に、単行本として刊行されたもの、および『中央公論』に掲載されたもの(「文壇」におけるプレゼンスを示す基準として一定の信頼性があると思われるため)のみを取り上げた。そのため、国松氏の著作目録と併せてご覧いただくことを推奨する。
・ただし『中央公論』で「幕末武士と露国農夫の血を享けた 私の自叙伝」を発表する前までは、複数の筆名の使い分けの様子を可視化するため、あえて雑誌での発表も取り上げた。
・参加した会合について、同席者が分かっている場合は註に記載した。
・時期が確定できない出来事等についてはコラム(◇)のような形でまとめた。
・本年譜に記載した他にも、多くの人々との交流があり、また多くの旅行や登山をしていたことが諸作品や参考文献から窺える。本年譜に記載したのは大体の時期が確定できたもののみであることをここに明記しておく。また、彼の労働者時代や「売れっ子」であった一時期を除いて、大泉家を支えていたのは彼の妻である大泉(福原)ミヨや、その子達であったことも付記しておく。
多くの点において未熟であると思われるが、少しでも参考になれば幸いである。
- 明治二十六年(1893)
- 明治二十九年(1896) 3歳
- 明治三十二年(1899) 6歳
- 明治三十三年(1900) 7歳
- 明治三十五年(1902) 9歳
- 明治四十三年(1910) 17歳
- 明治四十四年(1911) 18歳
- 明治四十五/大正元年(1912) 19歳
- 大正二年(1913) 20歳
- 大正三年(1914) 21歳
- 大正四年(1915) 22歳
- 大正五年(1916) 23歳
- 大正六年(1917) 24歳
- 大正七年(1918) 25歳
- 大正八年(1919) 26歳
- 大正九年(1920) 27歳
- ◇大泉黒石と正岡容
- 大正十年(1921) 28歳
- 大正十一年(1922) 29歳
- ◇大泉黒石『老子』英訳の謎/謎の中国語訳
- ◇大泉黒石と青顔菅野千介
- 大正十二年(1923) 30歳
- 大正十三年(1924) 31歳
- ◇1924年の「洋行」/その前後の大泉家の所在/大泉滉の出生地/培風寮
- 大正十四年(1925) 32歳
- ◇大泉黒石と伊藤大輔(帝国キネマ/東邦映画製作所)──『人間廃業』の元ネタ?
- 大正十五年/昭和元年(1926) 33歳
- ◇渡辺氏宅での間借りについて
- 昭和二年(1927) 34歳
- 昭和三年(1928) 35歳
- ◇福田正夫宛書簡の謎
- 昭和四年(1929) 36歳
- ◇最後の長崎行?──『峡谷を探ぐる』の「峡谷瀞八丁」について
- 昭和五年(1930) 37歳
- ◇「紅葉の中をゆく ─片品川渓谷─」について
明治二十六年(1893)
10月21日、長崎県長崎市八幡町8番地に、父アレクサンドル・ステパノヴィチ・ワホーヴィチАлександр Степанович Вахович(中国名は王厚[1])、母大泉(本川)ケイの長男として生まれた[2]。本名は大泉清。
父アレクサンドルは①1858年9月8日(②:11月5日)、①シェドレツカヤ県(②:グロズノ県)ベリスキー郡ルコーヴィッツ村д. Луковец Бельского уезда Седлецкой губернииのユニアト教会(東方帰一教会)の司祭の家庭に、長男として生まれた[3]。父はステパン・ワホーヴィチ、母はヴァルヴァラ(中本信幸氏:ヴェロニカ[4])。兄妹にエメリアン、レフ、①エレナ (②:ドマンスカヤ ③大泉黒石「放浪の半生 (文壇数奇伝─その一─)」:マリア・ド・ラリーザ)。1883年にサンクト・ペテルブルク大学東洋語学部を卒業後、外務省アジア局十等官、ウルガや北京の通訳官、1890年に出発した皇太子ニコライの東洋旅行の通訳官(この時アレクサンドルは長崎のロシア領事館の臨時支配人として長崎に滞在)等を経て、1891年に天津の領事になった。1892年末、職務のために長崎を訪れた際にケイと出会い、結婚に至った。1893年に漢口の領事になった。
母ケイは1877年か1878年に長崎に生まれた[5]。父は本川庸四郎(生没年不詳)、母は『俺の自叙伝』に登場する片目の不自由な黒石の祖母(大谷清水『午』によると「弘化年間[1845-1848年]に生れた」という)。姉に「ゑい子」がいた。ケイは幼い頃から文学や絵画を好み、ロシア語も独学で学んでいたという[6]。後に大泉家に養子に入ったため大泉に改姓。アレクサンドルの来崎時、間を取り持つ人があって縁談を持ち込んできたため、親族の反対を押し切って結婚式を挙げた。その後彼の任地である天津や漢口へも行ったというが、これに関しては詳らかでない。彼女は清を産んでまもなく亡くなった。
『俺の自叙伝』によると、幼い清はケイの母(本川系)である祖母(片目が不自由であったようだ[7])、曾祖母、乳母、病弱な伯母「ゑい子」らによって育てられた。大泉系の祖母も彼の面倒を見たようだ[8]。また、「春徳寺下の幼稚園」に通った。
【同年に生まれた作家・文学者(五十音順)】
石川錬次、市川房枝、伊藤貴麿、内田誠、大田黒元雄、岡野馨、木村荘八、帰山教正、甲賀三郎、佐喜眞興英、獅子文六(岩田豊雄)、嶋田的浦、下村千秋、鈴木泉三郎、関口次郎、曾宮一念、高野素十、高橋元吉、谷口雅春、内藤辰雄、内藤千代子、中川一政、中西伊之助(1887年生まれの説あり)、永田衡吉、野田高梧、土師清二、浜田廣介、原田謙次、原田敏明、福田正夫、舟木重信、古瀬良則、御木本隆三、南洋一郎、村岡花子、百田宗治、矢内原忠雄、山岸徳平、山田珠樹、結城哀草果。
※マヤコフスキー、毛沢東も同年生まれ。同年に河竹黙阿弥、イポリット・テーヌ、モーパッサンが死去。
※芥川龍之介、生田春月、小川未明、西條八十、斎藤茂吉、佐藤春夫、子母澤寛、鈴木三重吉、滝田樗陰、種田山頭火、成瀬正一、南部修太郎、野口雨情、野村胡堂、橋本進吉、秦豊吉、平林初之輔、藤森成吉、細田民樹、堀口大學、水原秋櫻子、宮島新三郎、宮原晃一郎、森口多里、吉川英治、A・A・ミルン、ヴァージニア・ウルフ、ジェイムズ・ジョイス、ジャン・ジロドゥは前年(明治二十五年/1892年)生まれ。同年にアファナーシイ・フェート、エルネスト・ルナン、テニスン、ホイットマンが死去。
※江戸川乱歩、潁原退蔵、江馬道助、片岡鉄兵、木村毅、小島政二郎、小牧近江、佐々木茂索、滝井孝作、武井武雄、橘外男、戸川貞雄、徳川夢声、西脇順三郎、葉山嘉樹、福原麟太郎、福本和夫、藤森秀夫、水木京太、村松正俊、森田たま、山内義雄、イサーク・バーベリ、オルダス・ハクスリー、セリーヌ、ダシール・ハメットは翌年(明治二十七年/1894年)生まれ。同年に仮名垣魯文、北村透谷、中野逍遥、ウォルター・ペイター、スティーブンソン、ルコント・ド・リールが死去。
明治二十九年(1896) 3歳
この年、父アレクサンドルが長崎へ来て数日間滞在し、清と交流したようだ[9]。12月21日、後に妻となる高西ミヨが長崎市西山町で生まれる[10](明治三十年/1897年という説もある[11])。高西家と本川家は姻戚関係にあり(『俺の自叙伝』によるとミヨの「祖父の兄」が「本川」であったという[12])、家も近所にあったため(一説によると高西家は崇福寺境内に住んでいた[13])、清とミヨは幼馴染になった[14]。ミヨの父はドイツへ留学したまま帰って来なかった。ミヨの母高西ヒロは東京にいた姉を頼って上京し、裁縫教師の職を得た。その後、ヒロは福原という海軍軍人と再婚して大阪に移り住み、ミヨをここへ呼んで、信愛女学校に入学させた。清とミヨが別れた年月は未詳[15]。
明治三十二年(1899) 6歳
この年、「桜の馬場の小学校」に入学か[16]。
明治三十三年(1900) 7歳
この年、伯母(妻の姉)のゑい子が亡くなったようだ[17]。彼女が死ぬまで、清はゑい子のことを母だと思っていたという[18]。その後、八幡町から西山に転居。この家に住んでいる間に曾祖母も亡くなった(没年84歳)。
明治三十五年(1902) 9歳
2月11日から12日の夜、父アレクサンドルが任地の漢口で逝去[19]。おそらく清が尋常小学校三年生を終える頃のことであった。遺体を載せた軍艦が漢口からウラジオストクの墓地へ向かう途中に、清のために長崎に寄港したという[20]。この時、アレクサンドルの妹であるラリーザもいたようだ。この後、ウラジオストクまで同行したか[21]。遺言によって父の遺産の一部が彼に託されたようだが、その多寡は詳らかでない。この後、小学校を退いて海星商業学校に入学(入学時期未詳)。海星商業学校を卒業するのは1912年3月であるため、小学校を退いてからずっと海星に在学していたとは考えにくい。この間にロシア側の親族によって海外へ連れていかれた時期があったか。
明治四十三年(1910) 17歳
夏頃、長崎にいたようだ[22]。
明治四十四年(1911) 18歳
初夏、シベリアにいたようだ[23]。
明治四十五/大正元年(1912) 19歳
この年の早春あるいは冬頃、父の墓参りのためにウラジオストクへ行ったか[24]。3月、海星商業学校を卒業[25]。同月、『文章世界』7巻4号の懸賞「短文」部門(選者=相馬御風)に、「大泉きよ」名義で投稿した「一人の女」が「秀逸」として当選。これによると、この時の住所は「長崎市伊良林四八三」[26]。4月、鎮西学院の中学部に中途入学(おそらく四年生として)。同級生に服部武雄がいた(『俺の自叙伝』の「松原圭吉」のモデル)。5月には「ベンチの春」が、6月には「雲」が『文章世界』懸賞の「短文」部門(選者はいずれも相馬御風)に「佳作」として掲載された。中学生時代は「毎日一冊主義」で、「スマイルスやマアデンの立志物語」、「テニスン。バイロン。ワアズワアス。ミルトン。スコット。ヂッケンス(…)シェクスピア」などの名著を貪るように読んだ[27]。しかし最も印象に残っているのは「少年の頭にわかり易くて面白いウエル・ジュルン[ジュール・ヴェルヌ]の冒険旅行小説やウオター・スコットの歴史物」だったという。
大正二年(1913) 20歳
5月、ミヨと結婚した[28]。
大正三年(1914) 21歳
3月、鎮西学院の中学部を卒業か。卒業後に一度上京したという[29]。6月15日までに第三高等学校の受験を出願[30]。7月8日から10日の間に第三高等学校で体格試験。10日、第一子の淳(きよし)が誕生[31]。11日から14日まで第三高等学校で選抜試験。第三高等学校の第二部甲類(工科)に合格し、9月11日に第二部甲類一組に入学[32]。第二部甲類の合格者68人のうち上位13番での合格だった[33]。三高時代に関しては寺の境内の下宿に住んでいたという記述が多いが、寄宿舎に入っていた時期もあるようだ[34]。服部武雄(≒「松原圭吉」)は一年後に入学したため、在学時期は重なっていない。
大正四年(1915) 22歳
この年の9月までに第三高等学校を退学、あるいは除名されたようだ[35]。冬頃、住吉神社近くの知人を訪ねて無心したが、金は得られなかったという[36]。年末か翌年の早い時期に妻、長男の淳、祖母と共に上京したようだ。
大正五年(1916) 23歳
1916年~ 6月? 9月~ 1917年11月~
石川島 造船所 |
童話/ 翻訳 |
草履 →屠牛 |
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活版・広告 →草担ぎ・ 塾講師 →香袋の行商 床屋の内弟子 |
第一高等学校 →脚本代作・活動俳優 赤本執筆・赤本屋書記 |
大泉清 泉清風 本郷座の 出方 |
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京橋/ 木挽町周辺 |
今戸 |
亀岡町 |
橋場 |
「今戸公園」 周辺/玉姫町 床屋二階 |
金助町 =本郷三丁目 刑事宅二階 |
|
春木町 =本郷座裏 |
※拙稿「黒石大泉清小伝」第3章に掲載した表を参考までに引用した。それぞれの典拠や註釈は拙稿を参照されたい。
上京後、まずは京橋周辺に落ち着き、石川島造船所に勤めた。これを退いた後、9月に第一高等学校に入学するまでの間、浅草周辺の下宿を転々としながら様々な職を体験した。その間に辻潤と出会ったようだ[37]。6月、『実業之世界』に「手軽で有利な商売」を寄稿したか[38]。6月1日から15日までの間に第一高等学校に出願[39]。7月8日から10日までの間に第一高等学校で体格試験。11日から14日まで第一高等学校で選抜試験。第一高等学校の第二部丙類(農科)に合格し、9月11日に第二部一年三之組に入学[40]。第二部丙類の合格者19人のうち上位2番での合格だった[41]。入学の前後に本郷の金助町(本郷三丁目)に転居したようだ[42]。一か月ほどで学校へ行かなくなり[43]、翌年の9月までに退学、あるいは除名されたようだ[44]。正確な時期は不明だが、おそらく一高に通わなくなった後、かつて日活向島撮影所で知り合った脚本家の高橋筑峰(『俺の自叙伝』等に登場する「高橋筑風」のモデル)の紹介で、赤本屋の春江堂書店(湯浅春江堂)の書記として雇われた。また、筑峰の脚本の代作もした。10月、丘の蛙『一高三高学生生活 寮のささやき』(磯部甲陽堂)刊行。これは確認できる限りで最初の彼の単行本である。
大正六年(1917) 24歳
1月、『中学世界』に大泉小生「三高生活 冬の夜がたり」発表、丘の蛙『博士になるぞ』(日吉堂本店)刊行。2月、大泉清『卵を多く産ませる素人養鶏』(盛陽堂)、丘の蛙『諧謔小説 かっぱの屁』(秀美堂本店)刊行。3月、丘の蛙『滑稽俳句 海鼠の舌』(国華堂本店)刊行。本書執筆時には駒込に住んでいたという[45]。これが確認できる限りで最後の丘の蛙としての活動である[46]。8月、大谷清水『午』(日吉堂本店)刊行。11月前後に第二子の出産のために本郷春木町の「本郷座の裏の路地の奥」の家へ転居したようだ[47]。転居にあたって、東京にいる唯一の親戚である伯父(妻の「お袋の姉の亭主」)の世話があり、彼の妾を匿うことも頼まれたという。11月、「大泉黒石」として「杜翁の周囲(1)」(トルストイ研究)、「大泉清」として「現代翻訳文壇の醜態解剖」(日本評論)発表、「泉清風」として『探偵大活劇 ドラルー』(春江堂書店)刊行。これ以降、泉清風としては探偵活劇映画の翻訳シリーズをほぼ毎月発表するようになる[48]。同月12日、次男の氵(け)顕(ん)が誕生[49]。12月、大泉黒石「倫敦塔」(大学評論)、大泉清「杜翁の周囲(2)」(トルストイ研究)発表、泉清風『探偵大活劇 灰色の幽霊』(春江堂書店)刊行。
大正七年(1918) 25歳
1月、大泉黒石「倫敦塔」(大学評論)発表。2月、大泉黒石「倫敦塔」、チェーホフ「牧人」翻訳(大学評論)発表。3月、泉清風『大活劇 秘密の王国』、『探偵大活劇 ダイヤの1』(いずれも春江堂書店)刊行。4月、大泉黒石「露西亜の女」(露西亜評論)発表。5月、泉清風『冒険探偵大活劇 赤い目と大きい手』(春江堂書店)刊行。6月から9月まで『露西亜評論』において大泉黒石「露西亜の伝説俗謡の研究」連載。6月、泉清風『探偵冒険活劇 七ツ真珠』(春江堂書店)刊行。7月、泉清風『悲劇夫婦心中 須磨の松風』、『実話悲劇 鉄路の露』(いずれも春江堂書店)刊行。8月、大泉黒石「ノートル・ダム塔下の夏」(大学及大学生)発表。秋頃、東京日日新聞の社会部記者だった頃の山川亮や、宮地嘉六、中沢静雄らとの交流が始まる(ただし前年秋の可能性あり)[50]。特に大泉家と同じく本郷に下宿のあった山川とはしばしば往来があったようだ。9月、泉清風『探偵大活劇 怪宝島』(盛陽堂)刊行。10月、泉清風『探偵大活劇 巌窟の秘密』(盛陽堂)刊行。11月、泉清風『探偵活劇 血笑鬼』(盛陽堂)刊行。11月14日、西伯利新聞社の通訳者として雇われて阿武天風らと共にハルピンの本社へ行く。しかし通訳能力がほとんど無いことが判明したために解雇され、まもなく帰朝[51]。12月、大泉黒石「莫斯科の牢に入る記」(雄弁)発表、泉清風『海底の美人塔パノプタ』(春江堂書店)、『探偵大活劇 幽霊人間』(盛陽堂)刊行。
大正八年(1919) 26歳
1月、泉清風『探偵大活劇 海底の金庫』、『探偵大活劇 金の鍵』(いずれも盛陽堂)刊行。2月、泉清風『冒険活劇 覆面の呪』、『悲劇 夜半の嵐』、『猛獣大活劇 獅子の爪』(いずれも春江堂書店)刊行。3月、大泉黒石「露西亜の活動映画のこと」(露西亜評論)、泉清風『滑稽 学生さんの世の中見物』、『一人息子に嫁八人』(いずれも日吉堂本店)刊行。4月、大泉黒石「十八世紀及十九世紀に於て発表されたる西伯利の科学的観察の蒐集」(大学評論)発表、泉清風『大活劇 地獄の王冠 イントレランス』、『探偵大活劇 奇人怪人』(いずれも盛陽堂)、『探偵大活劇 呪の家』(春江堂書店)刊行。5月、大泉黒石としては初の単行本『露西亜西伯利 ほろ馬車巡礼』(磯部甲陽堂)刊行、「露国インテリゲンチャ婦人の民主的運動」(婦人問題)、「西伯利の女」(露西亜評論)発表、同月から7月まで「思ひ出るスラヴの娘」(少女の友)連載、泉清風『探偵大活劇 秘密馬車』(盛陽堂)刊行。5月6日、辻潤らが参加した常盤楽劇団の第一回公演を観劇したようだ[52]。6月、大泉黒石「過激派の炸裂弾と露西亜の名刹と国宝」(太陽)発表、泉清風『探偵大活劇 巴里の秘密』(春江堂書店)刊行。7月、大泉黒石「露西亜時事閑話」(解放)、「ロシヤ過激派政府の労働者待遇法」(新公論)、「十八世紀及十九世紀に於て発表されたる西伯利の科学的観察の蒐集[二]」「ゴロドノの一夜」翻訳(大学評論)、「オムスク政府建設史」(太陽)、「過激派を劫す人々の群」(雄弁)発表。おそらく6月後半から7月前半頃、雑誌『話の世界』の原稿を日新閣へ渡しに行った際、田中貢太郎や生方敏郎に居合わせた[53]。田中は『ほろ馬車巡礼』を読んで才能を認め、黒石を滝田樗陰に紹介した[54]。黒石に興味を持った樗陰は、『中央公論』9月号に彼の作品を掲載することを決めた。その後、数日で「自叙伝」第一篇を書き上げた[55]。8月、大泉黒石「露西亜水郷印象記」(解放)発表。同月、『大学評論』関係者や南天堂主人松岡虎王麿らと共に水郷潮来や香取に遊ぶ[56]。20日、秀英舎で『中央公論』9月号の最終校をしている樗陰や木佐木勝を田中貢太郎と共に訪ねる[57]。この時、『中央公論』10月号における黒石の作品の掲載が決定した。9月、大泉黒石「露西亜時事閑話」(解放)、「幕末武士と露国農民の血を享けた 私の自叙伝」(中央公論)、「狂中将と大学出の靴屋」(話の世界)発表、泉清風『軍事大活劇 探偵の大危難』、『大探偵大活劇 暗中の追跡』(いずれも盛陽堂)刊行。10日、『東京朝日新聞』朝刊にインタビュー記事「数奇の運命を負える混血の新進作家─幕末武士と露人の血を享けて─流転の惨苦廿八年の体験を基に創作界へ」掲載。13日午前中、中央公論社を訪れ、樗陰に自叙伝第二篇の原稿を渡す[58]。この時、樗陰に半年から一年間は『中央公論』以外に寄稿しないでほしいと頼まれたが、守らなかった。また、黒石は警視庁から「ロシヤ事情の話をしたり、ロシヤ語を教えたりすること」を月給三百円で持ちかけられたという話をした[59]。21日と28日、『読売新聞』に「曾て私の会見した露国文豪の印象」発表。この月に一躍有名になってから、大泉黒石としての執筆量が急激に増えたためか、泉清風としての活動は途絶えがちになる(ただし未発見の可能性もある)。この頃、加藤朝鳥、山川亮、中沢静雄らの紹介によって、毎月12日に岩野泡鳴宅で行われていた月評会に参加するようになった[60](泡鳴死去の一か月前=1920年4月まで存続[61])。10月、自叙伝第二篇「「私の自叙伝」続篇 日本に来てからの俺」(中央公論)発表。同月7日昼頃、『中央公論』11月号の原稿を渡すために中央公論社へ行き、そのまま樗陰、木佐木、高野敬録らと共に浅草、上野に遊んだ[62]。8日、「府下高田村雑司ヶ谷九三四鬼子母神裏通り」に転居[63](番地を「三四九」としているものもある[64])。近所に秋田雨雀が住んでおり、度々交流した[65]。春木町の下宿も借り続けていた[66]。10日午後5時より、日比谷の松本楼にて「自叙伝会」が催された(主催=中央公論社、玄文社、日新閣)[67]。このとき村松梢風と知り合った[68]。11日、早稲田大学の「学生雄弁会」で「聞く話」「見る話」と題してシベリアの状況を講演する予定だったが欠席[69]。後日、学生達は「黒石会」を組織したという。同日、岩野泡鳴は黒石から「ハガキ」を受け取った(内容不明)[70]。同月22日から11月26日まで大阪朝日新聞で「恋を賭くる女」を連載。11月、大泉黒石「俺の見た日本人」(中央公論)発表、『ロシヤ秘話 闇を行く人』(日新閣)刊行。12月、大泉黒石『俺の自叙伝』(玄文社)、泉清風『探偵大活劇 十文字の秘密』(盛陽堂)刊行。同月3日、日比谷の松本楼にて行われた「石蕗会」に参加[71]。24日、秋田雨雀を訪ねる[72]。31日、東京日日新聞記者の「田中重雄」と共に漁村(場所不明)に宿泊[73]。冬頃、伊豆温泉の「千人風呂」へ行った[74]。年末、「愛読者の中の志那人」達が横浜に黒石を招き、歓迎会が行われた[75]。
大正九年(1920) 27歳
おそらくこの年、詩人の新島栄治が訪ねて来て知己になる[76]。また中村黒江と知己になる[77]。春から夏頃、比叡山から降りて来た辻潤と再会する[78]。辻は早稲田大学付近で野宿していたため、彼の信奉者であった片岡厚が早稲田にある自身の下宿へ連れて行った。当時の大泉家は片岡の下宿と近い距離にあったため、この頃は辻潤との交流も増えたと推測できる。1月2日、長崎へ帰省か[79]。同月初旬、「府下高田村雑司ヶ谷四四二」に転居[80]。11日、岩野泡鳴が黒石から「ハガキ」を受け取る(内容不明)[81]。17日、秋田雨雀に連れられて神近市子が来訪[82]。20日、樗陰、貢太郎と共に出かけた[83]。24日、東海大学で講演予定だったが欠席[84]。2月、「代官屋敷」(中央公論、創作欄)発表。これが『中央公論』創作欄に掲載された最初の作品である。同月9日に平塚雷鳥が衆議院に提出した花柳病の結婚制限と女子参政権に関する請願書に黒石も署名していた[85]。27日夜、田中貢太郎と松崎天民と共に大阪旅行に出発する予定だったが、「俄に支障が出来」たため行かなかった[86]。3月、大泉黒石「金鰭の魚」(中央公論、説苑欄。後に「赤い船」に改題)発表、泉清風『のんき者ののんき話』(日吉堂本店)刊行。これが確認できる限りで最後の泉清風としての活動である[87]。3月から4月頃、アメリカヘ行くと吹聴していたようだ[88]。4月、「長崎夜話」(中央公論、創作欄)発表。同月、「雑司ヶ谷の鬼子母神境内」で、足立栗園、生方敏郎、木村鷹太郎、田中貢太郎、松崎天民、日新閣の社員らと共に宴会(この時黒石は「病後」であったため飲酒しなかった)[89]。4月17日と5月1日に東洋大学で「露西亜古代及現代の劇場の組織建築と其の演劇に就て」という題で講演[90]。8月、最初の小説集『恋を賭くる女』(南北社)刊行。秋から冬頃、フランスへ行くと吹聴していたようだ[91]。9月、『悲劇小説 犯さぬ罪』(盛陽堂)刊行。10月7日、神近市子と片岡(鈴木)厚の結婚式に媒酌人の一人として出席[92]。11月初旬、長女の澄が誕生[93]。同月中旬、新年号の原稿に区切りをつけ、大阪にいる親戚の元へ発つ[94]。京都駅にて尾上松之助の脚本主任になった高橋筑峰と偶然再会。京都帝国大学にいた服部武雄を訪ね、キリスト教青年会館にあった彼の部屋で休む。その後大阪朝日新聞社を訪問。それから当初の目的であった親戚を訪ねたが、留守だった。17日、大阪を発つ[95]。18日、秋田雨雀が来訪[96]。12月、自叙伝第三篇「俺の穢多時代」(中央公論、説苑欄)発表。
◇大泉黒石と正岡容
黒石が正岡容と知り合った年月は、正確には分からない。真鍋元之編「正岡容」(『大衆文学事典』青蛙房、1967年、651頁)には「京華中学を経て大11日本大学芸術科中退。その前から吉井勇・阪井久良伎・岡本綺堂・大泉黒石らに師事していた」とある。また、瀬沼茂樹「思い出す人達」(『群像』32巻8号、1977年、266頁)には中学「四、五年生の頃には西條八十や大泉黒石に師事し、…」とある。「正岡容年譜」(『大衆文学研究』21号、南北社、1967年、124頁)には、1920年初夏に岡本綺堂、1921年に阪井久良伎と吉井勇に師事したとあるが、黒石についての記述はない。以上から、1920年か1921年のいずれかに黒石に師事したと考えるのが妥当だろう。
両者の交流を管見の及ぶ限りでまとめておく。1922年、黒石は正岡容『東海道宿場しぐれ』『東京夜曲 影絵は踊る』の序文を書いた。『東海道宿場しぐれ』巻末広告によると、同年に黒石の「長序」が付された『長編小説 花火の宵』も刊行予定であったようだが、これは残念ながら実現しなかったようだ。1923年5月、正岡は「悪逆非道歌巡礼─師の君が声を其儘─」(『文藝春秋』1巻5号、12頁)で「師」の一人として黒石に関する狂歌を披露した(黒石は鰻を好かずいまの世のぷろれたりあを我が好かぬごと)。1927年に創刊された黒石の雑誌『象徴』にも正岡は参加した。1928年7月9日から正岡容が金龍館に出演することになった際、黒石は彼を「後援」したという(「後援」として実際に何をしたかは不明)。これ以降、特に目立った交流は見られない。正岡曰く、「大泉黒石先生にはポー・ホフマン・リイラダン等、等、幻妖怪奇の文学に付いてさまざまの知識を与えて頂いた。」(『円太郎馬車』三杏書院、1941年、290頁)また、「私の(…)異国情緒へのあこがれは谷崎潤一郎、佐藤春夫、芥川竜之介諸家と大泉黒石小説の長崎物が一ばんわかい私の血を動かせたのだといえよう。」(正岡容「寄席雑記(序に替えて)」芸能文化選書刊行会編『芸能入門選書 寄席演芸篇』新灯社、1955年、12頁)他に、映画になりそうな小説を挙げるなかで「これは何べんか、やられかけてはおくらになってる運命のものだが、」といって「黄夫人の手」に言及したり(「映画と幻想の問題」『芝居とキネマ』3巻7号、大阪毎日新聞社、1926年、10頁)、初代快楽亭ブラックの自叙伝を黒石の自叙伝に比したりしている(正岡容『随筆 寄席囃子』古賀書店、1967年、5頁)。
ちなみに、黒石は正岡を介してか、川柳革新運動を行った川柳作家の阪井久良伎や、坂井に師事した川柳作家の前田雀郎とも知己になったようだ(正岡容「江戸小噺鑑賞」『寄席行灯』柳書房、1946年、35頁)。正岡曰く、坂井は黒石について「外国の血の流れている人は、日本の文学者みたいに外国盲拝でなく、双方を公平な眺め方をしているので話が分る」と評していたという。小生夢坊は「いつだったかな、向島の『雲水』で、大泉黒石氏をサカナにして、[坂井]久良伎、[前田]雀郎、正岡容氏たちと川柳風な集りをやったことが、おもいだされる。」と回想している(小生夢坊「天狗まんだん」『川柳きやり』37巻11号、川柳きやり吟社、1956年、8頁)。
大正十年(1921) 28歳
1月、「『俺の自叙伝』第四篇 文学者開業時代」(中央公論、説苑欄)発表。同月4日、秋田雨雀が来訪、一時間ほど雑談[97]。2月、「天女の幻」「自叙伝「奥付」と説苑欄引退録」(中央公論、説苑欄)発表。同月8日午後6時より「万世橋ミカド」で開かれた「白鷗会」発足会に出席[98]。午後9時半閉会。この時黒石はエロシェンコを呼んだが、エロシェンコは会員たちに「汚くて臭い」と不評だったため[99]、長老格の馬場孤蝶がエロシェンコと一緒に来た秋田雨雀に対して次からは連れてこないよう忠告した。雨雀は馬場に対して反論の手紙を送ったが、黒石もまた憤慨して退会した[100]。19日夜、雨雀と共に雑司ヶ谷の「森の会」に参加[101]。3月4日、改造社の三周年記念として帝劇に寄稿家が招待された際、黒石も呼ばれて行った[102]。4月頃、何らかの映画脚本を書いたようだ[103]。同月に祖母が逝去[104]、その骨を携えて長男の淳(小学一年生)と共に「十年も見なかった」長崎へ帰省[105]。門司へ寄って旧友の河村杏盃(九州日報門司支局長)と「恐らく(…)十四五年ぶり」に再会(この後、「家族的の交際仲」になり、「九州へ下るときは必ずこの友の家に足を留めるのが例になっ」たという[106])。『俺の自叙伝』によると遺骨は皓台寺に埋葬した。月末に帰京[107]。夏頃、京都帝国大学の卒業を控えた服部武雄が来訪[108]。二人で江ノ島を観光する。5月4日、秋田雨雀を訪ねる[109]。7月、「妾の番人」(中央公論、創作欄)、「刺笑の世界から」(同、説苑欄)発表。8月15日、仙台に到着[110]。16日、「盆火」を見物。17日、講演を行い、松島に遊ぶ。18日、「鹿落ノ湯」に行った[111]。24日までに帰京[112]。9月、ゴーリキー『どん底』翻訳(東亜堂)刊行。同月、中村黒江『血によりて 死の誘惑』の序文を「東京雑司ヶ谷の寓居」で書く[113]。13日、滝田樗陰に書簡を送付[114]。その内容は「煙れる心臓」が完成したが「先日お話申上げました通りに、雑文向きのものではございませぬ故、希はくは小説としてお取扱ひの光栄に浴したく存じます」というものだった。27日、木村小舟『日本仏像物語』恵投の礼状を書く[115]。これによると、この頃病臥していたという。10月、『ロシヤ秘話 闇を行く人』(教文社)刊行、「煙れる心臓」(中央公論、創作欄)発表。これが『中央公論』創作欄に掲載された最後の作品となった。この頃、胃腸を病んで湯河原に静養[116]。冬頃か翌年の初め頃、『中央公論』創作欄作家達──芥川龍之介、佐藤春夫、宇野浩二ほか「数名の若い流行作家」、徳田秋声──による創作欄からの排斥事件が起こったか[117]。年末、東北で講演旅行[118]。「秋田の市記念館」では「聴衆三千人」の大盛況だった。次に仙台の「文化会主催の講演会」に赴いた際、「停車場から直ぐ遊郭へ案内」されたという。一説によるとこの年の所得税は前年の二倍に査定された[119]。「初めの千円を四千円近くに値上げされた」ため払わなかったところ、「忽ち淀橋の税務所から差押えの赤紙通知を受けた」という話もある[120]。
大正十一年(1922) 29歳
木佐木勝によると、この年から「どういうわけか」黒石はあまり中央公論社を訪れなくなった[121]。またおそらくこの年、辻潤の引き合わせによって高橋新吉と知り合う(前年12月の可能性あり)[122]。1月、「父と母の輪郭」(中央公論)発表。同月9日、永見徳太郎に書簡を送付[123]。11日、秋田雨雀が来訪[124]。26日、正岡容『東海道宿場しぐれ』の序文を「東京雑司ヶ谷にて」書く[125]。2月、『露西亜文学史』(大鐙閣)刊行。同月7日、孤立した黒石を励ます書簡(おそらく『中央公論』創作欄での排斥事件に関する)が有島武郎より届く[126]。同日、カフェー・パウリスタで行われた尾崎士郎『逃避行』出版記念会に参加[127]。高畠素之と前田河広一郎が喧嘩を始めたため、カフェー・ライオンに移動。ここでは宮嶋資夫が過度に騒がしくしたため、コックと乱闘が始まる。黒石は巡査が来た際に弁明役になったが、隙を見て「矢部[周?]」と共に抜け出した。26日、永見徳太郎に書簡を送付[128]。これによると、3月3日に東京を発ち、門司を起点に五か所で講演をするという。8日に長崎銅座町の永見徳太郎宅を訪ねた[129]。11日に県立長崎図書館で講演(主催=長崎日日新聞)[130]。帰京後の19日、永見徳太郎に書簡を送付[131]。4月1日、永見徳太郎に書簡を送付[132]。これによると、この時大泉家に松尾一化子(梅本貞雄)[133]が訪れていた(数日前に来たようで、「一昨日」には松尾に子どもが産まれたという)。また「四五日前」に古賀十二郎から書簡が届いた。16日、永見徳太郎に書簡を送付[134]。これによると、この頃「露西亜文学史の第二巻の続稿」、「長篇小説老子の創作」、「文芸雑誌「都会人」の一ヶ年分の原稿」に取り掛かっていた。23日、秋田雨雀が来訪して一時間ほど雑談[135]。5月下旬頃、木佐木勝によると黒石の「知り合い関係[田中貢太郎、村松梢風、滝田樗陰など]から黒石氏についての悪い噂が流れるようになった」[136]。7月2日午後6時、「万世橋駅上ミカド」にて開かれた中沢静雄の第一創作集『一日の糧』出版記念会に発起人の一人として参加[137]。同月末、東北へ講演旅行[138]。6月末か7月初旬に『創作 老子』(新光社)刊行、続々と版を重ねる[139]。しばらくは印税のために「数日おきに数百円の入金」があったため、事情を知らない郵便局員がこれを訝しんで警察に通報したほどであった[140]。なお、『老子』出版にあたって加藤朝鳥の世話があったため(朝鳥の発案だったという説もある)[141]、この後黒石は大きな本棚を彼に贈った[142]。7月3日、「飢民救済に冷淡な日本のロシア文学者諸君の奮起を熱望す」(読売新聞)発表。22日午後6時より駿河台下中央仏教会館にて『老子』出版記念の講演会が予定されていたが、当局によって中止させられた[143]。8月9日、月島労働会館にて開かれた「思想問題夏期講習会」(主催=ヴァガボンド社)で、「ロシア文芸と東洋思想」という題で講演を行う[144]。29日、『東京朝日新聞』朝刊に「節約デー反対に文壇のプロさん達が黒石氏の宅で御馳走デー」という記事が出たが、翌日の同紙朝刊に訂正記事が掲載された。実際のところプロレタリア文学者達は関係なく、また黒石宅で慎ましく行うのではなく「もっともっと大袈裟にやるつもり」だったという[145]。あるいは、「旧友二三が寄って月見酒でも飲もうと思っている」だけだったという噂もある[146]。9月、自叙伝第五篇「あの頃の俺・この頃の俺」(中央公論)発表。同月頃、『老子』版元の新光社の主人が「やくざな小説でも大広告をしさえすれば売れるものだ」というようなことを言い、これを知った黒石は憤慨したが、木村毅の取りなしで続篇は春秋社から出ることに決まった[147]。10月10日、第一高等学校にて開かれた「第二回ロシヤ飢饉救済講演会」(主催=一高社会思想研究会)で、「彌次郎兵衛、喜多八のニヒリズム」という題で講演を行う[148]。11月、『老子とその子』(春秋社)刊行。この頃、中古のピアノを「三百円を五十円ずつ月賦払い」で購入[149]。同月3日夜、生方敏郎と共に上野駅から仙台へ向かう[150]。4日、二人を招待した仙台市の「文化生活研究会」の人々に迎えられる。「河北新報の記者」渡邊清次郎、「文化会」の新妻康愛に案内されて仙台を観光した後、夜に公会堂で講演。この日、黒石は一人で「針久」に宿泊(生方は旧知の堀内真澄宅に泊まった)。翌日、新妻に案内されて生方と共に塩釜、松島を観光。13日、本所の「寿座」にて「文芸思想講演会」(主催=流星社)が開かれたが、責任者側の問題から予告されていた講師(黒石含む)は誰も参加しなかった[151]。26日、次女の洽(あい)が誕生[152]。12月頃、気仙沼の菅野千介(後の青顔)が初めて手紙を送ってくる(同月17日に返信)[153]。同月初旬、高橋新吉が黒石宅に来て詩を聞かせた後、講演会に誘い、黒石は承諾[154]。これにより17日、「ダダイズム表現会」(辻潤「ダダ」、大泉黒石「ニヒリズム」、武林無想庵「釈迦」、高橋新吉「ダガバジ」)が神田青年会館にて予定された[155]。会場や広告の運動の数日後、新吉は加藤朝鳥や黒石宅(新島栄治もいた)を訪ねた末に失踪、講演会当日は半ば発狂した状態で警官に捉えられていたため止む無く中止[156]。28日、正岡容『東京夜曲 影絵は踊る』の序文を「東京雑司ヶ谷の寓居にて」書く[157]。一説によるとこの歳の所得税は1800円[158]。
◇大泉黒石『老子』英訳の謎/謎の中国語訳
1923年7月に刊行された大泉黒石『血と霊』の「読者姉兄へ」(序文)に、「此の秋──丁度、私の『老子』、『老子とその子』の英訳が米国で売り出される頃、(…)その、九月頃」という記述がある。実はこれ以前にも、『老子』が英訳されるという記述はいくつか見られる。私が知る限りで最も早い例は1922年11月12日の『東京朝日新聞』朝刊に掲載された『老子とその子』の広告で、(おそらく『老子』について)「新日本の代表的作品として英訳近く米国より出でん」とある。翌年1月9日の同紙朝刊の『老子』広告には「既に英訳されつつある世界的名著」とある。そして2月6日の同紙朝刊の『老子』広告には「最近米国に於て英訳されたる名著」とある。これを信じるならば、2月の時点で英訳自体は完了していたということになる。同年4月8日の同紙朝刊の『老子』広告には、「英訳また米国より出づ!」とある。「また」というのが気にかかるが、ともかくこの時に英訳が出版されたように読める。しかし、冒頭に引用した『血と霊』の序文を読む限り、結局これが書かれた「六月下旬」の時点ではまだ英訳は出版されておらず、秋に出版が予定されていたようだ。これ以降、私は『老子』及び『老子とその子』の英訳について言及した文献を知らない。
WorldCatで検索してみたところ、いくつかの海外の大学図書館に大泉黒石『老子』及び『老子とその子』の所蔵が確認できたが、目録情報を見る限り、いずれも原版が所蔵されているのみで、今のところ英訳版は発見できていない。また、スタンフォード大学の「邦字新聞デジタル・コレクションHoji Shinbun Digital Collection」で検索してみたところ、黒石の『老子』が盛んに輸出され、海外の日本人コミュニティに届いていることは分かるものの、英訳されたという記事は見当たらない。果たして本当に英訳されたのか、そしてそれは出版されたのか、全く謎である。
ただし、中国語訳ならあった。それも、日本での『老子』刊行からわずか一年後の1923年に出版されたという。これは「廖景云」なる人物が訳したようだ(この人物についてはいかなる情報も得られなかった)。贾植芳、俞元桂主編『中国现代文学总书目』(福建教育出版社、1993年、692頁)に書誌情報があったので、全文引いておく(都立中央図書館等に所蔵あり)。
老子 小说。[日]大泉黑石著,廖景云译。译者自刊,1923年出版。本书译文为原著的前半部(约三分之一)。书末有译者附言。
念のためDeepLでの翻訳を掲げておく(ただし一部修正)。
老子 小説。[日]大泉黒石著、廖景云訳。1923年に出版された翻訳者自身の出版物。訳文は原文の前半(約三分の一)。巻末に訳者による付記あり。
WorldCatによると、中国国家図書館(BNJ)にのみ所蔵が確認できる。中国国家図書館のOPACで検索すると、原版の他にマイクロフィルムも存在することが分かった(これも同館所蔵)[159]。また、原版の頁数が83頁であることも分かった[160]。
さしあたり書誌情報が分かったのでよかったが、「附言」として何が書いてあるのか、またどのような背景で翻訳されたのかも気になるところである。
◇大泉黒石と青顔菅野千介
1922年12月頃、菅野千介が初めて手紙を送って来たのが、黒石と彼との付き合いの始まりである。菅野は後に「私が、同じく東洋哲学でも特に「老荘」の学に志し、関係文書を集めて今日に到っているのは大泉黒石の創作『老子』『老子とその子』を読んでからである」と述べているため[161]、1922年に発表されてベストセラーとなった黒石の『老子』に感銘を受けて手紙を送ったのだろう。この後もしばしば手紙でのやりとりがあったようで、1979年頃に中本信幸氏が気仙沼へ取材に行った際には「三十数通」の黒石による書簡を確認している[162]。1924年、菅野が上京し、「大泉黒石に弟子入りしようと、明治大学で法律を学んでいた竹馬の友加藤季治(…)の案内で訪ねた」という[163]。1925年に菅野が創刊した同人誌『ボロジン』(BOROZIN)に、黒石は「後援」という形で参加し、数回寄稿もした[164]。その後、菅野が記者をしていた『大気新聞』にも黒石は寄稿した。1927年には黒石が監修した同人誌『象徴』の気仙沼支部を務めた(『象徴』1号54頁)。菅野は1925年4月に大泉黒石『恋を賭くる女』(『文學界』2巻4号「探しているもの」)、1934年10月『俺の自叙伝』(『書物展望』4巻10号「探す本」)を求めたりもしている。
なお、菅野は他にも、辻潤、武林無想庵、きだみのる、永井叔とも交流をもった。特に辻潤への傾倒は深く、辻の生前に気仙沼にて饗したり、その死後にはオリオン出版から刊行された『辻潤著作集』の編集に携わったりした。
大正十二年(1923) 30歳
2月、柳田泉『カアライル全集』出版記念会に出席[165]。3月、第二小説集『弥次郎兵衛喜多八』(盛陽堂)刊行。同月1日、新島栄治『湿地の火』の序文を書く[166]。4月13日、古賀光二によって勝手に計画されていた講演会(講演者=辻潤、大泉黒石、高橋新吉)が博多で開催されたが、このとき大泉一家は帰省して長崎市元博多町の「坂本旅館」に滞在していたにもかかわらず、出席しなかった(辻潤のみ出席)[167]。講演後に辻が長崎に来た[168]。その晩、招待されていた鎮西学院の先生達の会に辻と共に参加。翌日、永見徳太郎の案内で辻と共に長崎の町を観光、夕食は「カイダホテル」でとった。翌日、「東亜館」で黒石の歓迎会が開催された(古賀十二郎も参加)。月末に帰京。5月、向島日活撮影所の脚本部に就任[169](当初は俳優部を志望したという説がある[170]。また一説によると月給は五十円[171])。同月下旬、「府下北豊島郡長崎村五郎窪四二一三」に転居[172]。「東長崎の茶畑の中にぽつんとある西洋館」で[173]、黒石は「茶中館」と名付けた。引越してすぐ養鶏を始めた[174]。庭の一角にミヨの両親(福原)が離れを造って同居していたが、母が亡くなってから父もここを去り、数年後に行旅死亡人として発見された[175]。同月下旬には原作小説「血と霊」の執筆に着手しており[176]、6月中頃には既に書き上げていたらしく、この頃には映画も製作中であった[177]。7月、第三小説集『血と霊』(春秋社)刊行。同月上旬に映画「血と霊」も完成、「近く封切される」予定であったが、結局すぐには公開されなかった[178]。31日、「芝三田の大師堂」で開催された夏期社会思想講習会(主催=ヴァガボンド社)で講演を行った[179]。8月15日、葵館にて「各映画雑誌記者を始め斯業関係者及び高級ファン」が招待されて『血と霊』及び『オー・トゥイスト』の試写会が行われた[180]。9月1日の関東大震災では、家族は無事だったが、家は外壁が剥がれて傾いた。余震の心配もあるため数日は「家の前の野原に野宿」していた[181]。また、それまでの自叙伝をまとめた『世界人(コスモポリタン)』(毎夕出版部)が製本見本を残して焼失[182]。『老子』も「殆ど絶版の形」になった[183](これまでに「八十版を重ねようとした」、あるいは「八十五版」を記録したという[184])。他に、黒石曰く「半年がかりで書き上げた小説の原稿九百枚と、小さい研究物の草稿」を紛失した[185]。同月5日前後に黒石の洋行送別会が不忍池近くの「笑福」で行われた[186]。27日、永見徳太郎に震災見舞いの礼状を送付[187]。10月、「大泉万歳!黒石万歳!」(中央公論)発表。11月9日、牛込館で映画「血と霊」封切、この時原作者として挨拶をした[188]。12日午後2時、東中野日本女子高等学院で「曠野の花」という題で講演[189]。12月、「図に乗つて恁んな馬鹿を見た「大泉黒石」!」(中央公論)発表。年末頃、映画の「第二の作品にかかってい」たようだ[190](『血と霊』序文によれば、次は「絨毯商人」が映画化予定だった)。
大正十三年(1924) 31歳
この年、菅野千介(青顔)が気仙沼から上京、彼の友人加藤季治と共に訪ねてきた(「大泉黒石と青顔菅野千介」参照)。2月、「西伯利三界を迂路つく」(中央公論)発表。3月7日、浅草公園の三友館にて『血と霊』封切[191]。4月、長編小説『大宇宙の黙示』(新光社)刊行。同月発表の「渡欧の前日に」で、映画の第二作の撮影が結局中止になったこと、しかし「私の此の仕事はこれで中絶してしまうのではないから安心して下さい」、また「私は私の映画製作についてもっと努力したいと考えている」等と書いている[192]。晩春、向島日活撮影所の「嘱託」(脚本部)としてのロケーション探しを兼ねて奥多摩を訪れた[193]。5月、第四小説集『黄夫人の手』(春秋社)発表。同月10日、東洋大学講堂にて行われた「文芸思想講演会」(主催=東洋大学社会思想研究会)で講演を行う[194]。6月、『人生見物』(紅玉堂書店)刊行、「クヨクヨするな!何でも勇敢にやれ!」(中央公論、想華欄)発表[195]。この頃、向島日活撮影所から松竹キネマの蒲田撮影所に移ると言っていたようだが、詳細不明[196]。7月下旬、一家で長崎へ出発。出発時にそれまで住んでいた長崎村五郎窪の「茶中館」を引き払ったという(「1924年の「洋行」/その前後の大泉家の所在/大泉滉の出生地/培風寮」参照)。東京駅を出発して、まず大阪の「尾ノ道屋旅館」に宿泊[197]。翌日は広島まで行き、厳島神社近くの「大根屋」に宿泊。翌日、厳島神社の管弦祭の影響で混雑していたため、早々に広島を出発。家族は一足先に門司へ行ったが、黒石のみ「三田尻[現在の防府駅]から三つ目の小郡駅」で山口線に乗り換え、長門峡駅で降りた。探勝道路を通って峡谷の風物を見て歩き、渦ヶ原から乗合自動車に乗って萩まで行った。この後、電車で厚狭、下関を経て門司まで行ったようだ。月末に長崎に到着[198]。8月、長崎滞在中に永見徳太郎に誘われて伊王島へ行った[199]。この後の動向は詳らかでない。帰京後、おそらく「東京府下長崎村大和田二〇二八」に転居(「1924年の「洋行」/その前後の大泉家の所在/大泉滉の出生地/培風寮」参照)。秋から冬の間の一時期、南満州にいたようだが、妻ミヨの体調が悪いという手紙を受けて帰国[200]。まもなく第五子で三男の滉(あきら)が誕生(正確にはこの時まだ名前は決まっていなかった)。「家の児どもはみんな秋生れで学校へあがるのに一年ずつ損をしている」ため、「元日に生れたことにして」届け出をすることにした[201]。11月22日、黒石の留守中に妻が浮気をして子を作った、それで慌てて帰国したという記事が『読売新聞』に掲載された[202]。数日後にこのことを知り、抗議の手紙を送る。12月7日、『読売新聞』に黒石による訂正および名前の募集記事が掲載された[203]。11月下旬か12月初め頃、島田清次郎が巣鴨の保養院に入院していたことや、世間の厳しい論調を知って同情したため、春秋社社長の神田豊穂と共に保養院を訪ねて、彼が持っていた原稿を預かる[204]。一二週間後に黒石は再び島田を訪ね、出版の決定を知らせた(『我れ世に敗れたり』春秋社、同年12月13日印刷18日発行)。
◇1924年の「洋行」/その前後の大泉家の所在/大泉滉の出生地/培風寮
1924年夏、大泉一家は長崎へ帰省した。これはかねてより宣言していた「洋行」を果たさんとする旅路の一環であったようだが、最終的に彼がどこまで行ったのかは詳らかでない。『人間廃業』によると中国に渡り、カンスクまで行った。「女は浮び上る!」(『婦人公論』10巻2号)によると要務を帯びて門司、尾の道、高松、大阪を経て、満州に一ヶ月滞在し、「帰らねばならぬ用が出来た」ため東京へ戻った。単に「長崎迄行って帰って来た」という噂もある[205]。
さてここで問題にしたいのは、旅行前後の東京宅の所在(及び大泉滉氏の出生地)である。黒石はいくつかの作品において、この旅行の出発に際して「府下北豊島郡長崎村五郎窪四二一三」の「茶中館」を引き払ったとしている(『人間廃業』、「女は浮び上る!」、『峡谷を探ぐる』の「長門峡谷」等)。帰京後、『人間廃業』によると「以前の古巣に近い目白の奥の武蔵ヶ原の一角」に家を見つけたという。一方「女は浮び上る!」によると、黒石以外の家族は「一と足先に九州から引き揚げて東京郊外池袋へ家を借りてい」たという。また大泉氵顕「大泉黒石伝」によると、関東大震災の後に「再び目白駅の近く」に引越して、ここで滉氏が生まれたという[206]。
黒石の作品で、第五子(滉氏)の出生について言及しているのは、「笑うべからず」や「鬘娘」等である。いずれの作においても大泉家の所在は長崎村だとされており、「鬘娘」には「出生の場所は大和田」という記述がある。大和田というと、1926年1月10日付の添田知道宛の年賀状(神奈川近代文学館所蔵、特別資料)に「東京府下長崎村大和田二〇二八」という住所が記載されている。1926年9月に発行された『預言』(雄文堂出版)の序文にも「大正十五年九月一日東京府下長崎村大和田の寓居にてしるす」と書かれている。以上から、さしあたり帰京後に「東京府下長崎村大和田二〇二八」に転居したと考えた。
ちなみに氏の正確な誕生日は詳らかでないが(前述のように1925年1月1日生まれとして届けられたようだ)、その出生後、「ホッと安心していると、やがて、差出人不明の手紙が一ッ舞い込んだ」、それが『読売新聞』朝刊1924年11月24日号のゴシップ記事(紫鉛筆)であったというため(大泉黒石「笑うべからず」「鬘娘」)、おそらく10月後半~11月前半頃に生まれたのだろう。また氵顕氏によると、滉氏は生後まもなく腸閉塞になったため順天堂病院に入院し、一命をとりとめたという[207]。
ところで、1924年には花岡謙二が「東京府下北豊島郡長崎村字北荒井」に下宿屋「培風寮」を建てた。ここには大泉一家も一時期住んでいたという(時期は未詳)[208]。黒石と花岡とは1928年2月までには知り合っていたようなので[209]、それまでの間に培風寮に住んでいた時期があったかもしれない。
大正十四年(1925) 32歳
この年、近隣に住んでいた歌人の渡辺順三と知己になる[210]。またこの年、飯田市下久堅から田中幸雄が上京してきて黒石に師事した(翌年の可能性あり)[211]。1月、『小説 老子』(縮刷版、春秋社)刊行。2月、第五小説集『黒石怪奇物語集』(新作社)刊行。「衣更えの季節」(初夏頃か)、奥多摩渓谷へ二度目の探訪(別年の可能性あり)[212]。目白駅から電車に乗って新宿と立川で乗り換え、午後2時前に青梅駅に到着。青梅で用事を済ませてから、馬車で白丸まで、ここから徒歩で氷川村まで行く。氷川神社や「三河屋」に立ち寄った後、小河内まで歩いて「鉱泉勝利館」に宿泊。翌日、弁天淵などを見物し、夕暮頃に氷川村に戻った。4月下旬、大阪小阪の東邦映画製作所に滞在[213](「大泉黒石と伊藤大輔(帝国キネマ/東邦映画製作所)──『人間廃業』の元ネタ?」参照)。8月、木村駒子、その子木村生死(しょうじ)らと共に「映画劇団」を結成(監督=黒石、駒子。脚本=黒石、駒子、生死。スター=駒子。マネージャー=黒石)[214]。「純日本物で且外国向きのものを製作するもの」だった。翌月に退院予定だった島田清次郎も入団予定だったが、首尾通りに退院が叶わなかったため加入せずに終わった[215]。同月25日から男女優の募集が開始された。木村宅で行われた厳しい訓練に耐えた者、清水金太郎・静子夫妻、岩野英枝(泡鳴未亡人)らが入団し、「人生座」と名付けられた。9月、心身共に不安定で生活能力のない辻潤のために資金を集める「辻潤後援会」の発起人の一人になる[216]。同月5日、田中幸雄『憂鬱は燃える』の序文を「東京市外長崎村にて」書く[217]。10月27日、『中央公論』編集長の滝田樗陰が亡くなり、30日には喜福寺で告別式が行われたが、黒石が通夜や告別式に参加したかは不明。木佐木勝曰く、「嶋中氏の代になってから」黒石は「自分のほうから[中央公論社に]寄りつかなくなってしまった」[218]。10月31日、カフェー・パウリスタにて開催された田中幸雄の詩集「憂鬱は燃える」出版記念会に発起人の一人として参加[219]。
◇大泉黒石と伊藤大輔(帝国キネマ/東邦映画製作所)──『人間廃業』の元ネタ?
1936年7月1日から3日にかけて『中外商業新報』に連載された「山から出て来た山男──文学後備兵の告白──」で、黒石は次のように語っている[220]。「私は嘗て「日活」脚本部の椅子に腰を掛けていた。(…)才物溝口健二氏を識ったのも、この当時で震災後は大阪の「帝キネ」に厄介をかけた。只今は偉い監督になっておられる伊藤大輔氏が、私の小説をシナリオ化そう(ママ)か、というところで、この会社は解体したと思う。以来私は映画会社とは縁遠くなり、山中の隠遁生活は、私と映画とを、赤の他人にしてしまった。」おそらくこれに関連するのが1925年4月30日の「よみうり抄」で、ここでは黒石が「大阪市外小阪東邦映画製作所に滞在中」だと報じられている。
「東邦映画製作所」は、1925年初め頃から「帝キネ」=帝国キネマ内部で起こっていた内紛の末、退社した元常務兼撮影所長の立石駒吉が同年4月初めに立ち上げた映画会社である[221]。伊藤大輔は1923年6月に松竹蒲田撮影所脚本部から帝国キネマ東京撮影所に移籍したが、関東大震災のためにここは閉鎖され、同社芦屋撮影所に異動した[222]。しかし芦屋撮影所の設備に不満を持ち、二か月ほどで同小阪撮影所に異動した。1924年、監督をすることを条件に契約を更新し、初の監督作品「酒中日記」を発表(封切5月1日)。この後、「坩堝の中に」「血で血を洗う」「星は乱れ飛ぶ」「城ヶ島」「剣は裁く」「熱血を潜めて」等の監督作品を発表した。そうした中、社内で上述の内紛が生じ、伊藤は立石にしたがって東邦映画製作所に参加した(4月5日の発会式にも参加)。ここでは「煙」(ツルゲーネフ原作)を監督し、5月25日頃完成[223]、6月1日に封切した。しかし、東邦映画製作所に様々な問題が生じ(独自の撮影所を持たないために小阪撮影所を帝キネと併用、社長立石の抱える数々の訴訟事件、そのための度重なる立石の上京、深刻な資金難等)、経費削減の名目による馘首や、給料の減給ないし未払いに反対した俳優の辞職等が重なり、6月下旬にはほぼ空中分解の様相を呈した[224]。おそらく伊藤もこのタイミングでここを退いたと考えられる。この後彼は、直木三十五と根岸寛一(当時は立花寛一)が率いる「聯合映画芸術協会」の呼びかけに応じて「伊藤映画研究所」を設立した。ここで「京子と倭文子」「日輪」を撮った後、1926年に資金難によって研究所を閉じ、日活京都撮影所に入った。
黒石は「震災後は大阪の「帝キネ」に厄介をかけた。只今は偉い監督になっておられる伊藤大輔氏が、私の小説をシナリオ化そうか、というところで、この会社は解体したと思う。以来私は映画会社とは縁遠くな」ったと語っていた。一方で、1925年4月には東邦映画製作所に滞在していることが報じられている。黒石が「帝キネ」と書いていることは気にかかるが、その「会社は解体」して「シナリオ化」の話が頓挫したとされていること、そして「以来私は映画会社とは縁遠くな」ったということ、さらに東邦映画製作所に関係したことは事実であることを考え合わせると、東邦映画製作所時代の伊藤大輔と関係があり、この時に「シナリオ化」の話が出たと考えるべきだろう。
なお、黒石は震災後に日活との関係が完全に切れたように書いているが、これは正しくない。1924年晩春には向島日活撮影所の「嘱託」(脚本部)として奥多摩でロケーション探しをした。また1926年には藤原啓を日活脚本部に誘っており、その翌年には藤原と共に表現派映画も撮っている(ただし上映には至らず。藤原曰くこの時黒石は「脚本部長」であった)。さらに1929年には黒石の世話で川原毅が「大泉浩治」として日活太秦撮影所に入社している。彼がいつまで日活と関係を持っていたのかは詳らかでないが、「山中の隠遁生活」に入るまではそれなりに顔が利いたのだろう。
さて、もう一つここで提起しておきたいのは、以上の出来事が大泉黒石『人間廃業』の大部分を占める活動写真会社のエピソードの元ネタになったのではないかということである。
東邦映画製作所の旗揚げから空中分解まで、一連の出来事がようやく落ち着いた頃の1925年12月、黒石は『東京』(実業之日本社)2巻12号に「不景気帳 ──ある活動俳優の内幕話──」を発表した。これは翌年に『中央公論』に連載することになる「人間廃業」と同じ題材を扱った短編小説だが、その筋や登場人物名等に本項で扱った出来事との類似点がいくつか見出せるのである。「立岩重太郎という、赤髭のデップリ肥った紳士」が「関東映画会社」(「関東映画撮影所」ともされている)を起こし、「月給三倍」という条件で「池内監督一味」を引き抜いた。「立岩重太郎」は立石駒吉らしき名前だが、田中純一郎『日本映画発達史 I』(中央公論社)によると立石もやはり「六尺豊かの大男で、モクモクしたアゴひげを生やし、櫻のステッキを振って株主総会などによく出かけ、大言壮語して相手の度肝を抜き、あわよくば一攫千金を得ようとする(…)一種の暴漢であった」という[225]。立石が高給でもって各社から俳優等を引き抜いたということは前述の通りである。さて黒石が「何うして(…)そんなことを知っているかと言えば、この連中が以前の会社にいる頃、私の小説を脚色撮影したことがある関係と、この会社の撮影所が、東京郊外N村の、私の住居から五六町の場所にあるので、撮影の暇には遊びに来ることもあるからだ」という。後者はともかく、前者については、彼が原作小説を書いた映画「血と霊」(向島日活)に出演した水島亮太郎が東邦映画製作所に引き抜かれたことが挙げられる[226]。「不景気帳」によると、彼らは「鞍馬の星影」という映画を撮り始めたが、約束と違って給料が思うように支払われない。「そのうちにこの社長の素情がわかって来て、元は壮士だとかペテン師だとか、碌な評判じゃないので、連中大狼狽」という始末であった(先に引いた田中著から立石もまた総会屋であったことが分かる。また同著の同頁には「立石は国活の崩壊期に浮かび上って来た壮士」という記述もある)。月末になって俳優の一人が社長宅へ給料の催促に行くが、今撮影中の映画が出来上がるまでは支払う金が全くないと知らされ、その上日本刀で脅されたので仕方なく帰ってきて、撮影所で待っていた面々に顰蹙を買う。その後、金策として「京西劇場」の「田舎芝居」に出演しよう、というところで「これから此一座の芝居が始まるのであるが、それはまた他日に譲る」として「不景気帳」は閉じられる。
「人間廃業」では、社長が「岩堂太十郎」、会社が滝野川の「日本芸術映画製作社」、監督が「田屋香水」、ほか俳優達の名前等も変更されているが、筋は「不景気帳」とほとんど同じである(「田舎芝居」の話は別の形に変えられている)。さらに、撮影中の映画が撮り終わった頃に会社は潰れたとされている。
以上、複数の類似点から、「不景気帳」や「人間廃業」は東邦映画製作所の一連の出来事を元にしている可能性がある。
大正十五年/昭和元年(1926) 33歳
この年、藤原啓を日活の脚本部に誘った(これをうけて藤原は翌春に入社)[227]。1月10日、添田知道に年賀状を送付[228]。12日、秀英舎を訪れ『中央公論』編集者の木佐木勝に会い、「人間廃業」の原稿を渡す[229]。木佐木は「前からの関係もあり、ムゲに断ることもできないので、原稿は一応預っておくことにした」。2月、「人間廃業─慙服の巻」(中央公論)発表[230]。同月刊行されたヘルツェン(ゲルツェン)著、内山賢次訳『思ひ出の記』(春秋社)の出版に際して、何らかの形で協力した[231]。3月、『人間開業』(毎夕社出版部)刊行、「人間廃業─絶倒の巻」(中央公論)発表。同月21日から5日間、浅草の松竹座において人生座の第一回公演が行われた(大阪松竹楽劇舞踊団と合同)[232]。4月、「人間廃業─寂滅の巻」(中央公論)発表。同月、木村駒子率いる人生座で大泉黒石「天草四郎」を演じるために女優を募集した[233]。6月、「天狗にならうか?─人間廃業の四」(中央公論)発表。9月、『預言』(雄文堂出版、『大宇宙の黙示』の改題)、『人間廃業』(文録社)刊行。同月下旬、「府下下落合二丁目七四四」に転居[234]。家賃が月五十円で「構えとしては可成りのもので、書生が二、三人いつも家にいた」[235]。家の前に出口王仁三郎の邸宅があった[236]。11月と12月に「由井正雪は松平定信である」(中央公論)発表。12月3日、中央公論社を訪ねて「食わずに生きる法」の原稿を持ち込み、150円の原稿料を得た[237]。27日、中央公論社を訪ねて木佐木や高野敬録ら編集者達と雑談[238]。木佐木曰く「黒石先生も近ごろふとごろ具合が好いと見えて、(…)今日は新調のおめしの着物をぞろりと着込んで」いた。おそらく冬頃、『週刊朝日』の依頼を受け、原稿を持参した際、『週刊朝日』編集長の翁久允と知り合った[239]。
◇渡辺氏宅での間借りについて
昭和期の一時期、大泉一家は「東京府下北豊島郡長崎村字西向二七八九」にある渡辺家(東京外国語大学の元教授である渡辺雅司氏の父)の「三畳の食堂と台所、それに縁側のついた六畳間しかない」「独立家屋」に間借りしていたという[240]。ただし、「昭和のはじめ」[241]や「昭和四年から数年間」[242]等、渡辺氏の記述では時期が一定しておらず、年譜に書き入れることが難しかったため、さしあたりここに書いた。
昭和二年(1927) 34歳
この年、三女の澧(れい)が誕生[243]。1月、「食はずに生きる法」(中央公論)発表。4月1日から7日にかけて、京橋際に開店した居酒屋「バッカス」にて「文壇酒豪家諸家」を歓迎する「バッカス祭」が開かれ、その余興として黒石は裸踊りをしたようだ[244]。夏の一時期、館山で避暑[245]。6月15日、大泉家で『象徴』同人の「原稿朗読批判会」が行われた(6月以前以後の月も行われていたようだ)[246]。7月、第六小説集『怪奇小説集 眼を捜して歩く男』(騒人社書局)刊行。同月7日、夜に飯田町駅から深夜列車で塩尻駅へ向かう[247]。翌朝9時に到着、乗り換えて中津川駅まで行くつもりだったが、車内で会話していた老人に勧められるままに午前11時頃木曽福島駅で下車。老人に土地の歴史を聞きつつ風物を見てから駅へ引き返し、午後1時49分発の電車に乗って中津川駅まで行く。午後3時過ぎに中津川駅に到着、峡谷遊覧の屋形船で恵那峡の見物をした。この後、乗合自動車に乗って大井町駅まで行き、ここから電車で新愛知新聞社の尾池義雄との用事のために名古屋へ向かった。8月、大泉黒石監修の「新浪漫派文芸雑誌」、『象徴』が創刊された。大泉氵顕「大泉黒石伝」によると、当時住み込んでいた書生や出入りしていた文学青年が「黒石が担いで(…)出すことになった」ものだった[248]。大泉家の二階の大部屋が編集室に充てられた。広告は全てミヨが地道に得たものだった。横須賀(民友新報社編輯局)と気仙沼(菅野千介)に支部があった[249]。この頃、「児童映画」の制作に携わっていたようだ[250]。秋頃、向島日活の「脚本部長」として藤原啓と共に会社に隠れてドイツ表現派映画「夕映え」風の脚本を書き、撮影をしたが(主役=鈴木伝明)、試写の段階で幹部に上映を断られた(これを機に藤原は退社)[251]。9月、『象徴』第二号刊行。同月6日午後、中央公論社を訪れて「人買船」の原稿を持ち込む[252]。黒石は「この前社へ現れたとき[昨年12月27日]とは打って変った尾羽打ち枯らした風体だった」。応対した木佐木は気が進まなかったが、「このまま黒石氏を追い返すに忍びないような気がして、とにかく原稿だけ預かることにして、原稿料は相談しておくと言って」黒石を帰した。9月上旬、『象徴』同人らによる「文芸講演旅行」が計画されていたが、実行されたか不明[253]。10月、『象徴』第三号刊行。11月、「人買船」(中央公論、1月号の「唐人殺し」と合わせて後に「六神丸奇譚」と改題)発表。22日、江口渙に書簡を送付[254]。これによると、この時「府下下落合七三二」に住んでいた(前年9月に移り住んだ「府下下落合二丁目七四四」から転居したか)。12月、『象徴』第四号刊行。同月、「シャール・クートレー氏の東京歓迎会」が「九段の暁星」で行われた際、海星学園の同窓生として参加[255]。
昭和三年(1928) 35歳
この年、新島栄治が古本屋を開店するにあたってカンパを集めた際、「十口」にあたる五十円を寄付した[256]。春、長男の淳が中学受験に失敗したが、黒石の鎮西学院中学時代の教師が青山学院にいたため、黒石の世話で淳は青山学院に入学した[257]。淳の入学に際して、「膨大な蔵書を古本屋に売り払って入学金と授業料に当て」た。1月、『象徴』第五号刊行。これが事実上の最終号になった。ほとんど収益を得られず、借金だけが残ったという[258]。同月、「唐人殺し」(中央公論、「人買船」と併せて後に「六神丸奇譚」に改題)発表。これが『中央公論』に掲載された最後の作品となった。5月、『怪奇小説集 眼を捜して歩く男』(昭和大衆文芸全集第三巻、第一出版協会)刊行(内容は前年発表の同名小説集と同じ)。6月7日、添田知道に書簡を送付[259]。遅くともこの日までに「市外高田町雑司ヶ谷六七九」に転居[260]。本立寺の門前だった[261]。同月9日、翁久允が企画した黒部・宇奈月旅行に出発[262]。同行者は麻生豊、翁、竹久夢二、堤寒三、永田衡吉、福田正夫。当日夕方、一行は上野駅から夜行列車で富山県の三日市駅に向けて出発。10日、三日市駅で黒部鉄道の大澤光義氏と市川氏の出迎えを受け、電車で宇奈月駅まで行く。宇奈月に到着後、「延対寺荘」に滞在。午前9時に竹久夢二、富山市主事の竹島氏、宇奈月駅駅長、三日市駅長の中山鉄治郎氏、黒部鉄道の「背広氏」、富山タイムスの高井氏らが加わって出発。トロッコで宇奈月駅から猫又駅まで行く。ここから鐘釣温泉まで歩いた。鐘釣温泉で二三時間休憩した後、「延対寺荘」に戻ってここに一泊、夜は宴会をしたようだ。翌日は「富山ホテル」で一泊。18日、報知新聞社講堂にて行われた「ユウモアの夕 現代ユウモア全集発刊記念講演会」で講演[263]。25日、福田正夫に『婦人公論』の紀行文に関する書簡を送付[264]。27日、発起人の一人として豊田豊『現代画壇の巨匠』出版記念会に参加[265]。7月9日から金龍館に出演することになった正岡容を後援[266]。23日、内幸町の「レインボー・グリル」で行われた翁久允『道なき道』『宇宙人は語る』出版記念会に参加[267]。この時、テーブルスピーチも行った[268]。銀座のタイガーで行われた二次会にも参加。31日、足立直郎、永田衡吉、福田正夫、水木伸一と共に宇和島運輸会社の招待による伊予旅行へ行く予定だったが、黒石は「出立の間際になって病気欠席の通知を飛して」参加しなかった[269]。8月16日、福田正夫に11月の日光旅行に関する書簡を送付[270](「福田正夫宛書簡の謎」参照)。9月4日、四女の淵(えん)が誕生[271]。11月10日午後2時、上野駅から日光・鬼怒川温泉旅行へ出発[272]。同行者は麻生豊、翁久允、竹久夢二、堤寒三、福田正夫、福田蘭童、藤田健次[273]。この日は日光の「金谷ホテル」に宿泊。11日正午頃、金谷ホテルの車に分乗して日光東照宮や鬼怒川渓谷の風物を観光。鬼怒川温泉駅で下車して下瀧温泉「麻屋」まで歩いて行った。ここで「下野電鉄今市営業所長」金子留吉に出迎えられた。食事や千人風呂での入浴を済ませた後、夜に電車で今市へ戻った。おそらくこの日も金谷ホテルに宿泊。翌日、金谷ホテルの車に分乗して、中禅寺湖畔を通り、戦場ヶ原周辺で降りた。ここから徒歩で、湯滝、湯ノ湖畔を通り、昼頃に「板屋旅館」に到着。しばらくここでくつろぐ。この夜、一行は講演会のために自動車で宇都宮へ行った。宇都宮に到着すると、黒石が終始嘲笑的な態度で接してきたことに腹を立てていた堤寒三は講演をせずに一人で帰ることを決め、去り際に黒石を張り飛ばしていった[274]。この後、宇都宮にある新聞社(おそらく下野新聞社)で講演会が行われたが、二人の喧嘩にうんざりしていた麻生と翁はこっそりと抜け出して、それきり戻らなかった。この後、結果的に麻生、翁、寒三らと別れた彼ら(黒石、夢二、正夫、蘭童、健次)は予定通り福渡温泉「和泉屋旅館」へ赴き、午後10過ぎに到着(主人の泉漾太郎は当館の若主人で、野口雨情に師事した詩人)。翌日、馬車に乗って箒川渓谷、塩釜温泉周辺の高尾太夫の旧跡、普門ヶ淵、妙雲寺、木の葉化石園、源三窟、「片葉の蘆」、『金色夜叉』の旅館(清琴楼)等を巡り、「和泉屋旅館」に戻った。11月23日、福田正夫に書簡を送付[275]。これによると、「明後日」名古屋へ出かけるという。
◇福田正夫宛書簡の謎
上述の日光・鬼怒川渓谷旅行について、黒石や同行者の紀行文には行われた年が記載されていない。そのため、1928年という年については長崎県立長崎図書館郷土資料センター所蔵の福田正夫に宛てられた黒石の書簡に拠っている。この書簡には旅行の行程や同行者が書かれているが、その内容は黒石の「関東耶馬渓 鬼怒渓谷」「箒川渓谷」の記述と完全に一致している。したがって、この書簡は「関東耶馬渓 鬼怒渓谷」「箒川渓谷」の紀行の打ち合わせをしているものと考えられる。この書簡の封書の消印は昭和3年8月16日となっているため、この紀行も1928年の11月に行われたと推測できる。消印の年月日は一応私自身も現物で確認しているうえ、改めて長崎県立長崎図書館郷土資料センターに問い合わせたところ、やはり間違いなかった。
念のため、別の資料からも考えておく。黒石がこの紀行を描いた「関東耶馬渓 鬼怒渓谷」「箒川渓谷」は昭和四(1929)年7月(8月と手書きで訂正されているものもある)印刷発行の『峡谷を探ぐる』に収録されているため、同紀行は少なくとも1929年以前の年に行われたことが分かる(11月の紀行であるため)。さらに、同行者の紀行文は1929年11月発行の『現代』10巻11号に「紅葉を尋ねて」(竹久夢二「日光へ」、藤田健次「塩原の峡谷」、翁久允「大谷川のほとり」、福田正夫「湯元まで」)として掲載されているが、本号の印刷日は10月15日であるため、ここからも同紀行が1929年よりも前の年に行われたことが分かる[276]。また、翁久允は1933年12月に発表された随筆で同紀行について「四五年前」の事と語っている[277]。これを信じれば1929年か1928年ということになるが、黒石とその同行者の紀行文の発表時期から考えれば、やはりこの紀行は1928年に行われたということになる。
ところが、以上の福田正夫宛書簡と全く同内容の書簡について、由良君美氏の「黒石の縁」では「昭和六年十一月四日」のものとされている[278]。しかしこの紀行が「昭和六年」ではありえないことは上述の通りである。もしや、と思って由良氏が同文章で引いている泉漾太郎の文章を読んでみると、やはりここで昭和六年のこととされていた[279]。これが泉の記憶違いなのか、昭和六年にも同様の旅行があったのかは分からない。この記述のために由良氏は書簡の年を「昭和六年」とされたのだと考えられるが、「十一月四日」とされているのはやはり謎のままである。
昭和四年(1929) 36歳
この年、黒石の世話で川原毅が「大泉浩治」として日活太秦撮影所に入社した(後に「大泉慶二」「大泉慶治」「加原武門」と芸名を変更)[280]。1月、『現代ユウモア全集第十巻 大泉黒石集 当世浮世大学』(現代ユウモア全集刊行会)刊行。同月1日、添田知道に年賀状を送付[281]。正月頃、霜田史光、白鳥省吾、水木伸一と共に川原湯温泉「敬業館」へ行く予定であったが、「家事の都合で行けなかった」[282]。旅行へ行った彼らからは寄書きをした絵葉書が送付された。12日、福井県の民俗学者島田静雄に俳句を書いた葉書を送付[283]。3月23日、高崎での講演旅行へ出発[284]。麻生豊、翁久允、鈴木氏亨、藤田健次、三上於菟吉、水木伸一、安成二郎、吉井勇らは先に伊香保温泉「岸権旅館」に到着、さらに別の宿から森川憲之助も合流し、午後8時より町長まで参加した盛大な宴会が行われた。黒石は上野を午後5時に出発し、「宴終るころ」に到着。24日、自動車で高崎へ向かい、午後2時半に高崎市公会堂に到着、ここで文芸講演会が開かれた。初めに黒石が「東西文学論」を話した(他、夢二、麻生、安成、吉井、三上、翁、直木らが講演。ただし直木三十五が遅れて到着したために十分ほど黒石が穴埋めをした)。この後、一行は高崎市教育会長の櫻井伊兵衛に招かれて慰労歓迎会に参加。翌日、黒石、麻生、藤田、森川、安成の五人で山を散策。午後6時19分渋川発の電車で帰京(安成によると、森川は法師温泉へ行ったため、この時間の電車で帰ったのは安成含む「四人」だという。おそらく黒石、麻生、藤田、安成だろう)。26日付で黒石、麻生、竹久、森川、安成の寄書きがある葉書が伊香保温泉から藤田健次に送付されているが、これは25日の遅い時間に投函したか、旅館の者が代理で投函したと考えるべきだろう[285]。5月、高田町会選挙の際、「雑司ヶ谷有志」の一人として「俵次雄推薦状」に名を連ねた[286]。同月4日午前11時、上野駅より、麻生豊、翁久允、加藤朝鳥、竹久夢二、藤田健次、水木伸一、安成二郎と共に草津・戸倉温泉旅行に出発[287]。高崎駅で乗り換えの際、櫻井伊兵衛も合流。渋川駅で下車、一行は自動車に乗り換え、中之条町へ向かった。途中、長野原にて「一行を草津へ招いてくれた温泉町の有志」達の出迎えをうけ、休憩[288]。その後、彼らと共に草津温泉へ向かった。草津では前草津町長・細野停、町長・山本与平次、望雲館主人・黒岩忠四郎、草津旅館組合副組合長・野口袈裟雄らに出迎えられた。料亭にて深夜まで歓迎会が行われた。この日は「大東館」に宿泊。5日、時間湯、西の河原等を見物した後、午後1時半頃に「草津軽便鉄道」に乗り、戸倉へ向かった。軽井沢で乗り換え、午後8時に戸倉に到着。この日は「笹屋ホテル」に宿泊。6日、朝に麻生と翁は帰京、朝鳥も長野へ出かけた。村の青年団と処女会から講演の申し出があったため、これを承けてもう一泊することにした。昼間は千曲川を散歩。この夜、地元の小学校の裁縫室にて講演会「座談の夕」が行われた(観客は「二百数十名」)。竹久、安成、水木、藤田らが講演をした後、最後に黒石は「食人種の話」をした。翌日、帰京の途次に小諸駅で下車して懐古園を訪ね、藤村の詩碑を見る。午後四時に小諸を発った。7月、『峡谷を探ぐる』(春陽堂)刊行。8月頃、上高地へ赴く[289]。午前7時35分松本駅発の電車で島々まで行く。ここからトロッコの軌道を徒歩で登り、岩魚止(岩魚留)の茶屋で休憩して、徳本峠を経て上高地に到着。宮川池(明神池)、穂高神社奥宮、田代池、大正池等を見物し、この日は「清水屋旅館」に宿泊。翌日は白骨温泉を訪れた。帰りは奈川渡、稲核を経て島々まで降りたようだ。9月、第七小説集『趣怪綺談 燈を消すな』(大阪屋号書店)刊行。晩秋、泉漾太郎に招かれて、水木伸一、早田廣と共に福渡温泉「和泉屋旅館」、塩原温泉「玉屋旅館」を訪れた[290]。12月28日、長野県飯田市上小伝馬町にいた田中幸雄(詩人)らを訪ねる[291]。ここに来るまでに大阪朝日新聞社、京都太秦の日活撮影所(亀原嘉明[292]、山本嘉一、横山運平らと会う)、名古屋、木曽路、塩尻、辰野などを経てきたという。29日、旧知の「東京朝日支局」の桑原碩郎と出会い、彼の勧めで翌日は運搬用の索道の上から雪見をすることになった。30日、飯田砂払周辺の索道会社へ赴き、まずは経験者の桑原と写真家藤井紫苑が先に索道へ乗った後、後から黒石も一人で索道に乗り込んだ。終点に着く前に索道が数分間停止し、黒石は空中でなすすべもなく極寒にふるえたが、無事復旧して事なきを得た。その後、田中幸雄と天龍峡に遊んだ。
◇最後の長崎行?──『峡谷を探ぐる』の「峡谷瀞八丁」について
1929年7月(8月と手書きで訂正されているものもある)印刷発行の『峡谷を探ぐる』(春陽堂)に収録された「峡谷瀞八丁」という紀行文によると、「九州長崎より帰京の途上」に「大阪に一泊」、大阪毎日新聞社の「稲田氏」を訪ねた後、「紀州の峡谷瀞八丁」に遊んだという。
さらりと書いてあるが、私の知る限りでは、これが記録としては最後の長崎への帰郷である。もちろん、文章にはせずとも帰郷はしていたのかもしれないが、少なくともこれ以降に長崎へ帰ったという記述は見当たらない。
ところが、「峡谷瀞八丁」の紀行が何年のことであったかという肝心なことが本文からは分からない。『峡谷を探ぐる』序文によると、本書に収録された文章の一部には既出のものが含まれているようだが、「峡谷瀞八丁」が既出なのか、書下ろしであるのか、これも未詳である。
昭和五年(1930) 37歳
この年、林芙美子と知り合ったという説あり[293]。1月、『読心術』(萬里閣書房)刊行(代作という説あり[294])。また『峡谷と温泉』(二松堂書店)に1月に発行された版があるようだが、筆者は未確認[295]。同月1日、松本へ向かったが、訪ねる予定であった者は二日間留守にしていたため、懇意の西堀新聞舗や藤原鎌兄(超然)を訪ねた[296](あるいは諏訪湖、天龍峡、大町、「白馬岳登口四屋」を経て松本へ来た[297])。3日、浅間温泉「つたの湯」若主人と共に信濃大町から白馬岳山麓の四屋(四ツ谷)へ向かった(あるいはこの夜に浅間温泉「つたの湯」に宿泊、ここで上高地登山の相談をしたが引き止められ、帰京)。11日、添田知道に年賀状を送付[298]。これによると、この日までに帰京。春頃、「信州上田から上州国境の鳥居峠を越えて、吾妻川源流に沿いつつ(…)古永井部落まで下」った[299](なお鳥居峠には黒石が「鶯茶屋」と名付けた山小屋があったという[300]。建設時期は不明)。3月26日、直木三十五、水木伸一、吉井勇らと共に南予旅行へ行く予定であったが、おそらく行かなかった[301]。6月、『峡谷と温泉』(二松堂書店)刊行。同月中旬、信州へ向かう[302]。26日、「上信国境鳥居峠を越えて、吾妻入り」した[303]。27日、草津温泉から常(じょう)布(ふ)の滝付近まで登山。28日午前9時、草津温泉から白砂川渓谷を目指して出発。同行者は「吾妻温泉保勝会の草津温泉細野館主」細野停、「草津館主」山口茂三郎、「草津の写真師」武藤小雨。途中、「花敷温泉の古老」で「関晴館」主人の関久四郎が合流。谷沢原、「薬缶落し」等を経て「関晴館」のある花敷温泉に到着。温泉に暖まり、「開運橋」等へ行く。谷川の増水のため渓谷の奥を究めることは諦め、暮坂峠を越えて沢渡温泉へ行くことになった。雨のなか傘をさしながらの下山[304]。暮坂峠で関老人と別れた。大岩集落を経て沢渡温泉「丸本旅館」に宿泊[305]。29日、バスで中之条町の「群馬自動車会社」まで行く。細野の引き合わせでこの会社の蟻川潔、また「上州の郷土史研究家」萩原秋水に紹介され、料亭「竹のや」で食事をした。この日、湯檜曽温泉「本家旅館」に宿泊[306]。7月1日午前10時、奥利根渓谷の「年に僅か十幾人の学生登行者しかもっていないという未開原始の水源地帯」を目指して湯檜曾温泉から出発[307]。同行者は「鹿野沢温泉開拓者」の国峰栄一、木村千秋、「上越アルプス登山相談所開設者」林孝一郎、「水上駅前栃木屋」落合房次。「思い出の水」(黒石命名[308])、大倉峡、藤原村、寶川温泉「汪泉館」、須田貝を経て、夜に湯ノ小屋温泉に到着(湯ノ小屋の「千代の松」も黒石が命名したもの[309])。翌日以降も山行は続いた。20日、湯檜曾温泉「林屋旅館」から西黒沢新道での谷川岳登山に出発[310]。同行者は国峰栄一、木村千秋、東京商科大学生の江田三郎(後に政治家[311])、田中祐三、慶応大学生の竹村二郎、林屋旅館主人の弟、落合房次、猟犬エス。また、「本家旅館」から出発する本家旅館主人阿部一美、上越アルプス登山相談所の林孝一郎ら七人のグループとも合流。清水トンネル南口から蛇淵の滝を経て西黒沢新道へ。途中でガスから雨となり、西黒沢が二股に分かれる地点にあった無人の山小屋で休憩。土砂降りになったため、黒石含む林屋旅館組は下山することになった(本家旅館組は山小屋で待機)。濁流によって行く手を阻まれた彼らは「谷川岳東南の三角点(四千八百尺)の大尾根の裾」を伝って下山することになった(エスは流されてしまった)。途中、黒石は転倒し肋骨をひどく打ちつけ、失神したが、数分後に目を覚ました(肋骨にはヒビが入った)。一行は猟犬の犠牲の他は無事に下山できた(本家旅館組も翌日無事下山)。翌日、黒石達は「谷川口を根拠地とすべく」谷川温泉「谷川館」に宿泊。この後、7月中に「高崎市教育会長」櫻井伊兵衛、「上信電鉄会社」小島茂八郎と共に荒船山登山[312]。高崎駅から「『はねこし』の夏季停留場」まで電車に乗り、ここから徒歩で鏑川渓谷のはねこし峡や蝉の渓谷を観た後、星尾集落で農夫の市川福松を案内役として雇い、線ケ滝、田口峠を経て荒船山に登頂。その後下仁田へ行った。8月28日(あるいは29日[313])、富士館で封切された映画「女盗伝」(制作=日活太秦撮影所、監督=三枝源次郎、原作=伊藤和夫[314])の原作が黒石によるものだという説がある[315]。秋頃、谷川温泉「金盛館」から「百姓の熊太郎爺さん」と共に奥谷川渓谷へ行く[316]。細芝沢とオジカ沢の合流点まで行き、雄鹿滝を過ぎて「三角点(五千尺)を正東に望むところ」まで登り、引き返した。同じく秋頃、三国峠付近の大般若塚から法師温泉へ下り、上京[317]。東京で「久しく逢わなかった田中貢太郎翁」と再会、田中に連れられて西銀座の料亭「可川」に入り、鈴木厚、坂井徳三も加わって飲んだ。9月中旬、谷川温泉あるいは法師温泉にて綿貫六助と居合わせ、共に川場村の小野忠孝(おの・ちゅうこう)を訪れて、当地の「都旅館」に宿泊[318]。同月末頃、丸沼や片品川上流周辺を散策した後、吹割の滝、川場温泉へ行った(「『紅葉の中をゆく ─片品川渓谷─』について」参照)。10月、高師講堂にて行われた「東京高師文芸講演会」で講演[319]。11月14日あるいは15日、「上野駅から後閑に着いて月夜野に入り、村の郵便局長後閑氏に所用あって」郵便局まで赴いたところ(あるいは月夜野の旅館で綿貫六助や岸大洞らと晩酌をした後、湯宿温泉へ一人で向かっていたところ)、警察に不審者と勘違いされて沼田警察署に連行された[320]。翌日に解放されて湯宿温泉で「民政系旅館」(金田屋[321])に投じたが、「政友系の隣家」(湯元館)にもてなされたことが露見して追出されたため、湯宿湯元館主人の岡田作夫等の世話で法師温泉「長壽館」へ転宿[322]。翌日、初雪に興が乗って番頭の富沢と猟犬マル公と共に登山。法師川に沿って登り、地獄谷で別れ、旧三国街道を登って三国峠に到着。三国権現で休憩した後、三国山を目指したが、吹雪が迫ってきたことや眼鏡の故障のために下山。この後、谷川温泉へ行ったようだ[323]。冬頃、「奥上州の北隅にある三国山脈東麓の百姓家」に滞在していたようだ[324]。
◇「紅葉の中をゆく ─片品川渓谷─」について
1930年10月11日から14日にかけて『都新聞』に連載され、後に『山の人生』に収録された大泉黒石「紅葉の中を行く─片品川渓谷」を要約すると、次のようになる。9月26日、「その旅の途上で知合になった紳士T氏」(土地の人)と共に「丸沼の北八丁、湯沢の湯煙る舎」に宿泊。翌日、T氏と共に白根温泉を目指して下山。追貝集落に入り、屏風岩に対する「清瀧閣」で休憩。吹割の滝の見物や、「前の村長永井翁」らと食事をとる。その後、T氏と共に栗原峠を経て川場温泉へ向かった。この夜、黒石は「武尊山麓白澤村の若き南画家岸龍水氏」の家に泊まった。
一方、「黒石廻廊 大泉黒石全集書報 No.8」に掲載された 岸大洞「巡査と雪まみれの組打ちとなった大泉黒石」には、次のようなことが書かれている。「私が利根郡白沢村の生家で絵を書き、郷土史研究をしていたころの昭和五年九月二十六日」、小野忠孝(おの・ちゅうこう)宅へ行くと、黒石と「塚越某」に行き会った。この夜、二人は岸の家に泊まった。翌日は「川場温泉の都旅館」に黒石と共に一泊。28日午前、黒石と共に沼田へ向かい、黒石は「午後四時三十二分発の上り列車」に乗っていった。その後黒石は「奥日光丸沼の奥の温泉へ行き、その紀行文を都新聞に連載し、郵送してくれた」という。
このように両作品には同じ時期のことを書かれているのだが、その順序が正反対になっている。黒石の文章に登場する「岸龍水」が岸大洞であること、「T氏」が「塚越某」らしいことは分かるが、その他のことについてはどちらが正しいのか今のところ判断ができない。
なお、岸によると黒石は「私の実家へもよく泊った。」また、岸も「東京目白の鶉山」の大泉家を「二、三回訪ねた」という[325]。
[1] 王汗吾、吴明堂「第三章 各成体系的市政建设」『汉口五国租界』武汉出版社、2017年、85頁。同著はインターネットでも閲覧可能(http://www.whcbs.com/Upload/BookReadFile/202004/c0
20dd817d274b44bee1d25f14614edc/OPS/chapter003.html)。最終閲覧2024年4月2日。
[2] 由良君美「黒石の生没年確定について」、「黒石廻廊 大泉黒石全集書報No.5」大泉黒石全集刊行会、1988年、7頁。大泉滉氏が取得した戸籍謄本に拠る。ところで、黒石は『俺の自叙伝』等において八幡神社境内で生まれたと述べているが、確かに現在の宮地嶽八幡神社の住所も「長崎県長崎市八幡町8-6」であるため、清の出生地が境内であった可能性はある。
[3] アレクサンドルに関しては二つの研究があり、情報にやや食い違いがある。いずれが事実であるか判断が困難であるため、両方の情報を併記した。①:В.Г. Шаронова「漢口におけるロシア人外交官:アレクサンドル・ステパノヴィチ・ワホーヴィチРусские дипломаты в Ханькоу: Александр Степанович Вахович」『今日における祖国史・史料研究・古文書学の諸問題:ポクロフスキー卒寿記念のためにАКТУАЛЬНЫЕ ПРОБЛЕМЫ ОТЕЧЕСТВЕННОЙ ИСТОРИИ, ИСТОЧНИКОВЕДЕНИЯ И АРХЕОГРАФИИ: К 90-ЛЕТИЮ Н.Н. ПОКРОВСКОГО』ロシア科学アカデミーシベリア支部歴史研究所Институт истории СО РАН、2020年、405-420頁。②:ビターリー・グザーノフ(左近毅訳)「私のからだには二つの血が…В жилах моих текут две кров」『窓』99号、ナウカ、1996年、40-47頁。初出『Япония сегодня』、1986年4月号。
[4] 中本信幸(小石吉彦訳)「トルストイと老子──日本におけるトルストイ思想の継承者」神奈川大学人文学研究所編『グローバル化の中の日本文化』(神奈川大学人文学研究叢書30)御茶の水書房、2012年、107頁。
[5] ケイは清を産んだ1893年に亡くなったことになっており、没年は『俺の自叙伝』(全集3頁、文庫12頁)では16歳、「放浪の半生 (文壇数奇伝―その一―)」(『文章倶楽部』7巻2号、新潮社、1922年、28頁)では17歳。数え年で計算した場合、1877年か1878年ということになる。
[6] 私の知る限りでケイに関して最も詳しく語られている文章は、大泉黒石「露西亜人を父に持ち日本人を母に持った 混血児の偽らざる告白」『婦人世界』15巻1号、実業之日本社、1920年、59-63頁。この段落においてケイに関する情報は基本的にこの資料による。
[7] 『俺の自叙伝』(全集32頁、文庫52頁)に「片目の祖母」とある。大谷清水『午』(日吉堂本店、1917年、5頁)にも「片盲目の老祖母」とある。
[8] 大泉黒石「露西亜人を父に持ち日本人を母に持った 混血児の偽らざる告白」『婦人世界』15巻1号、62頁。
[9] ビターリー・グザーノフ(左近毅訳)「私のからだには二つの血が…В жилах моих текут две кров」『窓』99号、44頁。『俺の自叙伝』にも同様のエピソードあり(全集4頁、文庫13-14頁)。
[10] 「現代婦人録」『女性日本人』4巻1号、政教社、1923年、附録6頁。大阪毎日新聞社編『大正十二年度 婦人宝鑑』大阪毎日新聞社、1923年、602頁。
[11] 大泉氵顕「大泉ミヨ伝」『赤い泥鰌』(私家版)、大泉初枝発行、1984年、54頁。これによると1966年に71歳で亡くなったことになっているが、これは1897年に生まれたという記述と矛盾する。なお、1933年の年賀状(添田知道宛。神奈川近代文学館所蔵、特別資料)によると、この時38歳だった。これを信じれば、1896年生まれかつ数え年で数えた場合のみ38歳になるため(1896年生まれ満年齢、1897年満年齢・数え年で計算すると1933年1月の時点で38歳にならない)、ケイが生まれたのは1896年であったと推測できる。
[12] 全集137頁、文庫190-191頁。
[13] 大泉黒石「俺の落書 『少年時代にかいた絵』と『自讃』」『雄弁』11巻2号、大日本雄弁会、1920年、320頁。
[14] ミヨ及び高西(福原)家に関して最も詳しく語られているのは大泉氵顕「大泉ミヨ伝」『赤い泥鰌』54-56頁。この段落においてミヨ・高西(福原)家に関する情報は基本的にこの資料による。
[15] 黒石はいくつかの文章で別れた時期について語っているが、「八つの歳」(俺の自叙伝)、「五歳」(「俺の落書「少年時代に書いた絵」と「自讃」」『雄弁』11巻2号、320頁)など、一貫性がない。
[16] 「桜の馬場の小学校」は『俺の自叙伝』による(全集7-8頁、文庫18頁)。長崎にはかつて「桜馬場小学校」があったが、清が小学校に通う時期には現「西山町3丁目42番号」に移転して「上長崎尋常小学校」と改称していた(現=長崎市立上長崎小学校)。清が通ったのはこの小学校かもしれない。「長崎市立上長崎小学校 沿革史」(https://www.nagasaki-city.ed.jp/kaminagasaki-e/h
istory/)、最終閲覧2024年4月2日。
[17] 大泉黒石「妖画帳」(『現代』1巻3号、大日本雄弁会、1920年、168頁)によると、黒石が生まれてから「七年ばかり経つと私の伯母(母の姉)が病気で死んだ。私はこの家[八幡町]で八つまで育てられた。後に生き残っている家族の人数を清算して見たら私を加えてたった三人[清、祖母、曾祖母]になっていたから、この家では、ちと広すぎるし、それに家賃が高いと云うので、今度はぐっと場末の西山と云う田舎町の片ほとりに引越して、邪魔にならなくても余計な物はどんどん売って了った調子に乗って私が頼りにしている曾祖母までが死んで了ったから驚いた。彼女は八十四だった。」という。生まれてから「七年ばかり」と「八つまで育てられた」は同一の時点から数えられているようなので、「八つ」というのは数え年であると考えられ、1893年から7年後の1900年に伯母が亡くなったと推測できる。
[18] 大泉黒石「漫画漫文 伯母の印象」『現代』3巻1号、1922年、213頁。「ゑい子は(…)病気ばかりして困ったそうだ。その通り私の知る限りに於て彼女は病気ばかりしていた。自分の妹が死ぬ頃から寝ていたそうだ。彼女にはそれだから夫も何もなかった。昔あったかどうだか知らないけれども、死ぬまで独身だった。いつも寝床の中から、骨ばかりの手を、ひょろひょろと差しのべて私の頭を撫でていたことを思い出す。その時分私はこの町の小学校へ入ったばかりで学校の月謝が五銭だったせいかどうだか知らないが、女の教師が出て来て歌ばかり教えていた。覚えた歌を持って帰って、この病身の伯母の前で、一通りおさらいをする規則になっていた。旨く忘れずに歌えたら、例のひょろ長い色の褪めた手が寝床の中から現われて私に菓子を呉れる規則であった。だから精出して私は歌の勉強をやることに熱心であった(…)私が彼女の枕もとで歌を唄うと、彼女は非常によろこんだ。」なお、前註も含め同様のことは『俺の自叙伝』にも書いてある(全集7頁、文庫17-18頁)。
[19] В.Г. Шаронова「Русские дипломаты в Ханькоу: Александр Степанович Вахович」『АКТУАЛЬНЫЕ ПРОБЛЕМЫ ОТЕЧЕСТВЕННОЙ ИСТОРИИ, ИСТОЧНИКОВЕДЕНИЯ И АРХЕОГРАФИИ: К 90-ЛЕТИЮ Н.Н. ПОКРОВСКОГО』418頁。
[20] 大泉黒石「山小屋」「黒石廻廊 大泉黒石全集書報No.6」大泉黒石全集刊行会、1988年、1-3頁。初出『みづおと』35号、水音社、1955年。
[21] 『俺の自叙伝』、および「玄界灘の暴風雨(早崎海峡にて)〔六〕」『読売新聞』朝刊、読売新聞社、1921年7月25日、7頁など。
[22] 大泉黒石「戯づら書き」『現代』1巻2号、1920年、91頁。「睡れる少女の顔」という絵の中に、小さいうえに掠れているが、「1910」と読める文字がある。説明文から夏頃に描いた絵であることが分かる。
[23] 大泉黒石「戯づら書き」『現代』1巻2号、94頁。「露西亜の女」という絵の中に「1911」と書いてあり、説明文に「西伯利亜の淋しい村」「初夏の景色」とある。
[24] 大泉黒石「露西亜寺院と親爺の墓」『雄弁』11巻6号、198-199頁。絵の中に「1912」「浦汐郊外」「寒いゝ」などと書いてある。
[25] 宮川伊喜松編『海星同窓會々員名簿』(海星同窓会、1949年、26頁)に海星商業学校「第八回(明治四十五年)」の卒業生の一人として「大泉清」と書かれている。また新名規明『長崎偉人伝 永見徳太郎』(長崎文献社、2019年、46-47頁)によると、海星同窓会々報『窓の星』第十四号(昭和2年12月10日)掲載の豊島晴利「長崎のちゃんぽん」や海星同窓会々報第三十号(昭和12年12月25日)に海星出身者として大泉黒石の名前が挙がっているという。さらに、大谷清水『午』の「午の生い立ち」にも海星時代のことを書いたと思しき部分がある。以上から、彼が海星商業学校に通っていたことは確実である。
[26] 中学生の頃に祖母と二人で伊良林に住んでいたということは、大泉黒石「放浪の半生 (文壇数奇伝―その一―)」(『文章倶楽部』7巻2号、29頁)や「帰郷記の断章」(『表現』2巻5号、表現社京都局、1922年、161-162頁)にも書かれている。
[27] 大泉黒石「ひとりごと」『騒人』3巻4号、騒人出版局、1928年、123-124頁。
[28] 『女性日本人』4巻1号、政教社、1923年、附録6頁、および大阪毎日新聞社編『大正十二年度 婦人宝鑑』大阪毎日新聞社、1923年、602頁。翌年7月に第一子が生まれたことを考えれば、妥当だろう。
[29] 丘の蛙『一高三高学生生活 寮のささやき』磯部甲陽堂、1916年、はしがき。大谷清水『午』日吉堂本店、1917年、13頁。大泉黒石『俺の自叙伝』全集235頁、文庫325-326頁。「放浪の半生 (文壇数奇伝─その一─)」『文章倶楽部』7巻2号、29-30頁。
[30] 受験のスケジュールは『官報』第525号(1914年5月1日、33頁)による。
[31] 志村有弘「大泉黒石の文学と周辺」『近代作家と古典 ──歴史文学の展開──』笠間書院、1977年、262頁。『人事興信録 第25版 上』人事興信所、1969年、お109頁。
[32] 第三高等学校編『第三高等学校一覧 大正三年九月起大正四年八月止』第三高等学校、出版年月不明、229頁。
[33] 「入学許可 第三高等学校…」大蔵省印刷局『官報』第597号、1914年7月27日、712頁。
[34] 大泉小生「三校生活 冬の夜がたり」『中学世界』20巻1号、博文館、1917年、付録26-27頁。
[35] 『第三高等学校一覧 大正四年九月起大正五年八月止』に清の名前はない。
[37] 辻潤「陀々羅行脚」(『絶望の書』万里閣書房、1930年、252-253頁)によると、「彼[黒石]がまだ浅草の山平社時代に、公園でバットの屑を拾い歩いたり、草担ぎをやったり、一山百文のドラマを書いて五九郎に売りつけたりしていた時代からの知己」だったという。清が浅草界隈にいた頃に辻潤と知り合ったということが事実であれば、大泉家は清の一高入学前後に本郷へ転居したはずなので、二人の出会いは1916年9月以前ということになる。
[38] 『実業之世界』13巻13号、実業之世界社、1916年、70-75頁。内容は豚の皮による草履の製造法で、その記述の類似から、この記事は大泉黒石『俺の自叙伝』において『空業之世界』に売ったという「豚の皮で草履をつくる金儲けの法」(全集184-190頁、文庫255-263頁)にあたるのではないかと推測できる。
[39] 受験のスケジュールは『官報』第1127号(1916年5月6日、199頁)による。
[40] 「入学許可 第一、第八両高等学校…」『官報』1199号、1916年7月29日、667頁。第一高等学校編『第一高等学校一覧 自大正五年至六年』第一高等学校、1916年、140頁。
[41] この年の『官報』では合格者は成績順ではなく五十音順で並べられていたようだ。二番の成績で入学したということは山田正一「わが友」(吉田洋一等編『続・科学随筆全集8』学生社、1968年、233頁)による。なお山田によると一番は坂口謹一郎であった。
[42] 大泉黒石「放浪の半生 (文壇数奇伝─その二─)」『文章倶楽部』7巻3号、42頁。
[43] 山田正一「わが友」吉田洋一等編『続・科学随筆全集8』233-234頁。黒石は「私は東京高工を一年半もやって中退している」と言っていたようだが、『東京高等工業学校一覧』と『東京高等工業学校附属職工徒弟学校一覧』の大正元年(1912年3月は長崎にいたことが確認できる)~四年(三高中退後、一高入学前)の生徒名を全て確認した限り「大泉清」は発見できなかった。おそらく三高の工科にいたことを基にした虚言だろう。
[44] 『第一高等学校一覧 自大正六年至七年』に清の名前はない。
[45] 丘の蛙『滑稽俳句 海鼠の舌』国華堂本店、1917年、12頁。なお、大泉黒石「同行三人」(『雄弁』11巻7号、1920年)や、その続編である「諸行無常」(『雄弁』11巻9号。『天女の幻』盛陽堂書店、1931年にも収録)にも駒込に住んだという記述はあるが、この二篇ではすぐに引越したということになっている。
[46] ただし『央州日報』における1918年8月16日から11月8日にかけての「博士になるぞ」連載(全68回)を除く。拙稿「黒石大泉清小伝」の第4章第5節「『博士になるぞ』──『俺の自叙伝』のエクリチュールの萌芽・苦悩の表出」参照。
[47] 大泉黒石「妾の番人」『大泉黒石全集 8 恋を賭ける女』緑書房、1988年、130、137-139頁。
[48] 大泉黒石「煙れる心臓」(『大泉黒石全集 8 恋を賭ける女』169頁)によると「勤め先の風湖堂で西洋物の探偵小説を月に一つずつ出版することになって、その翻訳を月給の二倍にも当たりそうな原稿料で頼まれた」という。
[49] 「大泉氵顕略歴」『赤い泥鰌』222頁。なお、「さんずい」に「顕」という漢字が手持ちの機器では入力できないため、本稿では「氵顕」として表記させていただくことを何卒ご了承いただきたい。
[50] 山川亮「大泉黒石に与う」(『秀才文壇』20巻10号、文光堂、1920年、51-55頁)によると、彼は「君の国の革命が勃発した年の秋」(=1917年秋)に清と知り合ったという。しかし、「その頃の君は長い間の安原稿書から離れて、ハルビンへ行って、また直ぐ帰って来て尾羽打枯らした痩浪人だったぜ」という記述もある(黒石のシベリア行は1918年11月)。大泉黒石「放浪の半生 (文壇数奇伝―その二―)」ではシベリア行以前から「労働文学者」らと知り合っていたとされている。以上から、ここでは1918年秋のシベリア行以前に彼らは出会ったと考えた(「君の国の革命が勃発した年」というのは山川の記憶違いであると判断した)。
[51] 妻のミヨ(志村有弘「大泉黒石の文学と周辺」『近代作家と古典 ──歴史文学の展開──』208頁)や友人の山川亮(「大泉黒石に与う」『秀才文壇』20巻10号、51頁)によると、黒石はシベリアからすぐに帰って来たという。当時の西伯利新聞社社員らによる回想は、寺尾幸夫(玉虫孝五郎)「吹き廻る男」『露支人に伍して』東京寳文館、1926年、125-127頁、および小島七郎「コクセキーの逃亡」『読売新聞』朝刊1928年6月29日、7頁を参照。シベリア行に関しては大泉黒石「東京よりシベリヤへ」「西伯利亜漫筆」『露西亜西伯利 ほろ馬車巡礼』に詳しい(『人生見物』はこの時の体験を基にした虚構だと考えられる)。詳しくは拙稿「大泉黒石の〈シベリア行〉追跡」を参照されたい。
[52] 大泉黒石「諸行無常」『雄弁』11巻9号、1920年、534-567頁(『天女の幻』盛陽堂書店、1931年にも収録)。常盤楽劇団については以下等を参照。松本克平『日本新劇史 ─新劇貧乏物語─』筑摩書房、1966年、334-347頁。堀切直人『浅草 大正篇』右文書院、2005年、126-129、204-206頁。小針侑起『あゝ浅草オペラ 写真でたどる魅惑の「インチキ」歌劇』えにし書房、2016年、105-111頁。菊池清麿「日本オペラ史-浅草オペラ」、ウェブサイト「近代日本流行歌史」(https://www5e.biglobe.ne.jp/spkmas/sub9.html)、最終閲覧2024年4月2日。「よみうり抄」『読売新聞』朝刊、1919年5月17日、7頁や同5月24日、6頁の広告等にも常盤楽劇団の動向が窺える。第一回、第二回公演のパンフレットはウェブサイト「稀覯本の世界」(https://kikoubon.com/tsujishiryou.html)で閲覧可能。最終閲覧2024年4月2日。
[53] 黒石の作品が初めて掲載された『話の世界』(日新閣)の「新刊紹介」(『露西亜西伯利 ほろ馬車巡礼』紹介)によると、「私[『話の世界』編集者]が君の知を得たのは僅に一ヶ月の前であった」という。本号に掲載された「狂中将と大学出の靴屋(露西亜物語)」の末尾に(大正八・六・二十七)と書かれていること、本号の印刷納本日8月14日などを考え合わせると、『話の世界』編集者が黒石と会ったのは6月後半から7月前半だと考えられる。田中や生方に居合わせたのもこの頃だろう。
[54] 田中貢太郎『人情の曲』教文館、1928年、299頁。
[55] 大泉黒石「放浪の半生 (文壇数奇伝─その二─)」『文章倶楽部』7巻3号、44頁。同「刺笑の世界から」、『中央公論』36巻7号、1921年、48頁。
[56] 大泉黒石「自画自讃」『雄弁』11巻9号、1920年、174-177頁。
[57] 木佐木勝『木佐木日記─滝田樗陰とその時代─』図書新聞社、1965年、22頁。
[58] 同38頁。
[59] このことは別の場所でも吹聴していたようだが(東垣公「文壇ゴシップ」『サンエス』2巻1号、サンエス本舗、1920年、107頁)、詳細は不明である。
[60] 新秋出版社文芸部編『文壇出世物語』新秋出版社、1924年、109、247頁。福田清人「井伏鱒二」『十五人の作家との対話』中央公論社、1955年、15頁。以上によると、会費は五銭で、これで煎餅が買われて分配された。月評会の会員に石丸悟平、伊東英子、江部鴨村、大月隆杖、加藤朝鳥、倉田潮、渋谷美代子、土佐弘陵、羽太鋭治、光成信男、宮地嘉六、山本勇夫等がおり、後に学生時代の井伏鱒二も加わった。泡鳴は頻りに「一元描写論」を主張していたという。
[61] 「飛耳張目」『新公論』35巻6号、新公論社、1920年、109頁。
[62] 木佐木勝『木佐木日記─滝田樗陰とその時代─』50-51頁。
[63] 「よみうり抄」(昨日府下高田村大字雑司ヶ谷九三四番地に転居した)『読売新聞』朝刊、1919年10月9日、7頁。ほか、『中央文学』3巻11号、『雄弁』10巻13号、『文章世界』15巻1号など、「九三四」としているものが多い。
[64]「学芸たより」『東京朝日新聞』朝刊、朝日新聞社、1919年10月10日、9頁。
[65] 大泉淳「父、黒石の思い出」『文人』5号、文人の会、1982年、47頁。
[66] 「青鉛筆」『東京朝日新聞』朝刊、1919年10月24日、5頁。
[67] 「よみうり抄」『読売新聞』朝刊、1919年10月2日、7頁。警視庁「長谷外事課長」も参加したという(「学芸たより」『東京朝日新聞』朝刊、1919年9月28日、9頁)。
[68] 村松梢風「わが師友録」『中央公論』40巻5号、1925年、説苑103頁。なお、岩野泡鳴も10月4日に招待のハガキを受け取ったが、参加したか不明(岩野泡鳴「巣鴨日記(第一)」『泡鳴全集 第十二巻』国民図書、1921年、544頁)。
[69] 近代日本史料研究会編『特別要視察人状勢一斑(続三)』(日本社会運動史料 第二宗教)明治文献資料刊行会、1962年、350頁。なおこの会では高畠素之が講師として出席して講演を行った。学生達も「建設者同盟」宣言書を配布したり、各自演説をしたりした。
[70] 岩野泡鳴「巣鴨日記第三」『泡鳴全集 第十二巻』544頁。
[71] 「石蕗会にて」『読売新聞』朝刊、1919年12月8日、11頁。他に大倉桃郎、大庭柯公、大町桂月、『話の世界』の木村三樹、澤田撫松、『婦人公論』の嶋中雄三、滝田樗陰、田中貢太郎、馬場胡蝶、松崎天民、村松梢風、『新青年』の森下雨村、その他記者が参加。生方敏郎、堺利彦、杉村楚人冠、横山健堂は欠席。
[72] 秋田雨雀『秋田雨雀日記 第1巻』未来社、1965年、204頁。
[73] 大泉黒石「ある漁村の一夜」『雄弁』11巻10号、1920年、184-185頁。
[75] 大泉黒石「妖画帳」『現代』2巻1号、1921年、523頁。文中に「昨年の暮」とあるが、絵には「大正八年冬」とある。また、1月号を書いたのは1920年の年末であると考えられるため、その「昨年」ならば1919年だと考えられる。
[76] 1923年3月に黒石が書いた新島栄治『湿地の火』序文では、新島と会ったのは「三年前」のこととされているため、1920年と推測した(新島栄治『詩集 湿地の火』紅玉堂書店、1923年、1頁)。「新島栄治年譜」によると、この年は新島が初めて原稿料を得た年で、「これ以後創作さかん」だという(内藤健治編「新島栄治年譜」『三匹の狼 新島栄治第三詩集』木犀書房、1970年、126頁)。
[77] 大泉黒石「「血によりて」の序」中村黒江『血によりて 死の誘惑』はかりや印刷所出版部、1922年、巻頭。「ざっと一年前」、中村と「知って間もない時」に彼の長篇小説を読んだという。この序文が書かれたのは「大正十年九月」であるため、1920年に出会ったと考えられる。
[78] 大泉黒石「自画自讃」『雄弁』11巻9号、172頁。1920年2月25日の「よみうり抄」(『読売新聞』朝刊7頁)に「辻潤氏 此の程比叡山を下り直ちに大阪某新劇団に投じたとの事」とある。この後しばらくして上京したと推測できる。
[79] 「よみうり抄」(年末旅行の予定を変え一月二日発長崎に赴く相だ)『読売新聞』朝刊、1919年12月27日、9頁。
[80] 「よみうり抄」(今回府下高田村雑司ヶ谷四百十二番地に転居した)『読売新聞』朝刊、1920年1月12日、7頁。
[81] 岩野泡鳴「巣鴨日記第三」『泡鳴全集 第十二巻』566頁。
[83] 木佐木勝『木佐木日記─滝田樗陰とその時代─』101頁。
[84] 「東洋大学文芸会大正八年度報告」『東洋哲学』27巻2号、東洋哲学発行所、1920年、46頁。
[85] 「雷鳥女史等の請願が二つ出た 全部言文一致は新らしい 花柳病の結婚制限と女子参政権」『時事新報』時事新報社、1920年2月10日。「神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ」の「新聞記事文庫」(https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/np/0100279643/)で閲覧。最終閲覧2024年4月2日。
[86] 「学芸たより」(田中貢太郎、松崎天民との大阪旅行へ今夜出発)『東京朝日新聞』朝刊、1920年2月27日、7頁。松崎天民『旅行気分 山水行脚』三水社、1928年、10頁。天民著によると田中貢太郎も行かなかったため、天民の一人旅になったという。
[87] ただし『南洋日日新聞』における1922年8月14日から10月3日にかけての「悲劇小説 須磨の浦風」連載(全44回)を除く。拙稿「黒石大泉清小伝」の第5章第3節「赤本作家泉清風──概覧」参照。
[88] 「兎の耳と梟の目」『中央文学』4巻4号、春陽堂、1920年、63頁。同『中央文学』4巻5号、86頁。
[89] 松崎天民『諧謔四十男の悩み』近代文芸社、1930年、468-472頁。
[90] 4月17日には黒石の他に田部重治「シラーの芸術観」、沼波瓊音「芭蕉の一生」の講演が行われ、「約三百の聴衆」があった。また、5月1日には高桑駒吉「文芸の価値」、田部重治「再びシラーの芸術観」の講演も行われ、「約六百の聴衆」があった(「文芸会の春季大講演会」『東洋哲学』27巻4号、51頁。「文芸研究会講演会成功」『東洋哲学』27巻5号、58-59頁)。おそらく4月17日(泡鳴が「死ぬより半月ばかり前」)、岩野泡鳴も「現実の威力」という題で講演する予定だったが、病気のため欠席した。その報を聞いた中村星湖が「では現実の威力が衰えたわけかな?」と冗談を言ったところ、「同じ卓に向っていた大泉黒石氏が、僕の言葉を可笑しがってであろう、声低く笑った」という(中村星湖「旅中雑感」『文藝春秋』3巻12号、文藝春秋社、1925年、75頁)。この後、5月7日に泡鳴は没した。
[91] 「最近文壇消息(九)」(『中央文学』4巻9号、1920年、181頁)によると、「大泉黒石氏 十一月末辻潤氏同伴巴里に出発。」とある。他、鏡村生(浅原六朗)「日曜日記」の11月7日(『少女の友』14巻1号、1921年、75頁)や山川亮「大泉黒石に与う」(『秀才文壇』20巻10号、55頁)等にもフランス行についての言及がある。
[92] 「愛の巣を見出せし神近市子氏」『婦人の国』1巻6号、新潮社、1925年、107頁。これによると、媒酌人は黒石の他に秋田雨雀、遠藤無水、宮嶋資夫。また秋田雨雀『秋田雨雀日記 第1巻』(228頁)によると、参加者は秋田、「伊沢」、遠藤無水夫妻、大泉黒石、尾崎士郎、辻潤、宮嶋資夫夫妻。
[93] 鏡村生(浅原六朗)「日曜日記」の1920年11月7日(『少女の友』14巻1号、75頁)に「大泉さんは、赤ちゃんが二日ほど前に生れたとかて、寝不足なためか蒼い顔をして居られた。」とある。「戸籍調べ」(『中央文学』5巻1号、1921年、217頁)に「大泉黒石氏 長女澄子を挙ぐ。」とある。志村有弘「大泉黒石の文学と周辺」『近代作家と古典 ──歴史文学の展開──』262頁。
[94] 大泉黒石「サンドウィッチの紀行」『現代』2巻7号、1921年、142-147頁。
[95] 大泉黒石「寸志」『東京朝日新聞』朝刊、1920年12月7日、5頁。
[98] 「文士連中の一夕話 白鴎会の発会」『東京朝日新聞』朝刊、1921年2月9日、5頁。秋田雨雀『秋田雨雀日記 第1巻』241頁。以上によると、黒石の他に秋田雨雀、生方敏郎、エロシェンコ、大庭柯公、菊池寛、小島政二郎、佐々木指月、田中貢太郎、長尾豊、七尾嘉太郎、長谷川如是閑、馬場孤蝶、村松梢風、安成貞雄が参加。
[99] 田中貢太郎「佐々木味津三の事ども」『文藝春秋』12巻3号、1934年、227頁。
[100] 大泉黒石「ルス・イン・ウルベ 「本朝画人伝」上」『読売新聞』朝刊、1924年11月30日、4頁。エロシェンコ「ある対話」高杉一郎編『エロシェンコ全集 1』みすず書房、1959年、322-326頁。正聞訛伝生「文壇噂話」『中央文学』5巻5号、1921年、64-65頁。
[101] 秋田雨雀『秋田雨雀日記 第1巻』243頁。秋田雨雀『秋田雨雀日記 第5巻』(未来社、1967年、397-398頁)によると、「森の会」は秋田雨雀、相馬御風、人見東明らが発起人となって雑司ヶ谷で行われていた「気の合った連中」と宴会などで楽しむ会。「この会に集まった人々は、吉江孤雁、楠山正雄、中村星湖、前田晃、本間久雄、白鳥省吾、窪田空穂、上山草人、松居松葉、徳田秋声、上司小剣、生田長江、谷崎潤一郎、福田夕咲、加能作次郎、生方敏郎、柳敬助、津田青楓、坂本紅蓮洞などおよそ三十名であった。」ここに名前が挙がっていないということは、黒石は常連ではなかったようだ。
[102] 正聞訛伝生「文壇噂話」『中央文学』5巻5号、1921年、66頁。
[103] 「兎の耳と梟の目」(『中央文学』5巻5号、51頁)によると、「活動写真といえば、黒石氏はまたまた最近、どこかの映画脚本を書いたそうであるが、その脚本中、登場人物に西洋人が何人とかあるので、会社側でも一寸その人物に困り黒石氏に向って曰く『如何でしょう、この西洋人には先生がひとつ御自身御登場が願えませんでしょうか?左様致しますと、まことに好都合で…』これには流石の黒石氏も余程、まいったと見え、その後、この話を一友人に語った後、『それが君、決して冗談じゃなく、真面目で言っているんだから僕も平降したね…』と。」ここで言及されている映画や会社については詳細不明。
[104] 大泉黒石「露西亜浪漫詩人 レルモントフの話」(『英語文学』5巻5号、1921年5月1日発行)の末尾に「大泉黒石氏本稿を寄せられた日の午後、氏の祖母に当られる方が市外雑司ヶ谷なる氏の寓居で長逝させられた。謹んでお悔み申し上げる。」とある。
[105] 大泉黒石「帰郷記の断章」『表現』2巻5号、表現社京都局、1922年、157-167頁。
[106]「長門峡谷」『峡谷を探ぐる』春陽堂、1929年、151頁。
[107] 「よみうり抄」(祖母君の遺骨を携え長崎に帰省中の処月末帰った)『読売新聞』朝刊、1921年5月3日、7頁。
[108] 大泉黒石「サンドウィッチの紀行」『現代』2巻7号、142-147頁。服部が来たのは「この夏」のことだとされている。これは1920年11月の出来事を書いた作品だが、書かれたのは1921年である。また、同様の出来事が『俺の自叙伝』(全集234-235頁、文庫323-325頁)にも書かれているが、これは「圭吉が京都の大学を出る時分」の出来事だったという。服部武雄が京都帝国大学を卒業するのは1921年のことであるため(校友調査会編『帝国大学出身名鑑』校友調査会、1932年、ハ33頁)、服部の来訪は1921年夏の出来事であったと考えられる。
[110] 大泉黒石「仙台にて」『読売新聞』朝刊、1921年8月19日、7頁。
[111] 大泉黒石「鹿の湯」『読売新聞』朝刊、1921年8月24日、7頁。黒石によるスケッチ。絵の中に「鹿落ノ湯」「K.O 1921.Aug 18.」とある。
[112] 「よみうり抄」(東北旅行から帰った)『読売新聞』朝刊、1921年8月24日、7頁。
[113] 中村黒江『血によりて 死の誘惑』巻頭。
[114] 大木志門・西村洋子・信國奈津子・𠮷原洋一「新収蔵資料紹介 滝田樗陰宛諸氏書簡 ──大正時代「中央公論」の周辺」『日本近代文学館年誌 資料探索 7』日本近代文学館、2012年、93-94、152、175頁。
[115] 木村小舟『日本国宝巡礼』東亜堂、1921年、497-498頁に掲載。
[116] 「最近文芸消息」『中央文学』5巻11号、90頁。
[117] 村松梢風「梢風物語」『現代作家伝』316-317頁。三宅正太郎『作家の裏窓』北辰堂、1955年、165-166頁。
[118] 「ビールの泡」『読売新聞』朝刊、1922年2月7日、7頁。
[119] 獏談生「大泉黒石所得税物語」『現代流行作家の逸話』潮文閣、1922年、99-100頁(初出は『現代』2巻12号、1921年)。
[120] 「ビールの泡」『読売新聞』朝刊、1922年2月7日、7頁。
[121] 木佐木勝『木佐木日記─滝田樗陰とその時代─』252頁。
[122] 辻潤「TKFSYNQJCHZ ちきふしんくいッち」(『ダダイスト新吉の詩』中央美術社、1923年、284頁)に「春夫や、黒石や──その他、僕の知っている範囲の連中で、彼が遇ってみたいと云う人達に僕は紹介したり、原稿の売り口を頼んだりした。」とある。冒頭には「彼を知ってから恰度丸一年になる」とあり、末尾には「一九二二年十二月」とあるため、1921年12月から1922年12月までの間に黒石は辻潤を介して新吉と出会ったと考えられる。
[123] 越中哲也「夏汀永見徳太郎宛書簡(其の一)」『長崎市立博物館々報』14号、長崎市立博物館、1974年、4頁。
[125] 正岡容『東海道宿場しぐれ』岡崎屋書店、1922年、23頁。
[126] 有島武郎『有島武郎全集第十四巻』筑摩書房、1985年、450頁。ただし「大泉〔黒石〕宛」、〔宛人名推定〕と注記がある。同時期に黒石のような境遇に立った別の「大泉」氏に宛てたものである可能性も否定できない。
[127] 貘談生「文壇大活劇『低迷期の人々』」『現代流行作家の逸話』潮文閣、128-134頁(初出は「カフェー覗き眼鏡 現代文士大立ち廻り」『雄弁』13巻4号、1922年)。黒石の他、尾崎士郎、堺利彦、高尾平兵衛、高畠素之、辻潤、中山啓、前田河広一郎、宮地嘉六、宮嶋資夫、「矢部」、山本実彦、「他左傾的文壇の人々及び社会主義者数十名」らが参加。
[128] 越中哲也「夏汀永見徳太郎宛書簡(其の一)」『長崎市立博物館々報』14号、6頁。大谷利彦『長崎南蛮余情 ─永見徳太郎の生涯』長崎文献社、1988年、290頁。
[129] 大谷利彦『長崎南蛮余情 ─永見徳太郎の生涯』291頁。
[130] 県立長崎図書館編『県立長崎図書館50年史』県立長崎図書館、1963年、45、156頁。このとき島内八郎が聴講していた(志村有弘「大泉黒石の文学と周辺」『近代作家と古典 ──歴史文学の展開──』254頁)。
[131] 大谷利彦『長崎南蛮余情 ─永見徳太郎の生涯』291頁。
[132] 越中哲也「夏汀永見徳太郎宛書簡(其の一)」『長崎市立博物館々報』14号、6頁。大谷利彦『長崎南蛮余情 ─永見徳太郎の生涯』291頁。
[133] 梅本貞雄(松尾一化子)との交際は深かったようだ。『俺の自叙伝』では「文士時代」に「杉尾一菓子」として登場している。また1957年5月、大泉滉氏が『週刊新潮』2巻21号の「週刊新潮掲示板」に「父、大泉黒石が著述したものを全部戦災で焼失しましたので、集めて整理したいと思います。何分、昔(大正から昭和の初期)のものですが、雑誌記事、単行本のいずれでも結構です。お持ちでしたらお譲りください。また、古本屋等にありましたらお知らせください。」と書いたところ、翌月の2巻23号にて梅本は「大泉黒石氏と僕とは二人の歴史を語る時、切ってもきれない仲で、その祖母に当る人から知っており、また君が赤ン坊のころは、僕の家内が家へ抱いて来てあやしたものです。大きくなった君とは映画面でお目にかかるばかり、家内は涙を流して喜んでいます。今僕の手元に『和蘭陀さん』『老子』の二著があり、また雑誌に出た小編数種あり。進呈したいので住居をお知らせください。」と回答している。
[134] 越中哲也「夏汀永見徳太郎宛書簡(其の一)」『長崎市立博物館々報』14号、6頁。大谷利彦『長崎南蛮余情 ─永見徳太郎の生涯』291頁。
[136] 木佐木勝『木佐木日記─滝田樗陰とその時代─』252頁。
[137] 宇田川昭子「資料紹介 花袋発起人の会合」『花袋研究学会々誌』13号、花袋研究学会、1995年、72頁。発起人は他に、秋田雨雀、石丸悟平、生方敏郎、江部鴨村、大月隆杖、岡落葉、小川未明、加藤武雄、川俣馨一、坂本栄吉、佐藤緑葉、島田青峰、白石実三、白鳥省吾、田山花袋、徳田秋声、平尾盈高、細田源吉、水守亀之助、宮地嘉六。
[138] 「よみうり抄」(月末東北に講演旅行)『読売新聞』朝刊、1922年6月14日、11頁。
[139] 『老子』第一版の発行は6月30日となっているが、7月2日の「よみうり抄」(『読売新聞』朝刊、1922年7月2日、7頁)には「全十巻連読長編小説「老子」を新光社から出版すべくその第一巻は両三日中に市場に出る」とあるため、実際のところ何日に売りに出されたのかは不明。
[140] 大泉氵顕「大泉黒石伝」『文人』2号、1981年、134頁。
[141] 丸山季夫「加藤朝鳥さんと本の話」(『国学者雑攷』吉川弘文館、1982年、170頁。初出『日本古書通信』123号、日本古書通信社、1933年)によると、加藤朝鳥が「大泉黒石氏等とも親しくされて居る時代、黒石氏と共に何とかして、大当りを取らんものと、世の動向を注意して居られたそうである。而して加藤さんの発案で大泉氏に老子を小説化することを勧められ、自身は此の十字軍に筆を執られたのであった。」また同「饅頭教育の加藤朝鳥さん」(『読書春秋』4巻12号、春秋会、1953年、13頁)によると、「大泉黒石の『老子』は、一時洛陽の紙価を高めたものだが、これが加藤さんの入智慧であったと云う。しかも同時に稿を起した野心の作『十字軍』は一向に売れなかったらしいのは皮肉な世の中である。」
[142] 加藤朝鳥「僕の蔵書」『書物展望』5巻7号、書物展望社、1935年、34頁。
[143] 「よみうり抄」『読売新聞』朝刊、1922年7月16日、7頁。文芸年鑑編纂部『大正十一年度 文芸年鑑』二松堂書店、1923年、72頁。黒石の他に秋田雨雀、加藤朝鳥、加藤一夫、辻潤、中村啓が講演する予定だった。
[144] 松本克平『日本社会主義演劇史』筑摩書房、1975年、640-642頁。
[145]「黒石氏から 節約デー反対に就て」『東京朝日新聞』朝刊、1922年8月30日、5頁。
[146] 飛耳張目「文壇風聞」『新興文学』1巻1号、新興文学社、96-97頁。
[147] 「レポッカ」『読売新聞』朝刊、1922年9月29日、7頁。「雲間寸観」『日本及日本人』54号、政教社、1924年、66頁。
[148] 第一高等学校寄宿寮編『向陵誌』三秀舎、1925年、1298頁。末弘厳太郎も講演を行った。
[149] 生方敏郎「松島紀行」『哄笑・微笑・苦笑』大日本雄弁会、1926年、321頁。秋田雨雀「アスパラガス」『早稲田文学』206号、早稲田文学社、1923年、35頁。
[150] 生方敏郎「松島紀行」『哄笑・微笑・苦笑』319-349頁。正確な年は書いていないが、木内喜八(1827-1902)「二十一回忌」の年とされているため、1922年のことだと考えられる。
[151] 大坪晶一『自叙伝 青春挽歌』短歌時代社、1965年、48-50頁。黒石の他、秋田雨雀、有島武郎、江口渙、宮地嘉六が予告されていたという。予告されていた文士は一人も現れず、熱風社同人の佐野袈裟美と岩佐作太郎が講演をしたが、岩佐の講演の途中で警官の介入によって中止、散会となった。この後講演の責任者らは詐欺の疑いで拘引された。大坪曰く「何でも二三人前から沢田[吉郎。大坪の友人で責任者の一人]が魚津に宮地嘉六を訪ねて有島ら一行の未到着の釈明をたのみに行ったまま帰らないと云うのであるが、私にはどうしても手の下し様のない事件であった。私は今日までこの催しが計画的なサギの目的で催されたものか、但しは偶発的な事故が当局に乗ぜられる隙を与えたのか真相を知らないで日月のみをけみして来た。」
[152] 志村有弘「大泉黒石の文学と周辺」『近代作家と古典 ──歴史文学の展開──』262頁。生れた月日は「Ai Shay Obituary」(初出『Los Angeles Times』2015年10月1日)、「Legacy.com」(https://www.legacy.com/us/obituaries/latimes/name/ai-shay-obituary?id=6984369)、最終閲覧2024年4月2日。表記に関しては林芙美子「柿の実」、大泉満「島尾敏雄さんと大泉氵顕」(『検証 島尾敏雄の世界』勉誠出版、2010年、303頁)、「恋しいわたしのおばさま芙美子 大泉渕さんの話」(池田康子『フミコと芙美子』市井社、2003年、416頁)等をはじめとして、「洽」としているものが多い。志村氏は「氵号」という漢字を用いているが、これは同書以外には見られない。また、芸能活動においては「愛」「愛子」と名乗っていたようだ(「新女優十名 名付けて五・三一グループ 大泉黒石氏の愛嬢も」『東京朝日新聞』夕刊、1938年6月3日、3頁。大泉黒石「大泉滉を語る」『日本映画』6巻8号、大日本映画協会、1941年、100頁)。
[153] 中本信幸「大泉黒石異聞」長塚英雄責任編集『ドラマチック・ロシアin JAPAN 3』東洋書店、2014年、334頁。本書に黒石が書いた書簡の引用がある。この時の黒石の住所は「東京市外雑司ヶ谷442」。
[154] 高橋新吉『ダダ』内外書房、1924年、33-34頁。
[155] 「学芸だより」『東京朝日新聞』朝刊、1922年12月14日、6頁。
[156] 高橋新吉『ダダ』33-70頁。辻潤「ぷろむなあど・さんちまんたる」『ですぺら』新作社、1924年、41頁。
[157] 正岡容『東京夜曲 影絵は踊る』新作社、1923年、16頁。
[158] 「文士や俳優の所得税」『羅府新報』羅府新報社、1922年10月5日、5頁。
[159] 『老子』中国語訳マイクロフィルム版に関する中国国家図書館のOPAC(http://find.nlc.cn/se
arch/showDocDetails?docId=-8918105776721456034&dataSource=ucs01&query=%E5%BB%
96%E6%99%AF%E4%BA%91%E3%80%80%E8%80%81%E5%AD%90)。最終閲覧2024年4月2日。
[160] 『老子』中国語訳原版に関する中国国家図書館のOPAC(http://find.nlc.cn/search/showDocD
etails?docId=-8450641381715043675&dataSource=mgwx&query=%E5%A4%A7%E6%B3%89
%E9%BB%91%E7%9F%B3)。最終閲覧2024年4月2日。
[161] 青顔狂士(菅野青顔)「放言録 (20)」伊藤文隆編『菅野青顔全集 第七巻 空華帖・初期の文章(大気新聞)』三陸文学研究社、1998年、307頁。
[162] 中本信幸「大泉黒石と菅野青顔」『図書新聞』図書新聞社、1979年12月1日、7頁。
[163] 青顔狂士(菅野青顔)「放言録 (20)」伊藤文隆編『菅野青顔全集 第七巻 空華帖・初期の文章(大気新聞)』307頁。
[164] 伊藤文隆編『菅野青顔関係資料(一)』(三陸文学研究叢書3)宮城県鼎が浦高等学校、1993年に『ボロジン』1(1,3)と2(2-3)が収録されている。奧付に後援者として黒石の名前がある。
[165] 「文壇近時画報(3)」『文章倶楽部』8巻3号、新潮社、1923年、巻頭。他に加藤武雄、木村毅、須藤鐘一、長谷川天渓、細田源吉、宮島新三郎らが出席。
[166] 新島栄治『詩集 湿地の火』紅玉堂書店、1923年、3頁。
[167] 辻潤「陀々羅行脚」『絶望の書』269-282頁。福田清人が聴講していたという(福田清人「大泉黒石のスナップ」「黒石廻廊 大泉黒石全集書報No.6」3-5頁)。
[168] 長崎での動向は、辻潤「陀々羅行脚」(『絶望の書』285-302頁)、及びその解説である大谷利彦「異端とダダ 大泉黒石・辻潤」(『長崎南蛮余情 ─永見徳太郎の生涯』289-297頁)による。
[169] 山本緑葉「日活向島通信」(大泉黒石、佐藤春夫、秦哀美ら脚本部顧問就任)『キネマ旬報』134号、キネマ旬報社、1923年5月21日、7頁。
[170] 四方田犬彦『署名はカリガリ 大正時代の映画と前衛主義』新潮社、2016年、132頁、および同『大泉黒石 ──わが故郷は世界文学』岩波書店、2023年、111、120頁など。四方田氏が引用している「活写界へ大泉黒石君が飛込む」(『都新聞』都新聞社、1923年5月27日、7頁)では、黒石は「俺は来月向島の撮影所で映画の自作自演をやる」と息巻いている。また『活動倶楽部』6巻8号の「大泉黒石君が向島撮影所に入る」(「活動新報」欄)という記事には「大泉黒石君は、今度日活へ顧問の名義で入社し、軈てスタジオに起って毛色の変ったフィルム役者になる事になった」と書いてある(活動倶楽部社、1923年、98-99頁)。しかし、『都新聞』の記事には「日活の根岸支配人及び向島撮影所」の回答として「大泉さんに映画脚本はご依頼してありますが自演の話は聞いて居りません」とある。これが事実であれば、俳優部を志望したにもかかわらず受け入れられなかったというよりは、黒石が得意の与太で「自作自演」と言ってみせたというのが事実に近いのではないだろうか。
[171] △□○「文芸雑事」『日本及日本人』41号、1924年、97頁。
[172] 「よみうり抄」(今回府下北豊島郡長崎村五郎窪四二一三に転居した)『読売新聞』朝刊、1923年5月26日、7頁。
[173] 大泉淳「父、黒石の思い出」『文人』5号、47頁。
[174] 神田一平「大泉黒石氏と加藤一夫との養鶏挿話」『家禽界』14巻3号、暁声社、1924年、42頁。
[176] 「大泉黒石君が最近訪問客に「俺は映画脚本を今書いている、(・・・)」といい出した、・・・」(「活写界へ大泉黒石君が飛込む」『都新聞』1923年5月27日、7頁)なお、黒石が書いたのは原作小説であり、脚本は溝口健二が行った(西田宣善、武藤旬「溝口健二フィルモグラフィー」『溝口健二集成』キネマ旬報社、1991年、246頁)。
[177] 「活動」『都新聞』1923年6月14日、7頁。
[178] 『読売新聞』朝刊、1923年7月9日、1頁に掲載された『血と霊』広告によると映画は「この程漸く竣成したから、本書の市場に出ずると前後して封切になるであろう」。また、「映画のしおり」(『読売新聞』朝刊、1923年7月18日、7頁)によると「既に完成し近く封切される」。佐相勉『1923 溝口健二『血と霊』』筑摩書房、1991年も参照。
[179] 山本敏雄『生きてきた』南北社、1964年、52頁。講師は黒石の他に石川三四郎、大杉栄、加藤一夫、辻潤がいた。
[180] 編輯部「各興行会社の報道」『キネマ旬報』1923年8月21日、9頁。
[181] 大泉淳「父、黒石の思い出」『文人』5号、49頁。
[182] 1926年に『人間開業』として発表。後に『世界人』見本は斎藤昌三の手に渡った(斎藤昌三『閑板書国巡礼記』書物展望社、1933年、241-242頁)。斎藤によると、「この著の奧付には大正十二年九月五日発行となっているが、寄贈して呉れた友人の説明に依ると本書が製本見本として出版部長の掌に載せられた刹那、彼の未曾有の大震災が来たので、部長は手にしたまま外路に飛び出したが、残りの全部は工場と共に灰に帰し、結局部長の手の本が唯一の存在だというのである。」『世界人』の装訂についてはウェブサイト「稀覯本の世界」の「大泉黒石 單行本書目」(https://kikoubon.com/kokuseki.html)に解説がある。最終閲覧2024年4月2日。
[183] 大泉黒石「改版の辞」『小説 老子』春秋社、1925年、巻頭。
[184] 「八十版…」は大泉黒石「改版の辞」『小説 老子』春秋社、1925年、巻頭。「八十五版」は『東京朝日新聞』朝刊、1925年1月17日、1頁。
[185] 大泉黒石『人生見物』紅玉堂書店、1924年、117頁。「行方不明」になった長篇小説については『血と霊』(1923)序文、『大宇宙の黙示』(1924)序文でも言及されており、「国際関係の問題」を扱ったものだったという。これらについては風狂海人「幻の小説と〝預言〟の周辺」(「黒石廻廊 大泉黒石全集書報No.3」大泉黒石全集刊行会、1988年、6-7頁)、および「幻の小説と〝預言〟の周辺(続)」(「同No.5」4-6頁)で考察されている。ただし、両論考で言及された「クヨクヨするな!何でも勇敢にやれ!」の続編は1925年8月から12月にかけて『面白倶楽部』で連載された「犬も歩けば」であり、これは氏が予想されているような「国際関係の問題」を扱った長編小説ではなかった。
[186] 田中貢太郎「写経供養」『中央公論』39巻10号、1924年、236頁。出席者は生方敏郎、田中貢太郎、村松梢風、滝田樗陰、嶋中雄作。
[187] 越中哲也「夏汀永見徳太郎宛書簡(其の二)」『長崎市立博物館々報』15号、1975年、32頁。
[188] 大泉黒石「血と霊と表現派映画」『活動倶楽部』7巻1号、活動倶楽部社、1924年、55頁。
[189] 「会いろいろ」『東京朝日新聞』朝刊、1923年11月8日、3頁。加藤朝鳥も講演をした。
[190] 大泉黒石「血と霊と表現派映画」『活動倶楽部』7巻1号、55頁。
[191] 『東京朝日新聞』夕刊、1924年3月7日、3頁。
[192] 大泉黒石「渡欧の前日に」『活動倶楽部』7巻4号、35頁。
[193] 大泉黒石「奥多摩渓谷」『峡谷を探ぐる』118頁。
[194] 「文芸思想講演会」(消息)、『都新聞』、1924年5月9日、5頁。講師は黒石の他に秋田雨雀、市川房枝、江口渙、尾瀬敬止、千葉亀雄、宮嶋資夫。
[195] 続編は1925年8月から12月にかけて『面白倶楽部』で連載された「犬も歩けば」。
[196] 津田光造「大泉黒石氏と宮島資夫氏の印象」『文壇』1巻1号、小西書店、1924年6月25日印刷納本7月1日発行、103頁。「今度、日活から、蒲田の方へ来るそうだ。新芸術映画劇のために、表現主義の名脚本を提供して貰いたい。」
[197] 大泉黒石「長門峡谷」『峡谷を探ぐる』149-167頁。
[198] 「よみうり抄」(長崎港にて「二三日前に此の港へ来ました、間もなく海を越えて久し振りのヴガボンドになります」)『読売新聞』朝刊、1924年7月27日、9頁。
[199] 大泉黒石「伊王島」『婦人グラフ』2巻8号、国際情報社、1925年、2-3頁。永見徳太郎「長崎港外伊王島村」『島』1巻6号、一誠社、1933年、13-18頁。
[200] 大泉黒石「笑うべからず」『改造』7巻2号、改造社、1925年、63頁。「紫鉛筆」『読売新聞』朝刊、1924年11月22日、5頁。1924年10月には「戯談」(世紀)を発表しているが、これは満州行の前と考えるべきか、帰朝後と考えるべきか、今のところ判断ができない。
[201] 大泉黒石「笑うべからず」『改造』7巻2号、70頁。同「鬘娘」(『婦人世界』21巻8号、実業之日本社、1926年、100頁)にも「 家の子どもは、みんな冬生れで、学校へ登るのに一年損をしているんだから、今度の赤ちゃんは元日生れという都合に出来たら是非そうして下さい。」という記述がある(妻の台詞)。確かに、7月10日に生まれた長男淳を除き、次男氵顕は11月12日、長女澄は11月初旬、次女洽は11月26日に生まれている。両作では元日生まれとしての申請は断られてしまうが、大泉滉の誕生日は一般に1925年1月1日とされているため、実際には元日生まれとして受理されたのかもしれない。
[202] 「紫鉛筆」『読売新聞』朝刊、1924年11月22日、5頁。
[203] 「紫鉛筆」『読売新聞』朝刊、1924年12月7日、5頁。「笑うべからず」によると、この記事は抗議の手紙を送った翌日に掲載されたという。名前の募集については、「赤ン坊の名前が未だにつけてありませんから御親切ついでに一つ縁起のいいところをお願いいたします/赤ン坊は男、一字名、サンズイ扁のこと、以上」とある。
[204] 大泉黒石「笑うべからず」(『改造』7巻2号、65-66、71頁)によると、これは『読売新聞』に問題の記事が掲載された後の出来事だった(これを信じれば11月23日以降)。「島田清次郎とは僕の家で一度、誰かの出版紀念会で一度。会ったきりで時々は消息を寄越すこともあったが、僕はあの人相が気に食わないので交際は遠慮していた。然しこうなっては見ていられない虐待だ。此の際何とか出来るなら何とかするのが僕の性分だ。誰も構わなければ俺が構う。発狂まえに持ち廻って散々断られたという其のボロボロの原稿はどんなもんだか知んが恐らく大将の絶筆だろう。一ツ閲た上で本屋に掛け合い、出版したら屹度喜ぶだろうと考えた。」この後所用のために春秋社へ行った際、この件で社長と意気投合したため、「明朝」に保養院へ行くことになったという。池田隆教「島○清○郎君の死──被害妄想及心気妄想の一例──」(『脳』4巻7号、精神衛生学会、1930年、51-54頁)によると島田の入院は「大正十三年七月三十一日」で、「入院後三四箇月」に黒石達が来て、その「一二週間後」に黒石が出版を伝えに来た。風野春樹『誰にも愛されなかった男 島田清次郎』本の雑誌社、2013年、281-283頁。
[205] 五九郎「練馬の大根大尽と女給を張合った大泉黒石君勝ちに勝ったが這う這うの態で逃げ出す」『文芸時報』文芸時報社、1927年9月20日、5頁。『復刻版 文芸時報 第2巻』不二出版、1987年、185頁による。
[206] 大泉氵顕「大泉黒石伝」『文人』2号、135頁。隣家に新聞『新愛知』の編集長だった尾池義雄が住んでおり、知己となったという。
[208] 花岡謙二『鋸南雑記:日記』(遺稿・花岡謙二叢書5)花岡謙二叢書刊行会、1996年、70、75頁。
[209] 松本昌夫「昭和日本歌選歌作者略伝録」『昭和日本歌選』三土社書房、1928年2月20日印刷3月1日発行、205頁。花岡の「交友」欄に大泉黒石の名前がある。
[210] 森川平八「渡辺順三年譜(一)」『新日本歌人』13巻9号、新日本歌人協会、1958年、19頁。
[211] 長野県下伊那郡青年団史編纂委員会編『下伊那青年運動史 ──長野県下伊那郡青年団の五十年──』(国土社、1960年、114頁)では「大正の末年」とされている。しかし1925年9月5日に黒石は田中の詩集の序文を書いており、10月31日にその出版記念会が催されている。したがって、ここでは田中の上京は1925年のことであると判断した。田中は『象徴』に参加したほか、『クロネコ』(カフェークロネコ)の編輯にも携わったが、その後帰郷。1929年末、黒石は飯田市にいた田中幸雄に会いに行った。
[212] 大泉黒石「奥多摩渓谷」『峡谷を探ぐる』117-130頁。この紀行について、「二度目に出掛けたのも、翌年の衣替えの季節」(119頁)のこととされている。「翌年」がどこにかかっているのか不明瞭な文章だが、ここでは「一度目」にあたる「関東大震災の翌年の晩春」(117頁)にかかっていると考え、1925年のこととした。ただし、128頁では「この春のはじめ」として伊香保温泉岸権旅館の宿泊や「その翌月」として草津温泉大東館の宿泊が引き合いに出されており、これは1929年のことであるため、この紀行も1929年のことを書いたものである可能性がある。なお、「奥多摩渓谷」は黒石の他の紀行文集にも「射山渓」として収録されているが、それらでは末尾に「奥多摩渓谷紀行の一節」とあるように『峡谷を探ぐる』の「奥多摩渓谷」128頁の第二段落以降等がカットされている。
[213] 「よみうり抄」(大阪市外小阪東邦映画製作所に滞在中)『読売新聞』朝刊、1925年4月30日、4頁。
[214] なお、この劇団が実際に映画を制作していたのかは未詳。「変り種ぞろいで映画劇団を作る 目下保育園(ママ)に保護中の島清君をも加えて」『東京朝日新聞』朝刊、1925年8月24日、7頁。松本克平『日本新劇史 新劇貧乏物語』筑摩書房、1966年、395頁。藤田富士男『もう一人の新しい女 伝記小説・木村駒子』かたりべ舎、1999年、212-214頁。
[215] 風野春樹『誰にも愛されなかった男 島田清次郎』296-298頁。
[216] 荒川畔村「震災後と戦災後 辻潤をめぐることども」『虚無思想研究』星光書院、1949年、199頁。松尾邦之助「辻潤年譜」『ニヒリスト 辻潤の思想と生涯』オリオン出版社、305頁。他に荒川畔村、市橋善之助、卜部哲次郎、加藤一夫、内藤辰雄、新居格、宮嶋資夫、村松正俊、室伏高信が発起人になった。
[217] 田中幸雄『憂鬱は燃える』東華書院、1925年、9頁。
[218] 木佐木勝『木佐木日記2 混迷の昭和期 1926~1927』現代史出版会、1975年、291頁。
[219] 「大正十四年詩壇の主なる事項」詩話会編『大正十四年 日本詩集 1926版』新潮社、1926年、付録62頁。発起人は黒石の他、井上康文、「外十人」。
[220] 大泉黒石「山から出て来た山男──文学後備兵の告白──」『中外商業新報』朝刊、中外商業新報社、1936年7月1-3日、1日と2日は8頁、3日のみ7頁。
[221] 1924年に立石駒吉が帝国キネマ小阪撮影所に入社し、破格の待遇をもって各映画会社から俳優やスタッフを引き抜いた。これに対し、従来の帝国キネマ芦屋撮影所の面々が待遇の差に不満を持ち、改善を要求したが、受け入れられなかった。そこで1925年1月、芦屋派は連帯して辞表を出して新会社を作るという計画を練っていたが、これが社への背任行為とされ、彼らは馘首された。同月26日、小阪撮影所の面々はこれを承認するとともに立石の方針に従う決議をした。しかし内紛はここで収まらず、専務の石井虎松と常務の立石駒吉の間に確執が生じ、ついに3月上旬に至って帝国キネマ社長の山川吉太郎をはじめとして、石井専務、立石常務(及び撮影所長)、濱野常務ら幹部が総辞職することになった。そして同月16日には小阪撮影所の従業員達に大幅の減給が通告され、彼らは反対の意を表明したが、結局26日には全員解雇され、撮影所は一時閉鎖されてしまった。この後、立石が引き抜いた顔触れを率いて立ち上げたのが東邦映画製作所で、4月5日に発会式が行われた。なお、この後帝国キネマも前社長の山川や前専務の石井らの復帰に伴って復活した。以上について、詳しくは以下等を参照。「芦屋派の処置に端を発して 帝キネ幹部総辞職 社長も撮影所長も全部更迭」『キネマ旬報』188号、キネマ旬報社、1925年、14頁。「従業員を全部解雇して 帝キネ小阪撮影所一時解散 立石氏一派は独立製作を開始」同190号、11頁。石巻良夫『欧米及日本の映画史』プラトン社、1925年、344-357頁(「一一、俳優争奪戦」及び「一二、帝キネ騒動、東邦映画」)。磯田啓二『熱眼熱手の人 ──私説・映画監督伊藤大輔の青春──』日本図書刊行会、1998年、96頁。
[222] 佐伯知紀構成「[年譜・アルバム]伊藤大輔1898-1995」『[映畫読本]伊藤大輔 反逆のパッション、映画劇のモダニズム!』フィルムアート社、1996年、7-8頁。磯田啓二『熱眼熱手の人 ──私説・映画監督伊藤大輔の青春──』84-99頁。
[223] 「撮映所たより」(「煙」について「来る廿五日に完成」とある)『東京朝日新聞』朝刊、1925年月22日、5頁。
[224] 「五月信子の他幹部俳優総辞職 東邦映画の内紛」『読売新聞』朝刊、1925年6月18日、3頁。「目まぐるしき此頃の斯界推移」『キネマ旬報』197号、25頁。「東邦映画通信(六月二十三日調査)」『キネマ旬報』198号、32頁。「東邦映画製作所に就て」『キネマ旬報』199号、26頁。石巻良夫『欧米及日本の映画史』350-357頁。
[225] 田中純一郎『日本映画発達史 I』中央公論社、1957年、386頁。
[226] 「従業員を全部解雇して 帝キネ小阪撮影所一時解散 立石氏一派は独立製作を開始」『キネマ旬報』190号、11頁。
[227] 藤原啓「藤原啓」日本経済新聞社編『私の履歴書 文化人 9』日本経済新聞社、1984年、529頁。「藤原啓年譜」『没後十年 人間国宝 藤原啓の作品と生涯』中国新聞社・山陽新聞社、1993年、ただし国松春紀「II 大泉黒石参考文献目録への追加」『大泉黒石・小林勝・獄中作家(永山則夫他)』(深井人詩編集「文献探索人叢書」25、国松春紀書誌選集2)、金沢文圃閣、2015年、17頁による。
[229] 木佐木勝『木佐木日記2 混迷の昭和期 1926~1927』16頁。ちなみにこの後、木佐木は葛西善蔵宅へ赴き、しばらく話したが、「大泉黒石の話をしたら[葛西は]急に目を輝かして、面白がって聞いていた」という。
[230] 木佐木勝『木佐木日記2 混迷の昭和期 1926~1927』17頁。
[231] ヘルツェン著、内山賢次訳『思い出の記』(春秋社、1926年)の「訳者序」(4頁)によると、「尚お日本の読者にそう知れ渡っていないこのロシヤの古典を出版するようになったのは大泉黒石、古館清太郎両氏の尽力に負う所が多い」という。具体的に何をしたのかは不明。
[232] 人生座の演目は「雨」(サマセット・モーム原作、ジョン・コードン脚色)、「サロメ狂乱」(木村駒子創案)。ここに黒石がどの程度関わっていたのかは不明。「木村駒子と岩野未亡人が松竹座へ出る」『読売新聞』朝刊、1926年3月18日、5頁。「松竹座」『東京朝日新聞』朝刊、1926年3月28日、8頁。
[233] 「書ぬき帳」『読売新聞』夕刊、1926年4月5日、13頁。なお大泉黒石「天草四郎」という作品は未見(正確には1921年7月発行の『改造』3巻7号で予告されたことはあったが、これは発表されることはなく、その後も私の知る限りでは天草四郎を主題とした作品は発表されていない)。また、この後の人生座の消息も不明。木村駒子はこの後「芸術大学」なるものを立ち上げるが、ここに黒石が関係したかどうかも不明。
[234] 「よみうり抄」『読売新聞』朝刊、1926年9月21日、4頁。「学芸だより」『東京朝日新聞』朝刊、1926年9月21日、5頁。なお大泉黒石『預言』の「序」によると、9月1日はまだ「東京府下長崎村大和田」に住んでいた。
[235] 大泉淳「父、黒石の思い出」『文人』5号、49頁。
[237] 木佐木勝『木佐木日記2 混迷の昭和期 1926~1927』167頁。
[238] 木佐木勝『木佐木日記2 混迷の昭和期 1926~1927』180頁。このとき黒石は「スイスにいる伯母に会いたい」ために「春ごろ出かけるつもり」だと言っていたが、木佐木は1924年の「洋行」を踏まえて真に受けなかった。実際、この後スイス行が実行された形跡はない。
[239] 志村有弘「大泉黒石の文学と周辺」『近代作家と古典 ──歴史文学の展開──』256頁によると、翁曰く「私と大泉黒石との出会は昭和の初め」、『週刊朝日』で「ある特集をやったとき、黒石に手紙を出して寄稿を依頼したらもって来てくれたのが初会見だったと思う」。翁が『週刊朝日』編集長になったのは1926年5月のことである(逸見久美、須田満編「翁久允年譜」『翁久允全集 第十巻』翁久允全集刊行会、1973年、462頁)。1926年であれば8月22日号、あるいは翌年の新年号の二つの可能性があるが、8月22日のものは特集ではなく、一方で新年号は「笑ひのページ」という特集があり、ここに黒石の作品が掲載されたため、おそらく後者の依頼時に二人は出会ったのだろう。
[240] 渡辺雅司「千早町モンパルナスと大泉黒石」『ロシア手帖』39号、ロシア手帖の会、1994年、25-29頁。
[241] 渡辺雅司「蟹工船の唄が聞こえる」『東京外語ロシア会会報』13号、2010年、1頁。ただし国松春紀「II 大泉黒石参考文献目録への追加」『大泉黒石・小林勝・獄中作家(永山則夫他)』18頁より孫引き。
[242] 渡辺雅司「千早町モンパルナスと大泉黒石」『ロシア手帖』39号、27頁。
[243] 志村有弘「大泉黒石の文学と周辺」『近代作家と古典 ──歴史文学の展開──』262頁。
[244] 「片片録」『時事新報』1927年4月2日、4頁。
[245] 「わが家の銷夏」(アンケート)『サンデー毎日』6巻50号、毎日新聞社、1928年、11頁。ここに「昨年は館山」へ行ったと書かれている。
[246] 「望遠鏡」『象徴』1号、象徴社、1927年、53頁。「例によって」黒石宅で行われたという。
[247] 大泉黒石「木曽川 恵那峡谷」『峡谷を探ぐる』20-33頁。「昭和の初め七月八日」(21頁)とあること(出発はその前日とされているため7日)、また『新愛知』において1927年7月17、19、21-22日に「粽の運命」、9月4、6-7日に「狐と人間」、10月8、11、15日に「淫書退治」が連載されていることから、1927年のことであると判断した。
[249] 『象徴』1号、54頁。正確な住所は「横須賀市田浦町」と「宮城県気仙沼町釜の前一八〇ノ一」。なお、同人及び寄稿者に天草四郎、嵐清之助、石井敏郎、泉涓太郎、岩田準一、宇佐美稔、牛尾茂、岡田光一郎、鼎銀次郎(岩田準一の筆名*)、岸田健次、梢朱之助、高比羅清、瀧原流石、館嵯峨之介、田中幸雄、堤青柳斎、原田壽稔、正岡容、六号座附、Y・Tがいた。(*岩田準一『鳥羽志摩の民俗』鳥羽志摩文化研究会、1970年、巻末の著者紹介)
[250] 「望遠鏡」(『象徴』1号、53頁)に「大泉先生が児童映画をつくる。小中学生の公然と見られる映画である。御愛顧を願うと爾云。」とある。大泉黒石「児童映画」(『小学校 初等教育研究雑誌』44巻2号、同文舘、1927年11月、16-17頁)では「一時も早く児童達に最も理想的な映画を作って幸福に導いてやらねばならぬことを痛感した私は是非今秋までにはと此希望の元に準備を続けている。」と述べている。なお後述の「夕映え」は表現派風のものであったようなので、これが「児童映画」に当たるものであったとは考えにくい。
[251] 藤原啓「藤原啓」日本経済新聞社編『私の履歴書 文化人 9』529-530頁。「藤原啓年譜」『没後十年 人間国宝 藤原啓の作品と生涯』中国新聞社・山陽新聞社、1993年、ただし国松春紀「II 大泉黒石参考文献目録への追加」『大泉黒石・小林勝・獄中作家(永山則夫他)』17頁による。
[252] 木佐木勝『木佐木日記2 混迷の昭和期 1926~1927』325頁。
[253] 「文芸講演旅行」『象徴』1号、52頁。場所は神戸・大阪・京都・名古屋・東京。同行する同人は嵐清之介・泉溳太郎・岩田準一・大泉黒石・梢朱之介・瀧原流石・堤青柳齋。
[254] 日本近代文学館所蔵(特別資料)。内容は江口が関係しているらしい「新鋭の若武者頗る澤山の聯盟」に関して、黒石は既に老いているため顔を出すのは遠慮されるが、「聯盟諸士の驥尾について何なりと御手伝ひいたしますから、小生に出来ることなら何なりと有仰って下さい」というもの。詳細は不明だが、この年に江口らを中心に組織された「日本無産派文芸聯盟」のことか。
[255] 豊島晴利「長崎のちゃんぽん」『窓の星』14号、1927年12月10日。ただし新名規明『長崎偉人伝 永見徳太郎』長崎文献社、2019年、46頁による。この時、永見徳太郎も出席した。
[256] 内藤健治「初期プロレタリア詩人新島栄治の古本屋のこと」『日本古書通信』48巻6号、1983年、6-7頁。一口五円。黒石は吉野作造の「特別十口」と並んで最も多く寄付している。大体の人は一口か二口だが、北原白秋は「六口」、武郎会有志は「二十八円」(五口ちょっと)、秋田雨雀は「五口」寄付している。
[257] 大泉淳「父、黒石の思い出」『文人』5号、50頁。
[260] 前註の添田知道宛葉書に書かれた大泉家の住所は既にこの場所になっている。ただし淳氏は下落合の家から中学へ通ったと回想しているため、これを信じれば、彼の入学から一定期間は下落合にいたと推測できる。
[262] 「鐘釣温泉膝栗毛」『現代』9巻8号、1928年、227-233頁。「漫画漫文 仙境見物」『婦人公論』13巻9号、1928年、206-216頁。大泉黒石「黒部峡谷」『峡谷を探ぐる』147-157頁。
[263] 当日『読売新聞』朝刊(1頁)、夕刊(11頁)、『東京朝日新聞』朝刊(3頁)。講師は黒石の他に、生方敏郎、大辻司郎、岡本一平、堺利彦、佐々木邦、高田義一郎、田中比佐良。
[264] 長崎県立長崎図書館郷土資料センターに所蔵されている。この書簡の書かれた年は不明だが、住所(高田町雑司ヶ谷六七九)や書簡の内容から1928年のものと判断した。
[265] 「豊田豊氏の新著披露」『芸術』6巻18号、大日本芸術協会、1928年、7頁。発起人は黒石の他に、佐藤春夫、村松梢風、芳川赳がいた。
[266] 「正岡蓉氏が金龍館に出演」『読売新聞』朝刊、1928年7月7日、6頁。正岡は「モダン万歳を試みることになったが浅草では最初の出演でもあり、文壇での知己先輩の吉井勇氏や大泉黒石氏は勿論のこと、林家正蔵、柳家三語楼閣等も大いに後援するという」。
[267] 翁久允「ダンスやら唄うやら」『高志人』15巻9号、高志人社、1950年、35頁、および『翁久允全集4』翁久允全集刊行会、1972年、231頁。様々な人が参加したようで、他に生田癸、今井邦子、加藤一夫、小島烏水、西條八十、堺利彦、佐佐木茂索、白鳥省吾、竹久夢二、田中貢太郎、近松秋江、照井栄三、時枝誠之、直木三十五、永田竜雄、野口米次郎、野尻清彦(大佛次郎)、長谷川時雨、長谷川伸、畑中蓼波、前田河広一郎、村松梢風、山田邦子、山本有三、吉川英治ほか。二次会まで参加したのは大泉黒石、金子洋文、木村毅、鈴木氏亨、戸川貞雄、徳田秋声、永田衡吉、中村吉蔵、中村武羅夫、畑中蓼坡、吉屋信子ほか。
[268] 翁久允「わが一生 再外遊篇(7)」『高志人』33巻11/12号、1968年、9頁。他に生田葵、今井邦子、小川未明、小島烏水、西條八十、堺利彦、時枝誠之、永田竜雄、畑中蓼波らがテーブルスピーチを行った。
[269] 足立直郎「伊予遊行記」『緑蔭の書卓』交蘭社、1929年、116頁。
[270] 長崎県立長崎図書館郷土資料センターに所蔵されている。この時の住所は「市外雑司ヶ谷高田町六七九」。
[271] 山下聖美「大泉淵氏の証言による林芙美子の臨終場面についての研究」『日本大学芸術学部紀要』63号、日本大学芸術学部芸術研究所、2016年、6頁。「渕」と表記されることもある。
[272] 大泉黒石「関東耶馬渓 鬼怒渓谷」「箒川渓谷」『峡谷を探ぐる』79-106頁。同「鬼怒峡谷」「箒川谿谷」『山と峡谷』二松堂書店、1931年、40-65頁。「紅葉を尋ねて」『現代』10巻11号、1929年、280-283頁。1928年8月16日付の黒石による福田正夫宛書簡(長崎県立長崎図書館郷土資料センター所蔵)。翁久允曰く、「日光に二晩泊まって、宇都宮で講演をやって、それから塩原の温泉へゆこうと言うプログラム」だった(「三人の女 梅太郎の巻」『日米新聞』日米新聞社、1932年3月7日、1頁)。1928年に行われたということの考証は「福田正夫宛書簡の謎」参照。
[273] 福田蘭童『蘭童捕物帳』(四季社、1951年、305頁)によると、西條八十、白鳥省吾、直木三十五もいたという。また、『蘭童つり自伝』(報知新聞社、1966年、196頁)によると新居格もいたという。
[274] 翁六渓(久允)「三人の女 梅太郎の巻」『日米新聞』日米新聞社、1932年3月7-9日、1頁、および志村有弘「大泉黒石の文学と周辺」『近代作家と古典 ──歴史文学の展開──』257頁。ただし福田蘭童『蘭童つり自伝』198頁によると夢二と寒三が喧嘩したことになっている。
[275] 長崎県立長崎図書館郷土資料センターに所蔵されている。この時の住所は「市外雑司ヶ谷高田町六七九」。
[276] 「紅葉を尋ねて」に収録された紀行文の記述はいずれも断片的であり、また黒石の名前も見られないが、黒石の「関東耶馬渓 鬼怒渓谷」「箒川渓谷」との多数の類似点があること、また全く同じ竹久夢二の挿絵を使っていることから、これらは同一の紀行であると考えられる。
[277] 翁久允「日本からの近況報告 三」『日米新聞』1933年12月3日、1頁。
[278] 「黒石廻廊 大泉黒石全集書報No.8」3-4頁。
[279] 泉漾太郎「異端の文豪 大泉黒石」『下野新聞』下野新聞社、1988年4月27日、8頁。
[280] 「加原武門」「日本映画俳優全集 男優編」『キネマ旬報』772号、キネマ旬報社、1979年、164頁。ただし昭和二年に入社したという説もある(『新映画年鑑 2600年度版』豊国社、『日本映画年鑑』大同社の昭和16年、17年度版など)。
[282] 大泉黒石「吾妻渓谷」『峡谷を探ぐる』、72-73頁。
[283] 日本近代文学館所蔵(特別資料)。箱根早雲寺のポストカード。この時の住所は「市外高田町雑司ヶ谷六七九」。
[284] 「漫画漫文 温泉遊行」『現代』10巻6号、1929年、224-237頁。安成二郎「伊香保早春」『白雲の宿』越後谷書房、1943年、253-259頁。大泉黒石「奥多摩渓谷」『峡谷を探ぐる』128頁や「上高地渓谷」『山と峡谷』165頁にも言及あり。
[285] 日本近代文学館所蔵(特別資料)。同書簡は四方田犬彦「大泉黒石が遺した書簡について」『日本近代文学館館報』316号、6頁で紹介されている。なお四方田氏は「どうやら今回は都合で参加できなかったらしい藤田」と述べているが、これは誤り。
[286] 豊島区史編纂委員会編『豊島区史 資料編 四』東京都豊島区、1981年、690-691頁。ほか、秋田雨雀、安西友助、岩田市信、岡田宗司、金子亀吉、倉田潮、布施辰治、光成信男、望月米吉。
[287] 大泉黒石「吾妻渓谷」『峡谷を探ぐる』65-77頁、大泉黒石「吾妻渓谷」「千曲川」『山と峡谷』1-39頁、安成二郎「草津・千曲川」『白雲の宿』259-264頁。
[288] 『峡谷を探ぐる』に収録された「吾妻渓谷」では、長野原で出迎えてくれたのが細野停以下の人々で、草津での出迎えに関する言及はない。一方、『峡谷と温泉』『山と峡谷』等に収録された「吾妻渓谷」では、長野原で出迎えてくれたのは単に「一行を草津へ招いてくれた温泉町の有志」で、草津で出迎えくれたのが細野停以下の人々であったということになっている。
[289] 大泉黒石「上高地渓谷」『山と峡谷』158-167頁。「かれこれ三月ほど前である。例の吾妻渓谷の草津温泉へ一緒に出掛けた立正大学の加藤朝鳥という法外に肥った先生が、草津から帰京するとまもなく「これより上高地へ行く」という手紙を自分によこしたのである。」(161頁)とあるため、この年の8月頃と判断した。
[290] 大泉黒石「箒川谿谷」『峡谷と温泉』二松堂書店、62-65頁。一回目の福渡温泉行の「翌年の秋のくれ」(62頁)とのことなので、この年の晩秋と判断した。またこの後、本書が刊行される1930年6月末までの間にもう一度塩原へ行った(65頁)。
[292] 黒石曰く亀原は「旧友」(『山と峡谷』92頁)。おそらく『血と霊』の頃からか、あるいは労働者時代に日活へ行ったときからの知り合いか。
[293] 平林たい子「林芙美子」『新潮』66巻4号、新潮社、1969年、56頁。
[294] 志村有弘「大泉黒石の文学と周辺」(『近代作家と古典 ──歴史文学の展開──』265頁)によると、『読心術』は「代作であるという」(ただし具体的な根拠は示されていない)。
[295] 「黒石の著書題名と収載小説の再編成について」「黒石廻廊 大泉黒石全集書報No.2」大泉黒石全集刊行会、1988年、4頁。国松春紀「I 大泉黒石著作目録」『大泉黒石・国松孝二・小林勝・豊島与志雄』(深井人詩編集「文献探索人叢書」14、国松春紀書誌選集)、2013年、32頁。
[296] 「ハッピ道中記」『週刊朝日』17巻5号、1930年1月26日、7頁。
[297] 大泉黒石「山の悲劇【一】~【二】」『東京朝日新聞』朝刊、1930年1月26-27日、いずれも5頁。前註と矛盾するが、いずれが正しいのか判断ができないため併記した。
[299] 大泉黒石「山の味谷の香」『である』1巻4号、である社、1932年、61頁。「山の味谷の香」が発表されたのは1932年4月だが、作中の紀行は「本年七月十二日」のこととされている。同紀行は添田知道「赤谷渓谷・三国界隈」(『利根川随歩』)では「昭和六年の七月」のこととされているため、「山の味谷の香」が書かれたのも1931年であると推測できる。ここに「昨年の春」と書かれているため、1930年春のことと判断した。
[300] 関口雄二「春の新鹿沢」(『山小屋』8号、朋文堂、39頁)に「萩(ママ)葉松の密林によって取囲まれた峠の平地、そこには夏になると儀三郎爺さんが大泉黒石氏によって鶯茶屋と名付けられたささやかな丸太造りの山小屋を建てて、此の峠を往来する旅人に渋茶と榾火の素朴なもてなしをしてくれるのだ。」『山小屋』37号(1935年2月、656頁)にも「鳥居峠には最近小説でお馴染の帰去来峠、上田観光協会で建てた標柱が大泉黒石氏の名付ける所謂鶯茶屋と並んでいる」とある。
[301] 『南予時事新聞』1930年3月20日、ただし太田三郎「吉井勇と四国(一)」『学苑』397号、光葉会、1973年、135頁掲載の切り抜きによる。太田氏によると、実際には旅行は4月1日から始まり、そのメンバーは足立直郎、永田龍雄(舞踊家)、水木伸一、吉井勇であったというため、やはり黒石は行かなかったようだ。
[302] 宇田川昭子「新資料紹介 I 田山花袋追悼晩餐会出欠端書」『文学研究パンフレット 花袋とその周辺』4号、文学研究パンフレット社、1986年、65頁。黒石は「十五六日頃より信州の山へ出掛け」るため20日の花袋追悼会を欠席。なお宇田川氏によると、この会は花袋の知己だけでなく、広範な文学関係者が招待されたというため、これをもって花袋と黒石の間に交友があったと断ずることはできない。
[303] 大泉黒石「白砂川渓谷─草津から花敷へ─」『山の人生』大新社、1942年、270頁。以降、この紀行による(『山の人生』262-273頁。初出『都新聞』1930年7月16-19日)。この文章には何年のことであったか記されていないが、「山の苦楽」(『山』1巻8号、梓書房、1934年、34頁)ではこの紀行が「昭和五年初夏」とされていること、この後に行われた紀行を書いた「奥利根渓谷」(『山と峡谷』227-240頁)が「昭和五年夏」のこととされていること、紀行前後の動向等から、この紀行は1930年のことであったと考えられる。
[304] これ以降は大泉清「山干瓢」『草の味』大新社、1943年、108-121頁による。これは「白砂川渓谷─草津から花敷へ─」の続篇というべき紀行文である。
[305] 四万温泉へ下ったが宿泊を断られ、そのまま中之条まで四里(約16km)の道を歩いたというものもあるが(「山の苦楽」『山』1巻8号、35頁)、それまでの行程やその時点の時間を考えると現実的でない。沢渡温泉で一泊というのが妥当だろう。
[306] 町誌みなかみ編纂委員会編「著名人紀行文など」『町誌みなかみ』町誌みなかみ編纂委員会、1964年、1039頁。「又昭和五年六月二十九日は、湯檜曽の本家旅館では、当時の作家大泉黒石を招き、文士による水上温泉紹介を兼ね、当時温泉組合長であった阿部一美、副組合長の国峯栄一両名で、谷川岳西黒沢方面を案内した。」
[307] 大泉黒石「奥利根渓谷」『山と峡谷』227-240頁。ここにも白砂川渓谷登山のことが「一昨日」のこととして書かれている(238頁)。末尾に「昭和五年夏」とある。
[308] 黒石の命名ということについては、以下の田中黒美の紀行文による。「湯檜曽から三町ばかり引き返して大穴から本流に副うて一路川上へとさかのぼる。」「ふと、山合に清水を見つけて腰を下す。/ちろちろと音を立てて道に落ちる流。ふと見れば道下に三軒ばかりの家がある。/「ははあ。これだな。」/自分は独りでこううなずいた。かねて大泉黒石氏から聞いていた。同氏の命名したと言う「思い出の水」と言うのは、これなのだ。/成程うまい工合に、瀧の形をした岩の間から流れる清水は飲みのには丁度いい。これでは、ここに来て、水を飲む。そしてあとで忘れずに、又忘れていても、あそこで飲んだと思い出そうじゃないか、と、その由来を聞いていないだけに、そんな勝手な解釈をつけて見る。」(田中黒美「大倉峡の紅葉」『旅』7巻10号、日本旅行協会、1930年、49-50頁)
[309] 岸大洞「藤原の怪異譚」『藤原風土記』宝川温泉汪泉閣、1977年、214頁。同書123頁に「千代の松」の写真あり。ウェブサイト「日本の松樹」の「「群馬の松」写真集」(http://pinus.eco.coocan.
jp/gunma/page020.html)にも「千代の松」の写真がある。最終閲覧2024年4月2日。
[310] 大泉黒石「谷川嶽」『山と峡谷』241-256頁。末尾に「昭和五年夏」とある。
[311] 江田三郎「私の青年時代」『社会人』164号、社会人社、1962年、58-59頁。江田三郎「私の履歴書」日本経済新聞社編『私の履歴書 第十八集』日本経済新聞社、1963年、74-75頁。
[312] 大泉黒石「鏑川渓谷」『山と峡谷』201-207頁。「上越アルプス探検後」(201頁)とあるため、上記の登山の後のことだろう。末尾に「昭和五年夏」とある。大泉清「富士薊」(『草の味』173-185頁)冒頭に「七月」とある。
[313] 文芸家協会編『文芸年鑑 昭和六年版』新潮社、1931年、232頁。
[314] 「女盗伝」「日活データベース」(https://www.nikkatsu.com/movie/12855.html)、最終閲覧2024年4月2日。ここでは映画の公開日が8月28日とされている。
[315] 泉漾太郎「めぐりあい歌」(『大衆文芸』34巻5号、新鷹会、1974年、13頁)に「主題歌なるものは、前に大泉黒石先生におだてられ、その作品「女盗伝」に、恩師野口雨情の詩囊を藉りて作詩した経験がある」とある。また、泉漾太郎「異端の文豪 大泉黒石」(『下野新聞』下野新聞社、1988年4月27日、8頁)には「日活で映画化した「女盗伝」に私が[黒石に]煽られて作詩した劇中歌が私には主題歌の処女作である」と書かれている(こちらは単に黒石が劇中歌を作るよう勧めただけのようにも読める)。おそらくこれらをうけて、由良君美「混血のディアロゴス宇宙・大泉黒石」(『學鐙』85巻7号、1988年、18頁)においても「昭和五年の『女盗伝』(松竹(ママ))も黒石の台本なのである」とされている。
[316] 大泉黒石「奥谷川谿谷」『山と峡谷』219-226頁。末尾に「昭和五年秋」とある。引き返したというのは大泉黒石「上越アルプス ─三国山脈の横顔─」『山の人生』3頁による。
[317] 大泉黒石「山の味谷の香」『である』1巻4号、60頁。「山の味谷の香」が発表されたのは1932年4月だが、作中の紀行は「本年七月十二日」のこととされている。同紀行は添田知道「赤谷渓谷・三国界隈」(『利根川随歩』)では「昭和六年の七月」のこととされているため、「山の味谷の香」が書かれたのも1931年であると推測できる。ここに「去年の秋」と書かれているため、1930年秋のことと判断した。
[318] おの・ちゅうこう「私の望郷地図(十一) 大泉黒石と上州─放浪の国際的作家─」『群馬風土記』3巻4号、群馬出版センター、1989年、45-46頁。同『青春放浪記 ある詩人の哀歌』創隆社、1980年、105-110頁。いずれも同じ出来事を書いているが、所々差異がある。「私の望郷地図」では谷川温泉、『青春放浪記』では法師温泉にいたとされており、いずれが正確であるかは判断ができなかったため併記した。また、「私の望郷地図」では「九月中旬」に訪れ、「その年の十一月十五日」に黒石が警察署へ連行されたとされている一方で、『青春放浪記』では出来事の時期が明確にされておらず、黒石が警察署へ連行された後に小野の元へ来たとされている。黒石や岸大洞らによる回想から、出来事の時期に関しては「私の望郷地図」の記述にしたがった。
[319] 文芸家協会編『文芸年鑑 一九三二年版』改造社、1932年、666頁。他に「宮崎新三郎」(おそらく宮島新三郎の誤記)、中河与一。
[320] 大泉黒石「法師川渓谷」(『山と峡谷』213頁)、および同「農村断面図」(『政界往来』3巻3号、政界往来社、1932年、115頁)では14日。岸大洞「巡査と雪まみれの組打ちとなった大泉黒石」(「黒石廻廊 大泉黒石全集書報 No.8」5-6頁)、同「藤原の怪異譚」(安達成之、川崎隆章編『藤原風土記』宝川温泉汪泉閣、1977年)、おの・ちゅうこう「私の望郷地図(十一) 大泉黒石と上州─放浪の国際的作家─」では15日。また、郵便局へ行った時に捕まったとしているのが黒石「法師川渓谷」、晩酌後に湯宿温泉へ向かっていた時に捕まったとしているのが岸の両文章である。
[321] 「民政系旅館」が「金田屋」、「政友系旅館」が「湯元館」ということの典拠は大泉清「蔓殊沙華と山牛蒡」『草の味』80頁。
[322] 大泉黒石「法師川渓谷」『山と峡谷』208-218頁。末尾に「昭和五年秋の末」とある。
[323] 岸大洞「巡査と雪まみれの組打ちとなった大泉黒石」、「黒石廻廊 大泉黒石全集書報 No.8」6頁。